悠仁親王殿下ご誕生に際して、「これで40年は」と皇位継承へのあまりにも脳天気な見識を示した自民党総裁候補の一人麻生太郎外相。皇位継承の問題とは我が国の国柄を決する重大至極な問題であるにもかかわらず、しかも皇室とは縁戚でありながら、このような安易なことを軽々しく口にする人物を首相にしてはならないとその時筆者も思ったものである。
元々、麻生という政治家、決して見るべき政治カンというか政治センスを持っているわけではない。最近の政治家で政治センスの無い代表格と言えば、筆者は、元民主党代表岡田克也氏をその筆頭の一人に挙げる。岡田氏ほど致命的ではないにせよ、麻生氏も大したカンやセンスは持っていないと予てより筆者は見ている。2001年の自民党総裁選を思い出したい。小泉総裁が誕生した平成13年の自民党総裁選を思い出したい。総裁選の最中の外国人記者クラブでの会見で、麻生氏はお得意の英語でもって対応した。本人としてはどういう腹づもりだったか知るよしもないが、それに対して小泉純一郎氏は、一応英語らしきものはしゃべれるが、一貫して日本語で対応した。どちらが世論受けしたかは言わずもなが。小泉氏がそれを読んだうえでの日本語だったのか、それとも会見に応じるほどの英会話力もないからそうせざるをえなかったのかは知らない。ただ、麻生氏が英語を使うことによって得られる効果を読み間違えたのは事実で、かえって小泉氏の引き立て役になってしまったのだ。総裁選が始まってから放映された葉巻をくゆらす姿も、格差社会云々がとかく論じられる世情にあって、麻生氏に追い風になるわけなどないのだ。それくらいの計算力もない、いやそれ以前に政治カン、センスのない人間に総理総裁は務まるまい。所詮器ではないのだ。
麻生氏同様、谷垣禎一という人物も、決して総理総裁にしてはいけない男である、と”改めて”痛感した。谷垣氏の場合、麻生氏以上に、総理総裁の職にふさわしくないとすら思うのだ。
まず忘れてはなるまい、平成12年の所謂「加藤の乱」の際の氏のあの醜態を。安手の政治ドラマか学芸会かと見まごうばかりの男たちの涙。筆者は議員先生方が涙にくれる姿をTVで拝見し、思わず笑っった。そして笑った直後にこちらが泣きたくなった。日光サル軍団のサルたちでもきっと赤面してしまうような猿芝居以下の政治ドラマを芝居ではなく地で演じる低レベルな連中を国民の代表としてまた国家の指導的立場にある人間として持つ日本という国の行く末があまりにも心許なくなったのだ。中でもピカイチに醜態を晒してくれたのが、「あんたが大将なんだから!」の谷垣氏であった。あのような無様な政治的敗北、そこに谷垣という人物の政治家としての能力の限界が示されていたのではないか。あれから6年、氏も財務相の要職を務めるなど、政治的に成長したのかもしれぬが、「三つ子の魂百まで」という。あの年になって成長したからと言ってたかが知れようというものだ。決して6年前に氏が示した「限界」を克服するほどの成長ではあるまい。
そして今回の自民党総裁選においても、谷垣氏は一国の総理にふさわしからぬお粗末な歴史観を披露した。
総裁選が始まって以来、谷垣氏と安部氏に歴史認識をめぐる対立が目についてきた。読売の言を借りれば、「『歴史認識は歴史家に委ねるべきだ』などと争点化」を避ける安部氏に対して、「谷垣氏は戦争責任についても『隣国への配慮』を強調し、安倍氏との違いを打ち出そうとしている。」
一寸待てと言いたい。歴史認識問題を総裁選という政治闘争に持ち込むことと、そのタイミングの是非を論ずる以前に、谷垣氏がいう「戦争責任についての隣国への配慮」という言葉に対して、筆者はその意味を理解する能力を持ち合わせてはいない。弁護士資格をお持ちの谷垣先生にこのようなことを言うのはおこがましいことかもしれないが、戦争責任とは戦時国際法や国際条約に照らして追求されるべきものではないのか。と言えば、戦争責任とは法的責任だけではなく、道義的責任をも含むとの反論が聞こえてきそうだが、では道義とは何ぞやと問わねばなるまい。道議などと言い出せば、それこそ主観論のぶつかり合いの堂々巡りになるのが落ちではないのか。かりに多種多様な道徳観、倫理観、価値観の混在するにもかかわらずこの世界に共通の道義が存在したとして、その道義に反する行為が必然的に責任を伴うものだというのか。法として認知し認知されたものを犯せば、そこには罰則を受けるなどの責任が発生しようが、道義的にもとる行為が他者による非難を不可避にするものであったとしても、責任までをも伴うものなのかとなると、これまた喧喧諤諤の結果となろう。そうなれば、歴史カードで対日外交を有利に進めんと目論む「隣国」を利するたけではなかろうか。
