くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

映画「山本五十六」IV: 伊武雅刀という「金太郎飴役者」

2011年12月31日 | Weblog

南雲もひどいけど、永野もひどい。

 

あの永野修身は一体、どっから出てきた演出というか演技なのだろうか。

演出ならば演者としてはそれに従うしかないのだろうが、海軍内部の人物評とは随分異なる永野であった。

もし伊武本人、長野の評伝とかを読んで研究したうえで、演出に従ったというのであれば、結構しんどい役がらだったのではないだろうか。

見方をかえれば、何をやっても伊武雅刀。 近年この人がやる役は、衣装こそ違えども、キャラ的には同じ。白衣を着ても、裃着けても、軍服来ても。

こんなに安っぽい役者だったかねえ、この人?

デスラー総統からスネークマンショー、そして今。

今じゃあ、何と言うか何をやらせても同じ調子の「金太郎飴」役者に成り下がった。

役者も食っていかねばならないのはわかるが、毎度同じようなキャラしか期待されないのであれば、もう少し仕事を選べということになる。

そうではなくて、ああでしか演じられないというのであれば、今更あの歳で演技力の伸びしろなんかもう無いだろうから・・。 そろそろ現役引退ですか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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映画「山本五十六」III: 南雲忠一の描き方にみる制作サイドの勉強不足

2011年12月31日 | Weblog

監督、脚本家を含め製作スタッフの不勉強のせいなのか?

南雲忠一に対する批判的な描き方があまりにも一方的過ぎる。

堀悌吉をめぐる南雲と山本の関係や、真珠湾での第二派攻撃、ミッドウェーにおける南雲の行動については諸説ある。南雲擁護論も根強くある。南雲を司令官につけたのも必ずしも山本の意に反するものではなかったという説もある。が、今回それらは一切無視で、まるで南雲が山本の司令を常に無視し、軍令部総長永野修身の意に従って行動し続けたかのように描いている。ミッドウェーにおいて南雲は確かに山本の指示に従わなかったところもある。しかしながら、あの描き方はヒド過ぎる。映画なら何をやってもゆるされるというものではあるまい。

あれではミッドウエーの失敗は南雲に帰するように見えてしまう。 真珠湾の場合も、第二派攻撃をかけなかったことの判断ミスを問う声が出て当然だろうが、そもそも真珠湾攻撃の対象はハワイ基地ではなく、米国太平洋艦隊だったのだから、基地施設を攻撃しなかったと批判するのは、軍人としてに行動のあるべきを無視した暴論かもしれない。言いかえれば、山本は、ハワイの軍関係施設の攻撃を命じてはいない。もっとも、南雲が太平洋艦隊を狭義に解釈し、山本が広義に想定していたという見方も可能だろうが、その点意思疎通の問題であり、とすれば南雲のみにその責を問うのは片手落ちというものだ。

いたずらにムチ打たれて南雲も今頃あの世で何を思っているであろうか・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

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映画「山本五十六」II: 描かれた「史観」には必ずしも納得できない・・

2011年12月31日 | Weblog

冒頭での近衛師団の将兵による海軍省に対する威嚇。

これでまずは既に流布済みの陸軍悪玉、海軍善玉論という基調が見る側に刷り込まれる。さもなくば、あのシーンは不要であった。ましてや冒頭に。

もっとも、そこまで単純二分法的には描いていない。三国同盟問題では海軍内の同盟締結支持派、南進論推進派の存在を描いているが、やはり最初の刷り込みは大きい。

米内の描き方も不満だ。 トラウトマン工作に際して、米内、海軍は何をしたのか。特に陸軍に対して。この点における海軍の「責任」は重大であると私は思っている。米内という人物を好きになれない理由の一つもそこにある。なにがしか宮沢喜一に似た臭いを嗅ぎ取ってしまうのだ。

この映画半藤利一氏の著書が下敷になっているようだが、半藤史観にはどうもいただけないところがある。司馬遼太郎が昭和戦前期を語る際も当事者としての「感情」が随分露骨ににじみ出ているが、半藤氏の場合も同様。氏の山本に対する「傾倒」には極めて「私」的なものすら感じてしまうのは、私だけではあるまい。

研究者のレベルでも、人物研究というのは、そこが難しい。研究対象である人物に個人的な思い入れがある場合、どうしても考察の「目」が主観という「霞」に曇らされてしまうものなのだ。なかには露骨な資料改ざんまでやってのけて自説を展開した研究者も個人的には知っている。そしてその御仁の改ざん・歪曲に基づく説が、それなりに支持されていることも。

真珠湾攻撃の不徹底やミッドウエーでの失態を永野・南雲ラインの思惑に収斂させたかのような描き方もいかがかと思う。その点において山本の構想や指示が意図的に実行に移されなかったというのであれば、草鹿という人物をもっと描くべきではなかったのか。しかしそれ以前に、山本の作戦指導自体にそもそもの問題があったとする立場からそれば、この映画の一方的な描き方は、決して矮小化できない問題だ。特に映像の影響力を考えたら、看過できるものではないはずだ。

