くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

寺島しのぶ、あんたは欧米か!?(一寸古いですが・・)

2010年09月12日 | Weblog
寺島しのぶ。お世辞にも美人女優ではない。美男、美女の両親のもとに生まれたわりには、「お粗末」である。ただ、まあよく見ると両親ともパーフェクトな美男、美女ではないわけで、両方の悪いところが出てしまったかなというケースかもしれない。

ただ、女優としてはスゴイのかも?と前から思っていた。「赤目四十八滝」、正直言って、あれは設定された役柄にしては、見た目が妙に老けて見えて、他に女優いなかったのかなあと思い、世間の評判ほど私は評価していない。

一方、大河「北条時宗」での演技は、さほど重要ではないわき役ながら、存在感を示し、どちらかと言えば「大根」だった母親よりもすごい女優になるのかもしれないと思ったものである。

ところで、最近よくテレビでインタビューに答えているが、日本で濡れ場ばかりが話題になることにいたくご不満のようで、昨日もラジオで、その点に触れて「日本は芸術に対する見方のレベルが低い」と吠えていた。欧米に比べて、低いということだそうだが、そもそも、「赤目」もそうだし「キャタピラ」もそうだが、あれを芸術というのか否かに、唯一の答えはないはずだ。少なくとも私は「赤目」を、もちろん娯楽作品とは思わなかったが、かといって芸術作品とも思わなかった。もっとも、御尊父の歌舞伎も、昔は単なる庶民の娯楽で、私はいまだに娯楽として楽しんでいるが、世間では「芸術」のぶるいだそうだから、そういうことならあれも、あるいは今回の「キャタピラ」も芸術なのだろうが、濡れ場を騒ぐ騒がないで、芸術的民度をとやかくするのも、大げさだろう。人によっては、やはり、画像にしろ、動画にしろ、露骨な濡れ場に対してそれをみせつけられることに生理的な嫌悪を抱き、「芸術」とは認めないのかもしれない。だとしたら、それは即芸術への無知ということになるのだろうか?

演じる側、作る側による「芸術」だと主張に、傲慢さ、独善性、押しつけがましさはないのか。正直、ときどき、その点については、われらのいうところの「芸術」作品を見せられる立場にあるものとしては、そう感じてしまうことがなくはなく、寺島の言い方にもそれを感じてしまうのである。要は、あなたにとっては芸術なんでしょうが、私にとっては、やはり単なる濡れ場でしかないですわ、というわけである。

うがった見方をすれば、寺島としては、濡れ場=芸術と自分でもそう信じたいし、周囲にもそう認めさせたいという気持ちが強くあり、その背景には、本人が語るところの「赤目」出演の際の家庭内の葛藤がいまだにある種トラウマのように彼女の心のどこかに陰をさしているのではないだろうか、梅幸さんが生きていたら何と言ったものだろうなんてことはさておくとして。

彼女のインタビューでももう一つ気になったたのは、ご主人がフランス人ということもあるのだろうか、またそのなれそめが彼女の一目ぼれに端を発するものであったということもあるのだろうか、どうも彼女の価値基準には欧米っていうものが大きなウエイトを占めているようなのだ。フランスではとか、主人はアイコンタクトをしないと・・・など、あちらが規準であり、日本人はもっとかくあるべき、かくすべきという論法になっていくのである。

フランス人がカフェの外に席を取るのは、人間観察だとか。私にしてみたら、あまり高尚な趣味ではない。人間観察の目的しだいでは、そこまでするか? それがエスカレートしたらストーカーだなあ、あえてそこまでしないと人間を見ることができないのか、と突っ込みをいれたくなる。ましてや、日本人もそうすべきなどとは、これっきしも思わない。

アイコンタクトにしたって、そりゃあ比較文化的な視点で評価しないとダメじゃないのかと思ってしまう。アイコンタクト真理教じゃああるまいに。時と場合や、国によっては、アイコンタクトはかえって人間関係を損ねる場合もある。中近東で無条件にそんなことしようものなら・・・。寺島しのぶって女は、そんなことも知らないのかとまではあえて言ってしまった・・・。