筆者は、法的な意味における所謂「戦争責任」なるものに関して、少なくとも「隣国」との関係でいえば、すべて解決積みであるとの立場を取る。負う必要のない責任まで負わされて、余計な身銭を払わされたとすら思っている。日韓基本条約などまさにその好例だ。謝らずともよいことに頭を下げ、くれてやらずともよい大枚をくれてやって、いまだ叩かれ罵られ続ける有様だ。先方は、戦争責任問題のけじめとしての賠償問題はいまだ未解決との立場を取るが、笑止なことである。総理総裁候補たる立場にあって、谷垣氏がかりに法的な意味においても「戦争責任についての隣国への配慮」などと言っているのであれば、それはゆすりたかりの類に与するの行為であると知るべきである。
戦争責任が法的なものにしろ、かりに道義的なものにしろ、それを我が国が一方的に負うべきものではあるまい。我が国は南北朝鮮に対する戦争責任を有しない。戦争状態にあった隣国と言えば大陸だが、大陸との戦にしても、我が方ばかりが法的あるいは道義的に責め立てられるのは片手落ちに過ぎる。松の廊下での刃傷に対する公儀の仕置きへの赤生義士の片手落ちとの憤りを義とするのであれば、大陸や国内の一部勢力の我が国の戦争責任への糾弾もまた片手落ちとの認識を持つべきではないのか。
また、歴史認識への『隣国への配慮』をいうのであれば、同時に己の歴史認識こそ絶対唯一のものとして我が国をその前に跪かせようとする近隣諸国に対しても「我が国への配慮」を求めるべきではないのか。向こうの歴史認識に明らかな事実の誤認や歪曲があることを谷垣氏も知らぬではあるまいし、いかに村山談話に「賛成」しているからと言って、先方の歴史認識にまで諸手をあげて賛同しているわけではなかろう。さもなくば、そのような偏った歴史観を持つ政治家に国の舵取りを委ねるわけにはいくまい。
率直に言って「隣国への配慮」を訴える谷垣氏の歴史観は、それこそ「ガキ」レベルと言わざるをえない。まさに谷ガキなのだ。再び読売新聞によれば、「谷垣氏は18日のJR池袋駅前での街頭演説で、昭和戦争について『日本が中国に軍隊を送り、中国の方がたくさん亡くなったのは事実だ。お隣の国民感情を尊重しなければならないのは、はっきりしたことだ』と訴えた」とのこと。
そもそも読売の「昭和戦争」という名称自体気に入らない。昭和のはじめの20年間に起こった戦争を十把一絡げに「昭和戦争」と呼ぶのであれば、明治にあった日清・日露の戦争は「明治戦争」と呼ぶべきとでもいうのであろうか。因果関係ということで言えば、日清、日露は決して無関係ではあるまい。ただ昭和戦争にしる明治戦争にしろ、そうした大雑把な括り方をし過ぎると「15年戦争」という名称同様、かえって歴史認識に歪みをもたらし歴史を正視することを難しくしてしまう恐れもなくはない。読売新聞は歴史学者ではないからそうした大雑把も許容範囲と言えばそれまでかもしれぬが、いやしくも社会に多大な影響力を持つ大メディアが社を挙げての歴史検証を行う以上、歴史学者ではないから、素人だから、という言い逃れは通じまい。もっとも、転向者のナベツネの音頭取りで始まった歴史検証である。筆者は転向した人間をその利用価値は認めても心底信用はしない。一度転んだ人間が再び転ばぬという保証がどこにあるのだ。転ばれた方から見れば、転向者すなわち裏切り者である。一度一を裏切った人間が再度裏切らぬなどという保証がどこにあるというのだ。ナベツネ氏、代々木に跪きそして背を向けた理由をたしか「文藝春秋」か何かで語っていたが、口の達者なお方だ。口では何とも言えるが、転向者の「言い訳」ことなど信用できるか!その転び歴のあるナベツネのしたことである、存命中にまたぞろころりと踵を返すように歴史認識のスタンスを変え、「○○戦争」なというわけのわからぬ名称を言い立てるやもしれぬ。
