玄倉川の岸辺

悪行に報いがあるとは限りませんが、愚行の報いから逃れるのは難しいようです

「世間」あって「社会」なし

2008年04月03日 | 日々思うことなど
ドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」が都内の映画館で上映中止となった。
嫌な話だ。なんだか息苦しくて不安になる。

 東京新聞:『靖国』上映都内は全館中止

国会議員向けの試写会のニュースを聞いたときそれほどの問題とは思わなかった。
「助成金を出した『スポンサー』に試写を見せるのは別にいいんじゃないの」と思い、稲田議員らを批判する人たちはちょっと神経過敏じゃないかと感じた。まさかそれくらいのことで萎縮して上映をやめるような映画館はないだろう、むしろ宣伝になって喜ぶんじゃないか、と呑気に想像していた。

甘かった。日本人の事なかれ意識と「お上」に弱い権威主義をなめていた。
自分の感覚が「世間」とずれていることを改めて思い知らされた。ちなみに、以前自分と「世間」の距離を実感したのは「茶髪を理由とした解雇を撤回させる訴え」を支持したときである。

 少女の勇気
 「茶髪少女」論議と権威主義的パーソナリティー
 アンケートのお願い(ファミレス「茶髪少女」解雇問題について)
 「茶髪少女」解雇問題アンケート集計

上映中止問題についてはこれ以上書きたくない。
言いたいことは新聞の社説(産経を除く)や江川昭子が代弁してくれたし、書いて楽しいような話題でもない。

 「靖国」上映中止、各紙の社説。 - 黙然日記
 Egawa Shoko Journal: この萎縮現象は、表現の自由の自殺行為だ


歴史学者の阿部謹也によれば、日本の「社会」や「個人」は欧米から輸入した実感の持ちにくい作り物であり、多くの日本人は比較的狭い範囲の人間関係である「世間」と半ば一体化して生きているという。

阿部謹也 「日本人の歴史意識」 ―「世間」という視覚から― (岩波新書 新赤版874)

(p4-6)
私たちは皆「世間」の中で生きている。この「世間」は欧米にはないもので、日本独自の生活の形である。
 欧米では十二世紀以降個人が生まれ、長い年月をかけて個人が形成されていった。明治維新の際に日本は欧米の思想や技術を取り入れ、個人の思想をも取り入れた。しかし欧米で数百年かけて形成された個人を一挙に取りいれることは不可能であった。ソサイェティーという言葉に社会という訳語が作られたのが、明治十年のことであり、インディヴィジュアルという言葉に個人という訳語が作られたのが、明治十七年であった。
 しかしそれから現在に至るまで日本で用いられている個人という言葉の実質的内容は欧米のそれとは決定的に異なっており、そのことが不思議なことにほとんど理解されていないのである。なぜなら日本には「世間」という人と人の絆があり、その「世間」が個人を拘束しているからである。私たちは自分の意見を積極的に述べることに得意ではない。特に全体の意見とは異なる自分の意見を述べることに消極的である。なぜなら「世間」の中では目立たないことが大切であり、控えめな態度が求められているからである。服装も態度も「世間」とあわせなければならない。言葉では個性的な生き方は求められていても、現実には顰蹙を買うのである。周囲にあわせて生きてゆく生き方が私たちには求められている。
 「世間」には会則もなければ定款もない。大人になるとひとりでに「世間」の中にはいっている自分に気がつくのである。会社や役所、大学の学部、趣味の集まり、クラブや同窓会などもみな「世間」をなしている。その「世間」は日本人一人一人の行動を拘束するものであり、日本人は自分の振舞いの結果「世間」から排除されることを最も恐れて暮らしている。会社や役所などで不祥事が起こったとき、「世間を騒がせて申し訳ない」と謝罪することがある。個人の不祥事の場合にはこの言葉の前に「自分は無実だ」という言葉がついていることが多い。
 この言葉を欧米の言葉に訳すことはできないのである。欧米では自分が無実なら、そのことが皆に理解されるまで闘うという言葉になるはずである。しかるに日本では無実だといっておきながら謝罪してしまうのである。論理的にこの言葉は欧米の言葉に訳すことはできないのである。この言葉は日本人なら誰も不思議に思わず理解するであろう。しかし欧米人には全く理解できないのは日本人が「世間」を知っており、欧米人は「世間」を知らないためなのである。この場合の「世間」は比較的狭い範囲の人間関係であり、自分が不当に何らかの疑いをかけられたために、自分と関係が深い人々に迷惑をかけたことをまずお詫びしているのである。
 自分の非を認める前に、「世間」に謝罪しているのだが、「世間」に住む人々は事故よりも「世間」を主にして考え、かつ行動しているのである。日本の犯罪にかかわる白書を見ると強盗殺人の原因として借金の返済のために犯行を犯しているケースが多く見られる。借金によって「世間」に借りが生じている状態に耐えられないのである。そのために強盗殺人を犯すということはどうしようもない背理であるが、そこに「世間」のしがらみがある。ここからわかるように「世間」は社会ではなく、比較的狭い範囲の人間関係なのである。「世間」の中で生きている人々は常に視線を「世間」に向けている。
 「世間」の中で生きる人々の行動の原理は三つの原則によっている。贈与・互酬の原則と長幼の序、共通の時間意識である。

(p8)
 「世間」の中で生きてゆくためには何よりもまず上述した三つの原則を守らなければならない。その上で「世間」は社会の現在の秩序を前提としているから、現在の秩序に従って暮らさなければならない。たとえばそれぞれの人の地位に相応しい礼儀・作法を守って付き合うといったことである。協調的な姿勢を常に示し、極端な感情的な行動は慎まなければならない。何らかの意見の表明を求められた時には、できるだけ大勢に従った意見を表明しなければならない。一人だけ突出した意見を述べてはならないのである。

(p9)
 「世間」の中で生きるということは以上のようなことであるが、総じていえば、「世間」で暮らす人は「世間」の人々にのみ視線を向けて暮らしているのである。自分の「世間」以外のことに関心を向けることはほとんどない。しかし人の一生にはさまざまなことが起こる。戦争や災害、病気や事故などが起こったとき、「世間」の人はどう対応するのだろうか。戦争や災害、病気や事故は、「世間」の中に常に位置づけられている現象ではない。原理的にいえばこれらの現象は常に「世間」の外から「世間」の中で生きている人に襲いかかってくる突発的事件として受け止められている。日常生活の中で常にそのような突発的事件に対応すべく準備しているわけではないのである。いい換えれば「世間」の中で生きている人にとっては、これらの事件は「世間」の中に根を持たない外界から突然襲いかかってくるものとして受け止められている。

上映中止を決めた映画館経営者は抽象的に感じられる社会的責任(言論・表現の自由を守る)を捨て、観客の迷惑と会社への被害の可能性を重くみた。先日のプリンスホテルの問題もそうだが、「自分たちの利益さえ守れれば社会的責任などどうでもいい」と思っているようでなさけない。「世間への目配り」はあっても社会的責任感がない。
利己主義は巧妙に隠され、はっきりした考えによる確信犯でもない。だからプリンスホテルは責任逃れの言い訳をし、上映中止を決めた映画館は「どういう危険性を想定したのかをいくら尋ねても、「いろいろ」と言うばかりで具体的な話は何もなかった。何を聞いても、質問に答えようとはせず、判で押したように同じ曖昧な言葉が返ってくるだけ。」(江川昭子)なのだ。