まあ、きっと、今はフランス人旦那にぞっこんなもんだから、影響されまくってるのかもしれないが、これで醒めてきたり、破局でもしたら、考え変わるかもね。

それともまさか、菊五郎家では欧米コンプレックスが強くて、そんな家庭環境で育ったものだから、欧米スタンダードが幅を利かせてしまっているとか? もしかしたら、菊五郎家に限らず歌舞伎界には、いまだ明治以後の文明開化のトラウマが残っているとか? まさかね・・・。




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押尾裁判: 田中さんの両親を見て思う「子は親の鏡」

2010年09月12日 | Weblog
押尾事件、法廷で語られているさまざまなエピソードが真実だとしたら、押尾という男、まったく救いのない人間である。

ただ、同時に改めて思うのは、死者を冒涜するなと言われればそれまでだが、亡くなった田中さんも決してまともな人間ではなかったのではないだろうか。

自分の店を持つために男と付き合う、寝る。 押尾はその一人。

だが、当時押尾は既婚の身。つまり、他人の旦那に手を出したわけで、これを世間では不倫という。

しかも、死亡後の家宅捜査で、田中さんがコカイン等の違法麻薬を所持していたことも確認されている。


つまり田中さんという女性は、文字通り身をひさいで生きる女。他人の家庭に平気で手を突っ込む女。目的のためなら手段を選ばない女。そして、違法行為を既にしていた女。

要は、どうしようもない人間だったというわけだ。かりにあの時救急搬送されて助かったとしても、かえった助かったことが運の尽きで、ドラッグの所持がばれて御用となった可能性も否定できない。

もしそうなっていたら、あの両親は、世間に向かって何を訴えたのだろうか。押尾のせいだとでも言ったのだろうか。それとも、申し訳ないとテレビカメラの前にこうべを垂れたのだろうか。

まあ、どんなにできの悪い子供でも、我が子はかわいいという。田中さんほどのに道をはずしてはいないが(今のところ)、やはり不出来な子供を持つ親として、それは何となくわかる。どんな間抜けでも我が子は我が子なのである。

だからこそ、悪行・非行の挙句の死に対して、親は押尾を責め、我が子の死を嘆くわけだ。

でも、田中さんのご両親よ、我が子の死を悲しむのはいいが、押尾の元妻や子供にも言うべきことはあるんじゃないのかい?
あの人たちに、「被害者の親でござい」は通じないですよ。それとも、女房のお前も、押尾の血をわけたお前も、謝れってか?

それに、田中さんよ、きっと親せきは迷惑していると思うぞ。実家は岐阜の飛騨市。山間の随分な田舎だ。山と山の間に集落が点在し、それが集まって下呂市だとか飛騨市となっている。集落ごとは昔からの付き合いで、下手をすれば何百年の付き合いだ。
その間でのあるいは、近隣集落間での婚姻も珍しくはない。そんなある意味ド田舎で、銀座のホステスで、有名人と不倫し、挙句に違法ドラッグ所持、使用で悲惨死。「あそこの姪が」、「あそこの遠縁だそうだ」、「あそこの嫁さんの親せきだそうだ」等という噂はあっという間に広まる。田中さんの両親が娘の死の悲しみを押尾にぶつけている間に、親せきは、この不出来な親族、血縁のために、田舎で肩身の狭い思いをする。

私が親せきの立場なら、娘を亡くしてお気の毒よりも、まったく迷惑な話という気持ちの方が強いのではないだろいうか。一族の
面汚し意外の何ものでもないのだ。子供を持つ立場としては、そんな親せきを持ってしまったがために、我が子が不利益を被ることにならないだろうか、その方が心配である。だから、多分、葬式にも顔を出さないだろなあ・・。

まあ、テレビ見ていて思うのは、ああいう親だからあんな娘だったんじゃないのかなあと思うのは不謹慎でしょうか?

親せきの立場としたら、押尾、押尾と騒がれる限り、気持ちは穏やかではないだろうなあ・・・。





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