話が逸れた。転向者のナベツネや読売のことなどではない、谷垣氏の「ガキ」並みの歴史感について語らねばならない。
日本が中国に軍隊を送り、中国の方がたくさん亡くなったのは事実だ。
確かに二つとも事実だ。軍を適地の入れたのは向こうではなくこっちだ。より多くの犠牲者を出した(とされているのも)こっちではなく、向こうだ。
だから何だというのだ?(笑) 単純にどちらが軍を進め、どちらがより多くの犠牲者を出したかによって、歴史認識をめぐって配慮する側とされる側が決定されるというのであろうか。そのようなばかげた話は飯を吹き出さずには聞いておれない。かりに谷垣セオリーが正しいとすれば、沖縄に侵攻した米国は、よりも多くの犠牲者を出した日本の歴史認識を尊重せねばならない、一方的に侵攻したドイツの歴史認識を尊重せねばならない、ということになる。では、シンガポール攻略の場合はどうなるのだろう。攻め込んだのは日本軍。一方、より多くの死傷者を出したのも日本軍。この場合、谷垣セオリーをどう適用したら良いのだろうか?街頭演説だからというところを大目に見たとして、「谷垣さん、あなた正気ですか?」のレベルのくだらない議論ということには変わりあるまい。あえて救いの無い拙論とまでは言わないが・・。
総理総裁不適格者のなかでも、「歴史責任に関する政府見解をまとめる可能性について『そんな簡単にはいかない』」(読売 9月18日)とした麻生氏の方が、一寸はまとものような気がしないでもない。
とダラダラと書き連ねているうちに、安部ちゃんが総裁になっていた。安部政権が今後どれほど続くのか知らないが、「ポスト安部」は脳天気麻生か「谷ガキ理論」の「泣き」の谷垣なんてことになったら、世も末である。そうなるくらいなら、安部政権で天下大乱、政界再編となってくれた方が救いがあるかもしれない。
続く
元々、麻生という政治家、決して見るべき政治カンというか政治センスを持っているわけではない。最近の政治家で政治センスの無い代表格と言えば、筆者は、元民主党代表岡田克也氏をその筆頭の一人に挙げる。岡田氏ほど致命的ではないにせよ、麻生氏も大したカンやセンスは持っていないと予てより筆者は見ている。2001年の自民党総裁選を思い出したい。小泉総裁が誕生した平成13年の自民党総裁選を思い出したい。総裁選の最中の外国人記者クラブでの会見で、麻生氏はお得意の英語でもって対応した。本人としてはどういう腹づもりだったか知るよしもないが、それに対して小泉純一郎氏は、一応英語らしきものはしゃべれるが、一貫して日本語で対応した。どちらが世論受けしたかは言わずもなが。小泉氏がそれを読んだうえでの日本語だったのか、それとも会見に応じるほどの英会話力もないからそうせざるをえなかったのかは知らない。ただ、麻生氏が英語を使うことによって得られる効果を読み間違えたのは事実で、かえって小泉氏の引き立て役になってしまったのだ。総裁選が始まってから放映された葉巻をくゆらす姿も、格差社会云々がとかく論じられる世情にあって、麻生氏に追い風になるわけなどないのだ。それくらいの計算力もない、いやそれ以前に政治カン、センスのない人間に総理総裁は務まるまい。所詮器ではないのだ。
麻生氏同様、谷垣禎一という人物も、決して総理総裁にしてはいけない男である、と”改めて”痛感した。谷垣氏の場合、麻生氏以上に、総理総裁の職にふさわしくないとすら思うのだ。
