くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

押尾裁判: 田中さんの両親を見て思う「子は親の鏡」

2010年09月12日 | Weblog
押尾事件、法廷で語られているさまざまなエピソードが真実だとしたら、押尾という男、まったく救いのない人間である。

ただ、同時に改めて思うのは、死者を冒涜するなと言われればそれまでだが、亡くなった田中さんも決してまともな人間ではなかったのではないだろうか。

自分の店を持つために男と付き合う、寝る。 押尾はその一人。

だが、当時押尾は既婚の身。つまり、他人の旦那に手を出したわけで、これを世間では不倫という。

しかも、死亡後の家宅捜査で、田中さんがコカイン等の違法麻薬を所持していたことも確認されている。


つまり田中さんという女性は、文字通り身をひさいで生きる女。他人の家庭に平気で手を突っ込む女。目的のためなら手段を選ばない女。そして、違法行為を既にしていた女。

要は、どうしようもない人間だったというわけだ。かりにあの時救急搬送されて助かったとしても、かえった助かったことが運の尽きで、ドラッグの所持がばれて御用となった可能性も否定できない。

もしそうなっていたら、あの両親は、世間に向かって何を訴えたのだろうか。押尾のせいだとでも言ったのだろうか。それとも、申し訳ないとテレビカメラの前にこうべを垂れたのだろうか。

まあ、どんなにできの悪い子供でも、我が子はかわいいという。田中さんほどのに道をはずしてはいないが(今のところ)、やはり不出来な子供を持つ親として、それは何となくわかる。どんな間抜けでも我が子は我が子なのである。

だからこそ、悪行・非行の挙句の死に対して、親は押尾を責め、我が子の死を嘆くわけだ。

でも、田中さんのご両親よ、我が子の死を悲しむのはいいが、押尾の元妻や子供にも言うべきことはあるんじゃないのかい?
あの人たちに、「被害者の親でござい」は通じないですよ。それとも、女房のお前も、押尾の血をわけたお前も、謝れってか?

それに、田中さんよ、きっと親せきは迷惑していると思うぞ。実家は岐阜の飛騨市。山間の随分な田舎だ。山と山の間に集落が点在し、それが集まって下呂市だとか飛騨市となっている。集落ごとは昔からの付き合いで、下手をすれば何百年の付き合いだ。
その間でのあるいは、近隣集落間での婚姻も珍しくはない。そんなある意味ド田舎で、銀座のホステスで、有名人と不倫し、挙句に違法ドラッグ所持、使用で悲惨死。「あそこの姪が」、「あそこの遠縁だそうだ」、「あそこの嫁さんの親せきだそうだ」等という噂はあっという間に広まる。田中さんの両親が娘の死の悲しみを押尾にぶつけている間に、親せきは、この不出来な親族、血縁のために、田舎で肩身の狭い思いをする。

私が親せきの立場なら、娘を亡くしてお気の毒よりも、まったく迷惑な話という気持ちの方が強いのではないだろいうか。一族の
面汚し意外の何ものでもないのだ。子供を持つ立場としては、そんな親せきを持ってしまったがために、我が子が不利益を被ることにならないだろうか、その方が心配である。だから、多分、葬式にも顔を出さないだろなあ・・。

まあ、テレビ見ていて思うのは、ああいう親だからあんな娘だったんじゃないのかなあと思うのは不謹慎でしょうか?

親せきの立場としたら、押尾、押尾と騒がれる限り、気持ちは穏やかではないだろうなあ・・・。





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