見よって、思うことのありました・・・・
昔の合戦は片や何千、何万ていう軍勢が戦います。
たとえば、九州の島津やらはどげんやって、
尾張あたりまで出かけよったっちゃろうか?て・・
大将、武漢あたりは馬に乗っとうけんまだしも
足軽たちは歩いてあげな遠くまで行ったっちゃろうか?
馬に乗ってても大変ですバイ・・・・
尻の皮の剥けろうとこぃ・・・
それに道中の食事は?風呂は?
たくさん疑問の出てきます。
合戦の後は何万て言う討ち死にした兵士がおろうに
誰が葬ってやるとか?
いやそのままほったらかしかも、そしたら伝染病も
まん延しょうとこぃ??
そげな素朴な疑問ばやっぱ考えよう人のおらっしゃあとね
「筑前戦国争乱」て言う書物ばひもとくと・・
「五万人の糞尿考」ていう
談のありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/b4/e4b86fadb58027dde3d5dbc3fa1bd2f5.jpg)
永禄12年5月から10月までの「立花城戦」で
大友側3~5万(各書物により定かでない)
毛利側4~5万が相対した
5万て言うたら小都市の人口に相当する。
米の消費量だけでも1人1日5合として250石
1か月で7500石という膨大な穀量となる。
もちろん馬は別・・
この大集団から排泄された糞尿は、どのように処理されたのだろうか?
興味深々!!
陣中にトイレば造っとったらしい。
溜まった肥は農民たちに汲み取らせたらしいばってん、
合戦が長引くほど大軍団じぁ深刻な糞尿問題
負けた方はその場から逃げだすけん結局勝った方が
「最終処理ばしたものと思われる」げな・・
立花城合戦の場合、博多方面に布陣する大友軍は
各隊ごとに仮設トイレば造って汲みだし
比恵、堅粕村の農地やら川、海に放流したか、
一方毛利軍は、立花山麓の下原、三代、立花口
太郎丸、青柳周辺の農地、山野に深く穴ば掘り、
各所に仮設トイレば造ってそこで用ば足させた
満杯になった糞尿は桶に入れて
新宮浦から漁師の船で海上投棄されたかも・・・
そのせいか立花、青柳あたりはみかんの
よう採れます。新宮の海も昔はくそまみれ・・
魚は太ったでっしょうや・・
あたしたち個人の1か月の糞尿の量は
約90リットルて言われます。
これば単純計算したら5万人なら1日15万リットル
これば2トン車で運んでも1日80台が必要。
車のない当時はすべて人力で汲み取り
1斗入りの肥桶ば天秤棒の前後にぶら下げて
「カトちゃん」のごと運んだとでしょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/f9/653a7f27717fe911f5701eec67ad1516.jpg)
ひとりで2斗担いで10回往復しても5万人ぶんなら
約400人が必要
尻拭くとも紙やら貴重品の時代。
縄ば渡しといて厠から出てきてその縄ば
またいで、前さぃ進むと縄に大がふき取られるしくみ。
家族が多かったら前の人んとが
乾かんうちに・・ぁ~汚か~
竹の麦皮ば剥ぎ取ったあとの竹ば細う割って
割りばしのごとして、それば使うて
大ばそぎ落とす方法も
下痢したときは大変やろう・・・
やっぱり昔の人は痔ば患う人が多かったらしい。
農家では昭和初期まで質の良か下肥ば安定して得るため
企業や人家と契約しとったげな
裕福な人たちのウ○コは食べ物が良いけん
良かウ○コ・・・・
汲み取り屋さんは便質でその人の病気まで
言い当てたとか。
臭い、色、硬軟、で識別できるごとなったらしい。
昔、「チューインガムの包み紙で大の処理ばする方法」
て言うとば山登り仲間に教えてもらったことのあります。
包み紙(小さなもんです)ば4つ折りにして角ば
切り取ります。この角があとで大事
包み紙ば広げると中央に穴があく。
それに人差し指突っ込んで人差し指で
尻の穴についた大ば拭いとります。
指ば抜きながら包み紙で指についた大ば拭きとります。
最後にとっておいた角の部分で
爪の中に入った大ばこそぎ落とす
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/teeth.gif)
これは冗談
ほんなごとやっても匂いは取れめいもん
話は戻って・・
こげな高尚?な知識が得られるとも
本のおかげ・・・・
秋の夜長は
読書にいそしみましょう!!
参考文献
「筑前戦国争乱」吉永正春著
海鳥社から出版