まず忘れてはなるまい、平成12年の所謂「加藤の乱」の際の氏のあの醜態を。安手の政治ドラマか学芸会かと見まごうばかりの男たちの涙。筆者は議員先生方が涙にくれる姿をTVで拝見し、思わず笑っった。そして笑った直後にこちらが泣きたくなった。日光サル軍団のサルたちでもきっと赤面してしまうような猿芝居以下の政治ドラマを芝居ではなく地で演じる低レベルな連中を国民の代表としてまた国家の指導的立場にある人間として持つ日本という国の行く末があまりにも心許なくなったのだ。中でもピカイチに醜態を晒してくれたのが、「あんたが大将なんだから!」の谷垣氏であった。あのような無様な政治的敗北、そこに谷垣という人物の政治家としての能力の限界が示されていたのではないか。あれから6年、氏も財務相の要職を務めるなど、政治的に成長したのかもしれぬが、「三つ子の魂百まで」という。あの年になって成長したからと言ってたかが知れようというものだ。決して6年前に氏が示した「限界」を克服するほどの成長ではあるまい。
そして今回の自民党総裁選においても、谷垣氏は一国の総理にふさわしからぬお粗末な歴史観を披露した。
総裁選が始まって以来、谷垣氏と安部氏に歴史認識をめぐる対立が目についてきた。読売の言を借りれば、「『歴史認識は歴史家に委ねるべきだ』などと争点化」を避ける安部氏に対して、「谷垣氏は戦争責任についても『隣国への配慮』を強調し、安倍氏との違いを打ち出そうとしている。」
一寸待てと言いたい。歴史認識問題を総裁選という政治闘争に持ち込むことと、そのタイミングの是非を論ずる以前に、谷垣氏がいう「戦争責任についての隣国への配慮」という言葉に対して、筆者はその意味を理解する能力を持ち合わせてはいない。弁護士資格をお持ちの谷垣先生にこのようなことを言うのはおこがましいことかもしれないが、戦争責任とは戦時国際法や国際条約に照らして追求されるべきものではないのか。と言えば、戦争責任とは法的責任だけではなく、道義的責任をも含むとの反論が聞こえてきそうだが、では道義とは何ぞやと問わねばなるまい。道議などと言い出せば、それこそ主観論のぶつかり合いの堂々巡りになるのが落ちではないのか。かりに多種多様な道徳観、倫理観、価値観の混在するにもかかわらずこの世界に共通の道義が存在したとして、その道義に反する行為が必然的に責任を伴うものだというのか。法として認知し認知されたものを犯せば、そこには罰則を受けるなどの責任が発生しようが、道義的にもとる行為が他者による非難を不可避にするものであったとしても、責任までをも伴うものなのかとなると、これまた喧喧諤諤の結果となろう。そうなれば、歴史カードで対日外交を有利に進めんと目論む「隣国」を利するたけではなかろうか。
筆者は、法的な意味における所謂「戦争責任」なるものに関して、少なくとも「隣国」との関係でいえば、すべて解決積みであるとの立場を取る。負う必要のない責任まで負わされて、余計な身銭を払わされたとすら思っている。日韓基本条約などまさにその好例だ。謝らずともよいことに頭を下げ、くれてやらずともよい大枚をくれてやって、いまだ叩かれ罵られ続ける有様だ。先方は、戦争責任問題のけじめとしての賠償問題はいまだ未解決との立場を取るが、笑止なことである。総理総裁候補たる立場にあって、谷垣氏がかりに法的な意味においても「戦争責任についての隣国への配慮」などと言っているのであれば、それはゆすりたかりの類に与するの行為であると知るべきである。
戦争責任が法的なものにしろ、かりに道義的なものにしろ、それを我が国が一方的に負うべきものではあるまい。我が国は南北朝鮮に対する戦争責任を有しない。戦争状態にあった隣国と言えば大陸だが、大陸との戦にしても、我が方ばかりが法的あるいは道義的に責め立てられるのは片手落ちに過ぎる。松の廊下での刃傷に対する公儀の仕置きへの赤生義士の片手落ちとの憤りを義とするのであれば、大陸や国内の一部勢力の我が国の戦争責任への糾弾もまた片手落ちとの認識を持つべきではないのか。
また、歴史認識への『隣国への配慮』をいうのであれば、同時に己の歴史認識こそ絶対唯一のものとして我が国をその前に跪かせようとする近隣諸国に対しても「我が国への配慮」を求めるべきではないのか。向こうの歴史認識に明らかな事実の誤認や歪曲があることを谷垣氏も知らぬではあるまいし、いかに村山談話に「賛成」しているからと言って、先方の歴史認識にまで諸手をあげて賛同しているわけではなかろう。さもなくば、そのような偏った歴史観を持つ政治家に国の舵取りを委ねるわけにはいくまい。
