くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

5年目の9・11 その2: 反米感情とテロ擁護論の妙な関係

2006年09月18日 | Weblog
さて、5年目のその日、複数の知り合い(すべて日本人)と9・11同時多発テロについて「床屋談義」が交わされた。

その中の数人が、米国原因論やらイラク戦争、果ては米国陰謀説まで持ち出して、あたかもテロを犯した側にも理があるかのような物言いをした。

筆者は決して自身をして親米派とか親米ポチを自認するものではない。滞米14年になるが、どうしても馴染めない部分がある。いわく言いがたく肌に合わところがあるのだ。日米関係の歴史的経緯などを考えるとこの国には腹に一物ないわけでもない。日米関係が民主主義という共通の価値観によって結ばれた、あるいは結ばれるべき、同盟関係であるなどとナイーブな理念重視型の外交姿勢などというものは糞食らえとさえ思っている。

筆者のスタンスが親米であるとすれば、それは「米国が好き」という感情的なものや、米国の掲げる自由・民主の理念への共鳴とかによるものではなく、功利的な理由によるものでしかない。おそらくいやきっと現在の米国の政治指導者とて、人種や宗教、伝統の大きくかけ離れた得体の知れぬ相手と共通の価値観を共有しているとか、イデオロギー的な部分においてまで共鳴し合う相手などとは思っていまい。かりに個人的にそう思う人物がいたとして、それは極めて少数派に違いない。日米関係は決して米英の関係にはなりえない、日本人が白い肌と彫りの深い目鼻立ちを持ち(もっとも平井堅のような面立ちもこれまたコーカソイド的な彫り深さとは違うのだが)、キリスト教を、プロテスタントを信仰せずば。たとえ「血」で結ばれることになったとして、人種そして宗教という彼ら価値観の基層をなすものを共有しない限り、日米同盟の基層は常に功利的なものの共有に依らざるをえまい。それに忘れてはならないのは、かりにどんなに米国を嫌悪しよとも、少なくとも現今において我が国は米国との協調は好むと好まざると我が不可避、不可欠なものとして受容せざるを得ないのだ。戦後60年そういう国家体制であり続けてきたのだ。それを変えようとしても一朝一夕になしえるものではない。声高に反米を叫び、ナショナリスティックに自主防衛を主張してみたところで、それが即成就できるものではあるまい(もっとも、筆者は自主防衛という理想は持ってはいるが)。ならば、感情的なものを排除した上で、米国といかに安定的かつ友好的な関係を維持していくかということに腐心せざるをえないのだ。では、功利的な日米関係を安定的に維持していくためには、どうすればよいのか。功利的な意味において、我が国が米国にとって「利用価値」のある存在でなければならない。と同時に我が国にとって安全保障上そして経済上米国に「利用価値」がある以上、日米関係は功利的なギブ・アンド・テイクの関係であり続けるべきであろう。

その功利主義的な意味においてのみ親米の筆者が、911同時多発テロについてテロリスト側に一理あるとする立場をまったく理解できないというのではない。既述のように、筆者も米国には腹に一物ある。それゆえに、決して上品なことではないが、「ざまあみろ」のような思いが、911テロの際日本人のなかに起きたとして、決して驚きはしない。もっとも、筆者個人としては、あの映像の衝撃にそうした思いを抱く暇もなかったし、衝撃が覚めやった後も、繰り返し報道された犠牲者やその遺族たちの姿に心痛みそのような思いに至ることはなかったのだが。、また米国の歴史的な中南米政策や戦後の中東政策を見れば、嫌悪感あるいはそれ以上の感情を抱くこともあるし、米国の中東政策が対米テロ(しかも大規模にして無差別の)を引き起こさんとの感情をムスリムの中に惹起する一因になったとの見方も否定はしない。