研究者の間でも議論の一致を見ない問題を安易に一方的な視点からのみ描こうとした、この映画最大の欠点であることは間違いあるまい。

たしかに山本すなわち「平和主義者」とは描いていないし、満州事変以来の大陸政策そのものへの批判者としても描いてはいない。だが、その点については実にさらっと流していた点は、意図的に山本=対米開戦反対論者、=平和を希求しながら果たせなかった悲劇の将軍という作り手の思惑というか歴史認識が透けて見えて、「それは歪曲と言われてもしかたがないだろう」と感じた。山本が対米非線論者であることについて異論はあるまいが、戦後において「軍国主義」、「侵略」と批判された戦前期の対外政策に対して山本が常に批判者であったわけではないことは、やはりしっかりと正面から描くべきだった。

そのうえでの山本論でなくして、どうして正当に評価できようか。

「卑怯」とはいうまいが、どうもその点腰が引けたというか、山本という題材を戦後思潮に矛盾しないように描きたいという史実とは無関係な思惑が、事実上歴史の歪曲に手を染めた、この映画がそういう類のシロモノであることは、ここではっきり述べておきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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映画「山本五十六」 I: 役所広司を見直した

2011年12月31日 | Weblog

これまで役所という役者にはあまり興味がなかった。

その一つが、「役所」という芸名。何を隠そう、私は役所が苦手である。市役所、区役所、県庁そして霞が関、どういうわけか、役所という場所に入ると曰く言い難い共通の臭いがするのだ。

あの臭いがどうも生理的にダメなのだ。

二つ目に、彼の顔の濃さ。時代劇には合わない顔だと思ってきたし、それは今もかわらない。

でも、今回の「山本五十六」は、実物とは似てはいないが、良かったと思う。

描き足りない部分もあったと思う。例えば、山本の甘いもの好きが繰り返し描かれる一方で、彼のギャンブル好きは「モナコ」だけ。女性関係もまったく出てこなかった。

それは映画の主旨に関係ないから? ならば、なぜ甘い物好きを描く必要があったのか?

この部分の問題は、役所の演技にあるのではなく、脚本の問題だ。

そうした作品自体の欠点にもかかわらず、役所の山本は今までの山本の中ではよく描き込んだものの一つではないのか。

かつての山本といえば三船だが、三船のあの力んだようなつねにみけんにしわをよせたような山本は「ミフネ」でしかなかった。何をやっても「キムタク」なんて言われる役者なんかと三船を一緒にしたくはないが、三船の真骨頂はやはり浪人もの等の類であって、ベタ金や明治天皇ではないように思える。

山村総は「トラトラトラ」で、小林桂樹も「連合艦隊」で演じたことがあったし、TVでは古谷一行が演じているが、そのなかでは山村が一番ニンだったかもしれない。

それに比べて役所はよくやったと思う。

それにしても、山本五十六という人物、演じる側にとってはさぞや難しい役であろうと改めて思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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宮あおいの落日

2011年12月31日 | Weblog

今が絶頂期なんじゃないだろうか、この女優。

いや、もしかしたら、もう峠を下り始めたのかもしれない。

離婚騒動をさておいても、この女優にはそもそもの限界がある。

それは「見た目」だ。

不細工ではない。

でも、色気がない。大人の女の色気がない。

あの顔形ではこれからも無理だ。かりに今以上にオンナとしての遍歴を経たとしても無理だろう。

似たケースが「家なき子」の安達某。まあ彼女の場合は、あの顔を含めたからだの作り全体のバランスの悪いさからしてある種の滑稽さすらすらあるが、宮にはそれはない。が、大人の色気が欠如している、セックスアピールがないという点では、共通している。

そうなると歳を重ねるにつれて、こなせる役柄にも限界が出てくる。 そうなれば仕事の幅も狭まり、露出も減ることになる。

演技力に磨きをかけて大竹しのぶのような路線を行くしかないと思う。とても彼女がかつての樋口可南子や高島礼子やらの路線、岩下志麻、吉永小百合のような路線を歩めるとは思えない。路線選択を誤れば、岸本某みたいにしだいに消えていくことになるのではないだろうか。

ちなみに、私は「サユリスト」の心理が理解できない。自分自身さほど豊富な女性経験があるわけではないが、「サユリスト」というのはそういうのが乏しい連中が多いのではないかと思う。彼女に私は何ら異性としての興味をそそられないのだ。所謂フェロモンみたいなものを感じない。今時ではなく昔のオンナを知らない童貞君たち、オンナを知ってもそれが今の古女房たった一人なんていうオジ様方が理想化しがちな女性像に吉永という女優はうまくおさまるのではないだろうか。

あの顔かたちで濡れ場を演じられても、ロリコン趣味でもなければ興味をそそられることもないのではないのか?

離婚して、お荷物とオサラバ、これでせいせいと思っているのかもしれないが、まあ、彼女の女優としての行く末はそうは開けてはいないし、開かれることもさほどないだろうと思ったりして見る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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