米国という国を語るうえにおいて、「移民」というキーワードは欠かせない。米国史そのものが、移民史であるといっても過言でもあるまい。その移民の国アメリカが今移民政策をめぐり揺れている。
移民によって成されたその国において、多様な移民の流入は、17世紀初頭にバージニア植民地ができて以来今日に至るまで、絶えず米国社会に課題を投げかけ続けてきた。
当初、米国への移民は、欧州のしかもその北西部(西北部というべきか?)というごく限られた地域からのものであったが、最初の移民をめぐる試練は宗教によってもたらされた。欧州からの移民たちは、宗教改革以来続くキリスト教内部の不協和音をそのままも北米大陸に持ち込んだのだ。17世紀に北米東岸にできた植民地のいくつかは、宗教的な結びつきをもった集団によって形成されるという起源を持ち、それゆえに他宗派、他宗教との軋轢、抗争を経験した。ジョン・ウィンスロップ率いるピューリタンによって創始されたマサチューセッツ湾植民地の他宗派への不寛容、旧教徒であったカルバート一族によるメリーランドにおける、英国内での政治・宗教対立に連動した、新旧両派間で繰り返された抗争などが、その一例である。
奴隷というものを広義の移民とすることが許されるのであれば、アフリカ系住民(もっともその多くは西インド諸島経由で北米大陸にやってきたのだが)の存在も、米国の移民史を語る上において忘れてはなるまい。独立戦争までには50万ほどのアフリカ系「移民」が、そのほとんどが奴隷として、北米13植民地に点在していたという。
19世紀も後半になり、アングロサクソンでも新教徒でもない移民が東西双方の海岸に大挙やってくるようになると、移民問題は、人種、民族、宗教のみならず生活文化、経済など多様な面でも問題を惹起するようになる。欧州からは、旧教徒であるアイルランド人やイタリア人、あるいはユダヤ教徒が、東からは中国人クーリーが、後には日系移民がやってくるようになる。
こうした移民の流入は、南北戦争後の米国の復興、経済発展に並行するように増え続けるのだが、急増した移民の存在は、19世紀後半から20世紀初頭にかけての米国社会が抱えこんだ諸問題の一因としてみなされていくようになる。新教徒のエリート層から見れば、宗教や文化的背景を共有しない異質な移民たちの大量流入は、米国の伝統的文化や価値観を脅かすものであった。そうでなくとも、著しい工業化の下、安価な労働力として社会の低層をなす傾向にあった移民たちは、貧困や衛生、犯罪、飲酒など、産業革命期の欧州の諸都市にほぼ共通してみられたさまざまな社会問題と結びついていた。おまけに、急進思想の感化を受けた欧州系移民の一部がしばしば流血の惨事に発展した労働運動などの社会騒乱に参加したことで、米国世論の移民に対する目は尚一層厳しさを増していくことになる。ネイティビズム(nativism)の勃興こそは、米国社会の反移民感情の高まりを如実に表したものであり、ロシア革命に起因する赤色恐怖(Red Scare)の中でのサッコ・バンゼッティ事件や第一次大戦後一時的であるが再び息を吹き返し黒人のみならず非新教徒へと排撃の照準を広げたKKKなどはその象徴的な例と言えよう。
宗教、文化だけではなく人種的にも異なり、よりアングロ・サクソン文化・伝統への「同化」が困難とみなされたアジア系移民は、法によってその流入が制限された。中国移民の排斥は早くも1860年代末に法制化された。20世紀になると日系移民に対しても、サンフランシスコの学校での日系児童排斥をきっかけとした所謂紳士協定によって制限が加えられるようになり、ついには1924年の所謂排日移民法と呼ばれる移民制限法の制定をもって、日系移民への門戸は閉ざされるに至る。
今回の主役は、今では黒人を抜いて米国第一の人種的少数派集団となったヒスパニック系移民たちである。より厳密に言えば合法ではなく不法移民たちである。
現在米国には1100万とも1200万とも言われる”不法”移民が存在する、という。”不法”であるがゆえにその正確な実数は明らかではない。現在米国の人口が2億900万であるから、”不法”移民の人口はその約4%ほどに相当する。そのほとんどは、「南」すなわち、ラテンアメリカからやって来た者たちで、さらにその半数以上がメキシコからの越境者だという。彼らの多くは本国での教育も十分に受けておらず英語にも不明なために、そして何よりも「日陰者」であるがために、一頃日本で3Kと呼ばれた類の職業にしかつけなかったり、雇用主に足元を見られ低賃金、劣悪な労働条件の下で「搾取」を受けている、と言われている。
