くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

宮あおいの落日

2011年12月31日 | Weblog

今が絶頂期なんじゃないだろうか、この女優。

いや、もしかしたら、もう峠を下り始めたのかもしれない。

離婚騒動をさておいても、この女優にはそもそもの限界がある。

それは「見た目」だ。

不細工ではない。

でも、色気がない。大人の女の色気がない。

あの顔形ではこれからも無理だ。かりに今以上にオンナとしての遍歴を経たとしても無理だろう。

似たケースが「家なき子」の安達某。まあ彼女の場合は、あの顔を含めたからだの作り全体のバランスの悪いさからしてある種の滑稽さすらすらあるが、宮にはそれはない。が、大人の色気が欠如している、セックスアピールがないという点では、共通している。

そうなると歳を重ねるにつれて、こなせる役柄にも限界が出てくる。 そうなれば仕事の幅も狭まり、露出も減ることになる。

演技力に磨きをかけて大竹しのぶのような路線を行くしかないと思う。とても彼女がかつての樋口可南子や高島礼子やらの路線、岩下志麻、吉永小百合のような路線を歩めるとは思えない。路線選択を誤れば、岸本某みたいにしだいに消えていくことになるのではないだろうか。

ちなみに、私は「サユリスト」の心理が理解できない。自分自身さほど豊富な女性経験があるわけではないが、「サユリスト」というのはそういうのが乏しい連中が多いのではないかと思う。彼女に私は何ら異性としての興味をそそられないのだ。所謂フェロモンみたいなものを感じない。今時ではなく昔のオンナを知らない童貞君たち、オンナを知ってもそれが今の古女房たった一人なんていうオジ様方が理想化しがちな女性像に吉永という女優はうまくおさまるのではないだろうか。

あの顔かたちで濡れ場を演じられても、ロリコン趣味でもなければ興味をそそられることもないのではないのか?

離婚して、お荷物とオサラバ、これでせいせいと思っているのかもしれないが、まあ、彼女の女優としての行く末はそうは開けてはいないし、開かれることもさほどないだろうと思ったりして見る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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