玄倉川の岸辺

悪行に報いがあるとは限りませんが、愚行の報いから逃れるのは難しいようです

朝日がネットに広めた「アインシュタインの予言」

2006年06月09日 | アインシュタインの予言
7日の記事で「『アインシュタインの予言』をGoogleで検索すると約 525 件のヒットがある。「広まっている」というには物足りない数」と書いたけれど、今日もう一度Google検索してみたら、なんと約 39,500 件ものヒットがあった。
間違いなく7日の朝日新聞記事の影響である。最近は「偏向」「お花畑」ぶりを批判されたりからかわれたりすることが多い朝日だけれど、全国紙の影響力はさすがに大したものだ。
中澤教授は「アインシュタインの予言」否定論をすでに半年前にネットで発表しているのにほとんど知られてはいなかった。

当ブログの「アインシュタインの予言」関連記事は事実の検証にはまったく役に立たないのに検索順位で3位になってしまっている。これでは申し訳ないので、せめてリンク集を作っておく。

「アインシュタインの予言」否定派

 朝日新聞記事
  asahi.com:ネットで流行「アインシュタインの予言」、人違い?

 中澤英雄教授
  アルベルト・アインシュタインと日本
  アインシュタインと日本 Part 2
  アインシュタインと日本 Part 3

 「アインシュタインの予言」について検証するブログ
  アインシュタインの予言について

 ★ A Letter from ゆっぴー _φ( ̄▽ ̄ ) -
  アインシュタインを利用する右翼な人がいるの? (´ヘ`;) ハァ
  アインシュタインの予言は事実として信じられているのか?( ̄へ ̄;
  こんなレターを書いたよ_φ(・_・”)その2
  高田さん、たくさんコメントどうもです。(@´_`@)大目に見てネ
  わかってもらえるカナ~ (^u^;) ちぃとツカレタよ
  じゃ、そろそろシメに行きますか~ (´ ▽`) ネ♪♪


「アインシュタインの予言」肯定派

  また「アインシュタインの予言」に文句つけてるよ^^|きちが石根

 Let's Blow! 毒吐き@てっく
  アインシュタインの予言
  アインシュタインの予言だけじゃないよ、わが国を称えてるのは
  アインシュタインの予言について

コンテキスト漂流記

2006年06月09日 | ネット・ブログ論
花岡信昭氏のブログ炎上に関する当ブログの記事に興味深いトラックバックを頂いた。

Dancin’ in the Dark - 「論理的」と見なされること
今の世の中、特にある程度よりも若い層を中心に「論理的」であるかどうかについてのリタラシーが上がっているのかなと。裏返せば、「論理的でない」状態に対する許容度が低くなっているというわけ。
「論理的か否か」という話とはすこしずれるが、「高コンテキスト文化」「低コンテキスト文化」という言葉を思い出した。私は文化人類学や社会心理学について何も知らないので、これから書くことは単なる素人のあてずっぽうである。

■高コンテキスト文化と低コンテクスト文化(Hall, E.T., 1976 Ferraro, G.P., 1990)
人が伝えるメッセージの内容は、言語化された情報とそれがどのような場面で誰に対して発せられたかというコンテキストによって決まる。あまりコンテキストに頼らず、メッセージの大部分が実際の言語表現によって伝達される文化を「低コンテキスト文化」、逆に明確な表現を避け、話されることばよりもコンテキストに重点を置いてお互いに相手の意図を読み取る文化を「高コンテクスト文化」という(Hall, E.T., 1976)。
日本社会は一般に高コンテキスト文化であるといわれている。誰かが何かを言ったときには、その人の立場や隠された意図を読んで対応しなければならない。言葉をそのまま鵜呑みにすると恥をかくことになる。
花岡氏は「人生経験の豊富な大人」として読者にも高コンテキストの理解(言葉足らずでも言いたいことを察してもらえる)を期待したのに、多くの(おそらくは花岡氏よりはるかに若い)読者は「書かれていないことは認めない」という低コンテキストな反応をした。

たぶん花岡氏は「『…。』や『モーニング娘。批判』のような言葉尻にこだわらず、『ジャーナリストとして正しい日本語を守りたい』という思いを理解してほしい(それが理解力のある大人の態度だろう)」とお思いなのだろう。だが読者の多くは「『正しい日本語』を守りたいのなら自分の文章にも厳しい基準を守れ。書いた文章が『間違っている』のだからまずそれを認めて訂正しろ(それができなければジャーナリストとは認めない)」と反発した。

両者のどちらが「正しい」のかを考えても意味がなさそうだが、ネット社会への適応度を比較すると読者のほうが勝っている。
現在のネット社会(ブロゴスフィア)におけるコミュニケーションはテキスト主体であり、書き手は匿名であることがほとんどだ。読者はテキストの内容と質に注意を集中し、それ以外のコミュニケーションはごく希薄である。ネット人口に比べるとはるかに少数の人々が複雑な人間関係を構成している「マスコミ界」の文化と比べると、ネット世界の文化はかなり低コンテキストであるといえる。
格好つけて言えば、異文化間のコミュニケーションギャップがブログ炎上の悲喜劇を生んだ。
格好をつけずに言えば、ネット文化の低コンテキスト性をよく理解していない花岡氏がヘマをやって痛い目にあったのである。

Dancin’ in the Dark の kazu-ct 氏も指摘されているように、「論理的でない文章を書くこと自体がそんなに「悪」なわけでもない」
だが、低コンテキストのコミュニケーションが基本のネット文化(あるいは「空気」)を読めなかったものはブログ炎上の懲罰を受けることになる。炎上参加者の批判コメントの一つ一つは論理的(低コンテキスト)であっても、それが大量に集まって「ネットイナゴ現象」が起きるとリンチとそれほど変わりがない。ブログ炎上で痛い目にあわされるのは言語的というよりむしろ物理的で高コンテキストなコミュニケーションといえる。

「恵みの雨」が度を越して大量に降り注ぐと「集中豪雨」と呼ばる。
「理性的で論理的な批判」が数百個集まると、批判されたブロガーにとっては「数の暴力」としか思えない。
数の増加がいつしか質的変化につながるのは不思議なことである。

* 蛇足として説明すると、このエントリのタイトルは「コンチキ号漂流記」(ハイエンダール)のパロディーである。