米国の成功と繁栄が多様な移民を受け入れその活力の有効活用してきたことにありとする論もあるが、そうした評価はあまりにも一面的な評価に過ぎると筆者は考える。確かに米国という社会は日本とは比較にならないほどの多様性とそれへの寛容さや変化への柔軟性を持っており、それは絶え間ない移民の流入によって育まれてきたものである。ただ忘れてはならないのは、「ローマは一日にしてならず」ということである。すなわち、移民たちがすんなりと米国社会に根を下ろし、その発展に寄与するようになったわけではないという点である。また、米国社会にいかに寛容性、柔軟性があるとはいえ、それはあくまでも日欧などと比較してのことに過ぎず、かつてWASPが圧倒的に優位だった米国社会が、自分たちとは異質な移民をすんなりと何の抵抗もないままに受け入れてきたわけではない。上述のようにざっと簡略に米国史を振り返っただけでも、現在只今に至るまで、米国は移民をめぎる多くの年月とエネルギーを費やし続けているのだ。
少子高齢化にともなう労働力不足を補うためには、我が国も移民を受け入れるしかない、という意見があるが、筆者は米国にいて米国の現状を目の当たりにするからこそ、またドイツにおける「多文化主義社会の実験は失敗に帰した」という一部の論調や昨年来のフランスの状況を見るにつけ、「一寸待て!」と言いたくなる。その歴史や、地理的条件、人種民族的な条件ゆえに、決して異質なものに寛容とはお世辞にも言えぬ我が国が、労働力の補充という目的のみで安易に移民受け入れを決断してもいいのだろうか。かりに受け入れたところで、どれだけの摩擦や軋轢を経験し、労力を費やし、その結果の差し引きがはたして確実に我が国にとってプラスと出るのであろうか。それよりも何も、移民受け入れを云々する前に、現在只今我が国が国内の人材をどこまで有効活用できているのか、まずはこの点について考えて見る必要があるのではないだろうか。移民という決断をする前に、まだまだできること、しなければならないことはあると思うのだが・・。
移民によって成されたその国において、多様な移民の流入は、17世紀初頭にバージニア植民地ができて以来今日に至るまで、絶えず米国社会に課題を投げかけ続けてきた。
当初、米国への移民は、欧州のしかもその北西部(西北部というべきか?)というごく限られた地域からのものであったが、最初の移民をめぐる試練は宗教によってもたらされた。欧州からの移民たちは、宗教改革以来続くキリスト教内部の不協和音をそのままも北米大陸に持ち込んだのだ。17世紀に北米東岸にできた植民地のいくつかは、宗教的な結びつきをもった集団によって形成されるという起源を持ち、それゆえに他宗派、他宗教との軋轢、抗争を経験した。ジョン・ウィンスロップ率いるピューリタンによって創始されたマサチューセッツ湾植民地の他宗派への不寛容、旧教徒であったカルバート一族によるメリーランドにおける、英国内での政治・宗教対立に連動した、新旧両派間で繰り返された抗争などが、その一例である。
奴隷というものを広義の移民とすることが許されるのであれば、アフリカ系住民(もっともその多くは西インド諸島経由で北米大陸にやってきたのだが)の存在も、米国の移民史を語る上において忘れてはなるまい。独立戦争までには50万ほどのアフリカ系「移民」が、そのほとんどが奴隷として、北米13植民地に点在していたという。
19世紀も後半になり、アングロサクソンでも新教徒でもない移民が東西双方の海岸に大挙やってくるようになると、移民問題は、人種、民族、宗教のみならず生活文化、経済など多様な面でも問題を惹起するようになる。欧州からは、旧教徒であるアイルランド人やイタリア人、あるいはユダヤ教徒が、東からは中国人クーリーが、後には日系移民がやってくるようになる。
