くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

障害者と性の問題: 社会のために、そして障害者本人たちのために

2011年11月07日 | Weblog

本日ある書店にて目撃した光景に、考えさせられてしまった。

雑誌を立ち読みしていた(すみません)私の背後で、一人の男性がもう一人に「破いてしまっただから、買わなきゃだめですよ」。 それに対してもう一方は何か言っていたよだが、良く聞き取れなかった。

が、明らかに言われた方は、知的障害者であった。

ちらと見たところ、どうも知的障害者の後者の男性が写真誌か何かの袋とじ写真を破り開けて見た後に、再び本棚に戻したらしく、それを見咎めた前者が「破った以上は買え」と注意したらしいのだ。

障害者の男性はその後「すみません」を繰り返してその場を立ち去ってしまったため、もう一人は写真誌をすぐ目と鼻の先のレジに持っていき、事情を説明していたが、どうもその後も障害者は店内を歩き回っていた様子で、私が店内の別の場所で目撃したところでは、障害者の写真を持った店員が尾行するかのように彼のあとを付けていた。どうやら防犯カメラがとらえた障害者の映像を印刷したもののようであった。

この「事件」に出くわして、私がまず最初に考えたのは、私だったらどうしたかであった。もし私が障害者の行為を見咎めたら、どうしただろうか。いや、どうsべきだったのか。見逃したのか、それとも上述の男性のように一言いうべきだったのか。

今私が思うのは、やはり見逃すべきではないということだ。どうやらあの障害者は自分のしたことの非を理解できるだけの知的能力を持っていたように見受けられた。であればこそ、男性にとがめられ「すみません」と言ったのだろう。しかも、その場から「逃げる」という知恵も持ち合わせていたのだ。判断能力という点において、不足はないと思うのだ。

もし能力が十分でないとすれば、何故そのような人間を一人歩きさせていたのか。親など家族の責任が問われてしかるべきであろう。

さもいなくば、書店としては軽微な損害とはいえ、同様のケースが繰り返されればたまったものではない。

それとも障害者と共生するための社会的コストとして寛容に考えるべきなのか? 障害者に「不正」を働いているという自覚がある場合は、その類ではなきと思う。それに今回のケースは、私見では判断能力なしとは見えなかった。 謝罪し、しかも「逃走」するばかりか、ぞれ以前に袋とじを開ければ・・という知恵・知識すら持っていたのである。まさか、これを本能のなせるわざで片付けるわけにもいくまい。

その本能という部分に関連して、更に帰宅後考えたことは、障害者の性という問題である。障害者といえども、性的に正常である場合、その処理が問われざるを得ない。欧州などでは障害者の性処理をボラティアが「請け負う」制度を持つ国もあるとか。一体どのような考えでそのようなボランティア活動に参加できるのか、いろいろな意味で興味のあるところだが、そうした制度の是非はさておき、障害者の性処理を放置しては、それが「不幸」な出来事につながる可能性も否定できまい。

今回の男性の場合も、性衝動のなせるわざではなかったのか。 袋とじをこじ開けるという行為で済んだからよいようなものの、そ衝動が生身の女性に対して向けられたとすれば、これは弁償しろしないというレベルでは済まない話になる。

昔から「断種してしまえ」という結論も選択の一つであり得たのかもしれないが、今どきそんなことを公に言いでもしたら、袋叩きにあいかねない。だが、ではどうすべきなのか。

率直に言えば、男性は上述の行為により自らが「性犯罪者予備軍」であることを証明したのではないのか。ならば、この自制心の疑わしい「予備軍」をどう社会的に扱うべきか、公共の福祉という観点から言えば、「断種」なり「隔離」は今現在でも選択の一つとして考慮されるべきものであると思うのだが・・・。

昔知人から聞いた話を思い出す。近所の軽い知的障害を持つ男性が兄嫁の妹と結婚することになった。どうやら男性の両親が兄嫁の側に持ちかけた「縁談」だったらしのだが、兄嫁の家族がその際に持ち出した条件が「パイプカット」であった。子供ができた場合に万一のことがあってはとの考えであったらしい。

海外ではパイプカットしたのに女房が妊娠したため大騒ぎになり、DNA検査までしたところ、正真正銘夫の子だったというケースもあるらしいが(とそのパイプカット氏の弟から直接聞いた)、場合によっては知的障害者にパイプカットを施すという選択は「あり」なのではないだろうか。

一件残酷に見えて、実は、社会や家族のみならず、本人にとっても幸せなことではないのか。

ただ、このパイプカットにも限界はある。なぜなら、それが性欲までをもカットしてしまうわけではなく、知的障害者の性犯罪の可能性を減じる手段にはなり得ないからである。

障害者と性の問題、個人として社会としてしっかりと向き合うべき問題なのかもしれない、いやそうに違いないと思った一日でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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