率直に言って「隣国への配慮」を訴える谷垣氏の歴史観は、それこそ「ガキ」レベルと言わざるをえない。まさに谷ガキなのだ。再び読売新聞によれば、「谷垣氏は18日のJR池袋駅前での街頭演説で、昭和戦争について『日本が中国に軍隊を送り、中国の方がたくさん亡くなったのは事実だ。お隣の国民感情を尊重しなければならないのは、はっきりしたことだ』と訴えた」とのこと。
そもそも読売の「昭和戦争」という名称自体気に入らない。昭和のはじめの20年間に起こった戦争を十把一絡げに「昭和戦争」と呼ぶのであれば、明治にあった日清・日露の戦争は「明治戦争」と呼ぶべきとでもいうのであろうか。因果関係ということで言えば、日清、日露は決して無関係ではあるまい。ただ昭和戦争にしる明治戦争にしろ、そうした大雑把な括り方をし過ぎると「15年戦争」という名称同様、かえって歴史認識に歪みをもたらし歴史を正視することを難しくしてしまう恐れもなくはない。読売新聞は歴史学者ではないからそうした大雑把も許容範囲と言えばそれまでかもしれぬが、いやしくも社会に多大な影響力を持つ大メディアが社を挙げての歴史検証を行う以上、歴史学者ではないから、素人だから、という言い逃れは通じまい。もっとも、転向者のナベツネの音頭取りで始まった歴史検証である。筆者は転向した人間をその利用価値は認めても心底信用はしない。一度転んだ人間が再び転ばぬという保証がどこにあるのだ。転ばれた方から見れば、転向者すなわち裏切り者である。一度一を裏切った人間が再度裏切らぬなどという保証がどこにあるというのだ。ナベツネ氏、代々木に跪きそして背を向けた理由をたしか「文藝春秋」か何かで語っていたが、口の達者なお方だ。口では何とも言えるが、転向者の「言い訳」ことなど信用できるか!その転び歴のあるナベツネのしたことである、存命中にまたぞろころりと踵を返すように歴史認識のスタンスを変え、「○○戦争」なというわけのわからぬ名称を言い立てるやもしれぬ。
話が逸れた。転向者のナベツネや読売のことなどではない、谷垣氏の「ガキ」並みの歴史感について語らねばならない。
日本が中国に軍隊を送り、中国の方がたくさん亡くなったのは事実だ。
確かに二つとも事実だ。軍を適地の入れたのは向こうではなくこっちだ。より多くの犠牲者を出した(とされているのも)こっちではなく、向こうだ。
だから何だというのだ?(笑) 単純にどちらが軍を進め、どちらがより多くの犠牲者を出したかによって、歴史認識をめぐって配慮する側とされる側が決定されるというのであろうか。そのようなばかげた話は飯を吹き出さずには聞いておれない。かりに谷垣セオリーが正しいとすれば、沖縄に侵攻した米国は、よりも多くの犠牲者を出した日本の歴史認識を尊重せねばならない、一方的に侵攻したドイツの歴史認識を尊重せねばならない、ということになる。では、シンガポール攻略の場合はどうなるのだろう。攻め込んだのは日本軍。一方、より多くの死傷者を出したのも日本軍。この場合、谷垣セオリーをどう適用したら良いのだろうか?街頭演説だからというところを大目に見たとして、「谷垣さん、あなた正気ですか?」のレベルのくだらない議論ということには変わりあるまい。あえて救いの無い拙論とまでは言わないが・・。
総理総裁不適格者のなかでも、「歴史責任に関する政府見解をまとめる可能性について『そんな簡単にはいかない』」(読売 9月18日)とした麻生氏の方が、一寸はまとものような気がしないでもない。
とダラダラと書き連ねているうちに、安部ちゃんが総裁になっていた。安部政権が今後どれほど続くのか知らないが、「ポスト安部」は脳天気麻生か「谷ガキ理論」の「泣き」の谷垣なんてことになったら、世も末である。そうなるくらいなら、安部政権で天下大乱、政界再編となってくれた方が救いがあるかもしれない。
続く
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