こうした移民の流入は、南北戦争後の米国の復興、経済発展に並行するように増え続けるのだが、急増した移民の存在は、19世紀後半から20世紀初頭にかけての米国社会が抱えこんだ諸問題の一因としてみなされていくようになる。新教徒のエリート層から見れば、宗教や文化的背景を共有しない異質な移民たちの大量流入は、米国の伝統的文化や価値観を脅かすものであった。そうでなくとも、著しい工業化の下、安価な労働力として社会の低層をなす傾向にあった移民たちは、貧困や衛生、犯罪、飲酒など、産業革命期の欧州の諸都市にほぼ共通してみられたさまざまな社会問題と結びついていた。おまけに、急進思想の感化を受けた欧州系移民の一部がしばしば流血の惨事に発展した労働運動などの社会騒乱に参加したことで、米国世論の移民に対する目は尚一層厳しさを増していくことになる。ネイティビズム(nativism)の勃興こそは、米国社会の反移民感情の高まりを如実に表したものであり、ロシア革命に起因する赤色恐怖(Red Scare)の中でのサッコ・バンゼッティ事件や第一次大戦後一時的であるが再び息を吹き返し黒人のみならず非新教徒へと排撃の照準を広げたKKKなどはその象徴的な例と言えよう。
宗教、文化だけではなく人種的にも異なり、よりアングロ・サクソン文化・伝統への「同化」が困難とみなされたアジア系移民は、法によってその流入が制限された。中国移民の排斥は早くも1860年代末に法制化された。20世紀になると日系移民に対しても、サンフランシスコの学校での日系児童排斥をきっかけとした所謂紳士協定によって制限が加えられるようになり、ついには1924年の所謂排日移民法と呼ばれる移民制限法の制定をもって、日系移民への門戸は閉ざされるに至る。
今回の主役は、今では黒人を抜いて米国第一の人種的少数派集団となったヒスパニック系移民たちである。より厳密に言えば合法ではなく不法移民たちである。
現在米国には1100万とも1200万とも言われる”不法”移民が存在する、という。”不法”であるがゆえにその正確な実数は明らかではない。現在米国の人口が2億900万であるから、”不法”移民の人口はその約4%ほどに相当する。そのほとんどは、「南」すなわち、ラテンアメリカからやって来た者たちで、さらにその半数以上がメキシコからの越境者だという。彼らの多くは本国での教育も十分に受けておらず英語にも不明なために、そして何よりも「日陰者」であるがために、一頃日本で3Kと呼ばれた類の職業にしかつけなかったり、雇用主に足元を見られ低賃金、劣悪な労働条件の下で「搾取」を受けている、と言われている。
米国の成功と繁栄が多様な移民を受け入れその活力の有効活用してきたことにありとする論もあるが、そうした評価はあまりにも一面的な評価に過ぎると筆者は考える。確かに米国という社会は日本とは比較にならないほどの多様性とそれへの寛容さや変化への柔軟性を持っており、それは絶え間ない移民の流入によって育まれてきたものである。ただ忘れてはならないのは、「ローマは一日にしてならず」ということである。すなわち、移民たちがすんなりと米国社会に根を下ろし、その発展に寄与するようになったわけではないという点である。また、米国社会にいかに寛容性、柔軟性があるとはいえ、それはあくまでも日欧などと比較してのことに過ぎず、かつてWASPが圧倒的に優位だった米国社会が、自分たちとは異質な移民をすんなりと何の抵抗もないままに受け入れてきたわけではない。上述のようにざっと簡略に米国史を振り返っただけでも、現在只今に至るまで、米国は移民をめぎる多くの年月とエネルギーを費やし続けているのだ。
少子高齢化にともなう労働力不足を補うためには、我が国も移民を受け入れるしかない、という意見があるが、筆者は米国にいて米国の現状を目の当たりにするからこそ、またドイツにおける「多文化主義社会の実験は失敗に帰した」という一部の論調や昨年来のフランスの状況を見るにつけ、「一寸待て!」と言いたくなる。その歴史や、地理的条件、人種民族的な条件ゆえに、決して異質なものに寛容とはお世辞にも言えぬ我が国が、労働力の補充という目的のみで安易に移民受け入れを決断してもいいのだろうか。かりに受け入れたところで、どれだけの摩擦や軋轢を経験し、労力を費やし、その結果の差し引きがはたして確実に我が国にとってプラスと出るのであろうか。それよりも何も、移民受け入れを云々する前に、現在只今我が国が国内の人材をどこまで有効活用できているのか、まずはこの点について考えて見る必要があるのではないだろうか。移民という決断をする前に、まだまだできること、しなければならないことはあると思うのだが・・。