くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

慶祝親王殿下ご誕生!その2: 消えぬ皇統断絶の不安

2006年09月07日 | Weblog
親王殿下ご誕生の喜びを享受する我々日本国民は、この喜びこそを皇恩として認識しなければなるまい。そして、受けた皇恩にいかに報いんとすべきかということに思いを巡らすべきではあるまいか。

かつて新井白石は、皇統存続に危機感を抱き閑院宮家の創設に尽力するが、これをして皇恩に報いんがためのものと、筆者の記憶ちがいでなけれれば、「折りたく柴の記」に記している。白石の報恩はやがて光格天皇の即位をもって皇統の危機を救うことになる。ちなみに白石の天皇・皇室観については、研究者の間にも諸説あるが、筆者は、上智大のケイト・ワイルドマン・ナカイの説を支持するよりもむしろ、白石は彼なりの朱子学的思弁と歴史認識において尊皇家であったと考えている。しかしながらその尊皇思想が実際の政治に具現化された時、他の受け入れるところではないことが明らかとなる。より具体的に言えば、朝鮮への外交文書(朝鮮国王から将軍への国書への返書)に将軍をして家光の時代からの「大君」にかえ「日本国王」としたためた際、他の朱子学者などから批判を受けたのである。白石にとって、将軍が大君と称することこそ問題であった。なぜなら李朝「経国大典」によれば、大君とは朝鮮国王の王世子以外の王子を指す。すなわち将軍が大君を称することは自らを朝鮮国王の下位に位置づける行為に他ならなかったのである。また、将軍が国「王」を称することは、正名論的に見て妥当な選択であり、天「皇」との君臣関係に矛盾するものではないはずであった。ところが、批判者は日本において古来からの慣習である「王皇同義」をもって、将軍が国王を称するを僭状としたのである。批判者の中には、ともに木下順庵の下で机を並べた雨森芳洲もいた。こうした批判にはさすがの白石も手を焼いたらしく、芳洲らを「生学生」となじりさえしている。

男系相続による皇位継承はこのまま行けば断絶の危機に直面する可能性が非常に高いのだが、メディアと通して見える今日の政界に、白石はいないらしい。41年ぶりの親王殿下のご誕生が、国家・民族のこの上ない慶事であることに違いあるまい。しかしながら、それによって将来的な男系による皇位の安定的継承が確保されたわけではない。皇統断絶の危機到来が幾分、しかも数十年というほんの瞬時だけ先延ばしがされたに過ぎないのだ。しかも不敬を承知であえて言うならば、今回お生まれになった親王様が確実に無事成人され皇位につかれたり、あるいはかりに皇位につかれたとしても男子の継承者に恵まれるという保障はどこにもないのだ。そのような事態に立ち入った時、皇族の人数は減り、皇位継承の裾野はすっかり狭くなってしまっていたでは取り返しがつくまい。気がついてみれば皇位継承者がいないという事態が発生する可能性も否定できないのだ。

ところが、まことに嘆かわしいことに、今日の我が国の政治指導者のなかには、そうした危機意識が欠如していたり不十分に見受けられる諸氏がいるようだ。親王殿下誕生に際して、中曽根大勲位は(もっともこの御仁の場合、「元」政治指導者であってもはや国民の代表たる国会議員の地位を失った以上、民主国家の政治史指導者と呼ぶにはふさわしくはないのだが)、「皇統維持という面から当分、皇室典範改正の必要がなくなったという安心感が全国民の皆さんからおこっていると思う。当分、この問題は解消したと考えていいと思います」とコメントしている。(読売 9月6日)何の根拠をもって、大勲位氏、皇室典範の改正が当分不要になったとの安心感が「全国民」の間に広がっていると思うのだろうか。ただの手前勝手な思い込みか、それとも何らかの思惑があって、「全国民」という言葉をメディアを前にして弄ぶことによって、あたかも世論誘導しようとの魂胆でもあるのか。妹が三笠宮家に嫁いでいる、すなわち皇室と縁戚関係にある麻生太郎外相にしても、「(皇室典範改正の議論については)少なくとも40年くらい先の話で」と述べている。(産経 9月6日)紀子妃ご懐妊の報があるまでは、政府内外の反対論、慎重論にもかかわらず先の常会への改正案提出を目指していた小泉首相も、「しばらくは静かに見守るのがよい。来年の国会に出すというような話じゃないと思います。」と語っている。(朝日 9月6日)

これら政治指導者たちのご意見をいかに見るべきなのだろうか。日本という国家、決して危機管理のお得意な国家とは言えまい。例えば、日本に帰国するたびに、日本の空港のセキュリティーの甘さには驚かされるというか、「こんなんでいいのか」と不安にさせられる。大勲位にしろ、麻生氏、小泉首相にしろ、彼らは単なる能天気なのか。本当に皇統の危機は当分の間回避されたと思っているのだろうか。もしそうだとすれば、国政を預かり国運を左右する立場にある者としてあるまじき油断ではあるまいか。はたまた日本人が過去の失敗で見せてきた根拠のない楽観主義への逃避なのか。あるいは将来的なシナリオへの想像力が絶望的に欠如しているということなのか。それとも、皇位継承の危機が完全に払拭されたわけではないことを理解しながらも、親王様ご誕生を好機とばかりに皇室典範改正という厄介な下手をすれば自らの地位を危うくしかねない問題から逃避しようというのではないのか。

いずれの場合にしろ、そのような政治指導者たちに国家のあり方や行く末を委ねる我が国の行く末に心許なさを感じるのは筆者だけであろうか。ましてや自らの存廃という命綱を政治に握られている皇室の方々の心細さはいかばかりのものであろうか。確かに安部官房長官の言うように、皇室典範改正問題は、慎重にことを決せねばなるまい。ただし、慎重であるべき即ち問題の先送りや徒に議論に時間を掛けることと同義ではない。時間がたてば立つほど、皇位継承のあり方をめぐる選択の幅は確実に狭まっていくのだ。慎重にという安部氏にしても、政権をほぼ掌中にし、政権の出だしに取り扱いの難しい皇室典範問題に取り組みたくはない、という「保身」の気持ちがあるのではないのかと勘ぐってもみる。

アンチ天皇サイドも、今回の親王様誕生には「バンザイ!」に違いない。皇位継承者が増えたことで、皇室典範改正への動きは鈍化する。鈍化すればそれだけ将来的な皇位継承が直面するであろう危機の可能性も高まる、彼らの目の黒いうちは無理として、いずれ宿願の天皇制度の廃止は、廃止しようと運動せずとも、皇統断絶により自滅してくれることを座して待てば良いのだ。

親王様のご誕生は確かに慶事には違いない。だが、それによって皇統の存亡の危機が払拭されたわけではない以上、また政治指導者たちの頼りなさをみるにつけ、「天皇あっての日本」と信ずる筆者は不安で仕方がないのだ・・・。
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