くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

映画「山本五十六」II: 描かれた「史観」には必ずしも納得できない・・

2011年12月31日 | Weblog

冒頭での近衛師団の将兵による海軍省に対する威嚇。

これでまずは既に流布済みの陸軍悪玉、海軍善玉論という基調が見る側に刷り込まれる。さもなくば、あのシーンは不要であった。ましてや冒頭に。

もっとも、そこまで単純二分法的には描いていない。三国同盟問題では海軍内の同盟締結支持派、南進論推進派の存在を描いているが、やはり最初の刷り込みは大きい。

米内の描き方も不満だ。 トラウトマン工作に際して、米内、海軍は何をしたのか。特に陸軍に対して。この点における海軍の「責任」は重大であると私は思っている。米内という人物を好きになれない理由の一つもそこにある。なにがしか宮沢喜一に似た臭いを嗅ぎ取ってしまうのだ。

この映画半藤利一氏の著書が下敷になっているようだが、半藤史観にはどうもいただけないところがある。司馬遼太郎が昭和戦前期を語る際も当事者としての「感情」が随分露骨ににじみ出ているが、半藤氏の場合も同様。氏の山本に対する「傾倒」には極めて「私」的なものすら感じてしまうのは、私だけではあるまい。

研究者のレベルでも、人物研究というのは、そこが難しい。研究対象である人物に個人的な思い入れがある場合、どうしても考察の「目」が主観という「霞」に曇らされてしまうものなのだ。なかには露骨な資料改ざんまでやってのけて自説を展開した研究者も個人的には知っている。そしてその御仁の改ざん・歪曲に基づく説が、それなりに支持されていることも。

真珠湾攻撃の不徹底やミッドウエーでの失態を永野・南雲ラインの思惑に収斂させたかのような描き方もいかがかと思う。その点において山本の構想や指示が意図的に実行に移されなかったというのであれば、草鹿という人物をもっと描くべきではなかったのか。しかしそれ以前に、山本の作戦指導自体にそもそもの問題があったとする立場からそれば、この映画の一方的な描き方は、決して矮小化できない問題だ。特に映像の影響力を考えたら、看過できるものではないはずだ。

研究者の間でも議論の一致を見ない問題を安易に一方的な視点からのみ描こうとした、この映画最大の欠点であることは間違いあるまい。

たしかに山本すなわち「平和主義者」とは描いていないし、満州事変以来の大陸政策そのものへの批判者としても描いてはいない。だが、その点については実にさらっと流していた点は、意図的に山本=対米開戦反対論者、=平和を希求しながら果たせなかった悲劇の将軍という作り手の思惑というか歴史認識が透けて見えて、「それは歪曲と言われてもしかたがないだろう」と感じた。山本が対米非線論者であることについて異論はあるまいが、戦後において「軍国主義」、「侵略」と批判された戦前期の対外政策に対して山本が常に批判者であったわけではないことは、やはりしっかりと正面から描くべきだった。

そのうえでの山本論でなくして、どうして正当に評価できようか。

「卑怯」とはいうまいが、どうもその点腰が引けたというか、山本という題材を戦後思潮に矛盾しないように描きたいという史実とは無関係な思惑が、事実上歴史の歪曲に手を染めた、この映画がそういう類のシロモノであることは、ここではっきり述べておきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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