寺島しのぶ。お世辞にも美人女優ではない。美男、美女の両親のもとに生まれたわりには、「お粗末」である。ただ、まあよく見ると両親ともパーフェクトな美男、美女ではないわけで、両方の悪いところが出てしまったかなというケースかもしれない。
ただ、女優としてはスゴイのかも?と前から思っていた。「赤目四十八滝」、正直言って、あれは設定された役柄にしては、見た目が妙に老けて見えて、他に女優いなかったのかなあと思い、世間の評判ほど私は評価していない。
一方、大河「北条時宗」での演技は、さほど重要ではないわき役ながら、存在感を示し、どちらかと言えば「大根」だった母親よりもすごい女優になるのかもしれないと思ったものである。
ところで、最近よくテレビでインタビューに答えているが、日本で濡れ場ばかりが話題になることにいたくご不満のようで、昨日もラジオで、その点に触れて「日本は芸術に対する見方のレベルが低い」と吠えていた。欧米に比べて、低いということだそうだが、そもそも、「赤目」もそうだし「キャタピラ」もそうだが、あれを芸術というのか否かに、唯一の答えはないはずだ。少なくとも私は「赤目」を、もちろん娯楽作品とは思わなかったが、かといって芸術作品とも思わなかった。もっとも、御尊父の歌舞伎も、昔は単なる庶民の娯楽で、私はいまだに娯楽として楽しんでいるが、世間では「芸術」のぶるいだそうだから、そういうことならあれも、あるいは今回の「キャタピラ」も芸術なのだろうが、濡れ場を騒ぐ騒がないで、芸術的民度をとやかくするのも、大げさだろう。人によっては、やはり、画像にしろ、動画にしろ、露骨な濡れ場に対してそれをみせつけられることに生理的な嫌悪を抱き、「芸術」とは認めないのかもしれない。だとしたら、それは即芸術への無知ということになるのだろうか?
演じる側、作る側による「芸術」だと主張に、傲慢さ、独善性、押しつけがましさはないのか。正直、ときどき、その点については、われらのいうところの「芸術」作品を見せられる立場にあるものとしては、そう感じてしまうことがなくはなく、寺島の言い方にもそれを感じてしまうのである。要は、あなたにとっては芸術なんでしょうが、私にとっては、やはり単なる濡れ場でしかないですわ、というわけである。
うがった見方をすれば、寺島としては、濡れ場=芸術と自分でもそう信じたいし、周囲にもそう認めさせたいという気持ちが強くあり、その背景には、本人が語るところの「赤目」出演の際の家庭内の葛藤がいまだにある種トラウマのように彼女の心のどこかに陰をさしているのではないだろうか、梅幸さんが生きていたら何と言ったものだろうなんてことはさておくとして。
彼女のインタビューでももう一つ気になったたのは、ご主人がフランス人ということもあるのだろうか、またそのなれそめが彼女の一目ぼれに端を発するものであったということもあるのだろうか、どうも彼女の価値基準には欧米っていうものが大きなウエイトを占めているようなのだ。フランスではとか、主人はアイコンタクトをしないと・・・など、あちらが規準であり、日本人はもっとかくあるべき、かくすべきという論法になっていくのである。
フランス人がカフェの外に席を取るのは、人間観察だとか。私にしてみたら、あまり高尚な趣味ではない。人間観察の目的しだいでは、そこまでするか? それがエスカレートしたらストーカーだなあ、あえてそこまでしないと人間を見ることができないのか、と突っ込みをいれたくなる。ましてや、日本人もそうすべきなどとは、これっきしも思わない。
アイコンタクトにしたって、そりゃあ比較文化的な視点で評価しないとダメじゃないのかと思ってしまう。アイコンタクト真理教じゃああるまいに。時と場合や、国によっては、アイコンタクトはかえって人間関係を損ねる場合もある。中近東で無条件にそんなことしようものなら・・・。寺島しのぶって女は、そんなことも知らないのかとまではあえて言ってしまった・・・。
まあ、きっと、今はフランス人旦那にぞっこんなもんだから、影響されまくってるのかもしれないが、これで醒めてきたり、破局でもしたら、考え変わるかもね。
それともまさか、菊五郎家では欧米コンプレックスが強くて、そんな家庭環境で育ったものだから、欧米スタンダードが幅を利かせてしまっているとか? もしかしたら、菊五郎家に限らず歌舞伎界には、いまだ明治以後の文明開化のトラウマが残っているとか? まさかね・・・。