同時に、それが大国の外交というものなのだ、国際関係の現実なのだ、ビスマルクが岩倉使節団に語った国際関係といものはいまだ基本的かつ本質的な部分において何ら変わっていないのだとも思ってみる。それゆえに、米国の中東政策がテロの一因となったとして、それは国際関係における力関係によって不可避に起こりえる感情の所産にすぎないとも思う。過去においても、そして今後も、国際関係の力学が生み出す人間感情、特に強者と弱者の関係において生み出されるそれは、無差別テロという形に限らずさまざまなかたちで発露されてきたのだし、されていくのだろう。では、その力学を変えるしかあるまいが、それができると思うほど、筆者は楽観的でも理想主義的でもないのだ。

ただ、それよりもなによりも、忘れてはならないことがある。911テロの犠牲者の中には大学生1名を含む20数名の日本人が含まれていたことを。米国市民やそのほかの外国人とともに、我々の同胞もあのテロの犠牲になったのだ。つまり、911テロとは他人事ではなく、我がことでもあるのだ。

911テロを米国の中東政策の「自業自得」であるとテロリスト側に理解を示したり反米感情ゆえにほくそえむ連中は、どうも自分たちの同胞が犠牲となったということを看過しているかあるいは軽く見ているらしい。同胞がテロの犠牲になったということに悲しみ怒る前に、米国自らが招いた結果だとか、テロリストたちの反米感情には理解できるところがあるなどという声を耳にしたりすると、テロも怖いが、そうした同胞意識の欠落もこれまたそら恐ろしい。我が国では戦後の経済発展と社会構造の変化にともなう地域コミュニティーの崩壊、喪失が指摘されるが、同胞犠牲者の存在ををさしおいて911テロの原因論をもっともらしく語る連中をみていると、どうやら戦後の日本人は日本人あるいは日本国民としての共同体意識すら失わずとも希薄になってしまっているのではないかと思いたくはないが、思えてしまうのだ。

911テロ発生5年目のその日筆者が耳にした議論のなかでもっともばかげていると思ったのは、米国の対イラク戦争をもってする911テロ擁護論であった。イラク戦争が大義名文薄弱なものであったということは、今更否定するまでもないことと思うが、それを以って何ゆえに911テロを擁護できるのか、筆者の理解力の及ぶところではない。思考が倒錯してるのではないかとすら思えてしまう。まず時系列的にみておかしな議論だ。言うまでも無く米国がイラク戦争が発動し、その後に911テロが起こったのではない。換言すれば911テロはイラク戦争への報復行為ではないのだ。このようなことは子供でも理解できるはずだ。あるいは911テロが「大義なき」イラク戦争と相殺されえるものだとでも考えているのだろうか。もしそのような相殺主義的発想がまかり通るといのであれば、米国人がしばしば言うところの真珠湾あっての原爆投下という理屈を我々日本人は受け入れねばならないかもしれない、筆者は御免こうむるが。

テロは政治の一手段であることを筆者は否定しない。使いようによっては政治的な有効性を発揮することもあり得るとも思う。だが、そのテロが我が国並びに我が国国民を標的にし、あるいは我々を標的にせずとも巻き添えにすることを躊躇しないとすれば、我々は、日本国として日本国民として、我々の生命・財産に危害を及ぼす行為を許してはならないし、断固として対峙せずばなるまい。米国を敵視してか憎むあまりに、他方の敵には憎しみを向けず、それどころか危害を加えられながらも「造反有利」ならぬ「テロ有理」とばかりに原因論を語ってテロリストたちに一定の理解を示す輩こそ、筆者は激しく嫌悪する。911テロは我が国国民の命を奪ったのだ。これは何人も否定できぬ事実なのだ。であればこそ、小泉政権下の日本国政府によるテロとの戦いへの支持は、国民同胞の生命・財産を脅かす「敵」への国家としての当然至極かつ正当な行為であったと筆者は今も信じている。

テロとの戦いはいまだ終わってはいない。我が国同胞の命を奪ったテロリストの首魁と目されるオサマ・ビン・ラディンもまた捕縛されていないのだ。ビン・ラディンを倒してもテロとの戦いは終わらないであろう。それでも我々は戦い続けねばならない、敵が我々と我々の同胞の生命と財産を脅かす限りは。
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