ただ、女優としてはスゴイのかも?と前から思っていた。「赤目四十八滝」、正直言って、あれは設定された役柄にしては、見た目が妙に老けて見えて、他に女優いなかったのかなあと思い、世間の評判ほど私は評価していない。
一方、大河「北条時宗」での演技は、さほど重要ではないわき役ながら、存在感を示し、どちらかと言えば「大根」だった母親よりもすごい女優になるのかもしれないと思ったものである。
ところで、最近よくテレビでインタビューに答えているが、日本で濡れ場ばかりが話題になることにいたくご不満のようで、昨日もラジオで、その点に触れて「日本は芸術に対する見方のレベルが低い」と吠えていた。欧米に比べて、低いということだそうだが、そもそも、「赤目」もそうだし「キャタピラ」もそうだが、あれを芸術というのか否かに、唯一の答えはないはずだ。少なくとも私は「赤目」を、もちろん娯楽作品とは思わなかったが、かといって芸術作品とも思わなかった。もっとも、御尊父の歌舞伎も、昔は単なる庶民の娯楽で、私はいまだに娯楽として楽しんでいるが、世間では「芸術」のぶるいだそうだから、そういうことならあれも、あるいは今回の「キャタピラ」も芸術なのだろうが、濡れ場を騒ぐ騒がないで、芸術的民度をとやかくするのも、大げさだろう。人によっては、やはり、画像にしろ、動画にしろ、露骨な濡れ場に対してそれをみせつけられることに生理的な嫌悪を抱き、「芸術」とは認めないのかもしれない。だとしたら、それは即芸術への無知ということになるのだろうか?
演じる側、作る側による「芸術」だと主張に、傲慢さ、独善性、押しつけがましさはないのか。正直、ときどき、その点については、われらのいうところの「芸術」作品を見せられる立場にあるものとしては、そう感じてしまうことがなくはなく、寺島の言い方にもそれを感じてしまうのである。要は、あなたにとっては芸術なんでしょうが、私にとっては、やはり単なる濡れ場でしかないですわ、というわけである。
うがった見方をすれば、寺島としては、濡れ場=芸術と自分でもそう信じたいし、周囲にもそう認めさせたいという気持ちが強くあり、その背景には、本人が語るところの「赤目」出演の際の家庭内の葛藤がいまだにある種トラウマのように彼女の心のどこかに陰をさしているのではないだろうか、梅幸さんが生きていたら何と言ったものだろうなんてことはさておくとして。
彼女のインタビューでももう一つ気になったたのは、ご主人がフランス人ということもあるのだろうか、またそのなれそめが彼女の一目ぼれに端を発するものであったということもあるのだろうか、どうも彼女の価値基準には欧米っていうものが大きなウエイトを占めているようなのだ。フランスではとか、主人はアイコンタクトをしないと・・・など、あちらが規準であり、日本人はもっとかくあるべき、かくすべきという論法になっていくのである。
フランス人がカフェの外に席を取るのは、人間観察だとか。私にしてみたら、あまり高尚な趣味ではない。人間観察の目的しだいでは、そこまでするか? それがエスカレートしたらストーカーだなあ、あえてそこまでしないと人間を見ることができないのか、と突っ込みをいれたくなる。ましてや、日本人もそうすべきなどとは、これっきしも思わない。
アイコンタクトにしたって、そりゃあ比較文化的な視点で評価しないとダメじゃないのかと思ってしまう。アイコンタクト真理教じゃああるまいに。時と場合や、国によっては、アイコンタクトはかえって人間関係を損ねる場合もある。中近東で無条件にそんなことしようものなら・・・。寺島しのぶって女は、そんなことも知らないのかとまではあえて言ってしまった・・・。
まあ、きっと、今はフランス人旦那にぞっこんなもんだから、影響されまくってるのかもしれないが、これで醒めてきたり、破局でもしたら、考え変わるかもね。
それともまさか、菊五郎家では欧米コンプレックスが強くて、そんな家庭環境で育ったものだから、欧米スタンダードが幅を利かせてしまっているとか? もしかしたら、菊五郎家に限らず歌舞伎界には、いまだ明治以後の文明開化のトラウマが残っているとか? まさかね・・・。