千鳥足こと博多のおいしゃんの独り言

妙楽寺と東長寺

御供所ライトアップウォークに行って
改めてかねてからの疑問?ば思い起こしておりました。

どちらも開山は現在の「博多五町」の付近・・

「妙楽寺」は我が古ノ一の中の旧町名「妙楽寺」
おいしゃんの生まれた町です。

「東長寺」はお隣土居流の「行町」のあたり
ばんぢろのあったところ・・

おいしゃんの実家から歩いて数十歩のところ

このせばい範囲にこの二つの寺が隣接して建って
おったとかいな?がかねてからの疑問です。

「東長寺」は西暦806年の開山
「妙楽寺」は同じく1316年
天正年間にどちらも戦火で消失しておりますバッテン

この間、500年くらいは同居?しとった
ことになります。

文献には「妙楽寺」は博多の大半を占める敷地で
海外貿易が盛んに行われたて言います。

旧妙楽寺から現対馬小路までは歩いてもものの5分
て言うことは妙楽寺は横長の敷地であったたと
思われます。
現対馬小路はそのころ海岸であります。

セバイ旧博多息浜ば考えたら寺しかないほどの
面積でありますったいね・・



この地図の中ほどに浮かぶ島のごたぁとが
現在の須崎、古門戸、対馬小路、奈良屋、紙屋、大浜地区に
当たります。
着物の袖のごと入海が入り込みその形から
唐船が着くところば「袖の港」と称しておりまして
それが今の川端あたりです。
この入海の上、島の南岸あたりが「行町」になります。

後の博多のメインストリート管内~綱場~掛町は
この入海ば埋め立てた位置の大水道北辺りになります。

考えたら「行町」ばばんぢろば基本に考えよったけん
いかんやったとです。
目の前に昭和通があるけん・・
昭和通り向こうの「木梨外科」も行町
それからしたら「東長寺」があっても理屈のあいます。
行町から東側は奈良屋、蔵本になりますばってん
これは後のに形成された町名であることから
東長寺も横長の敷地やっとでっしょう。

行町の北には「西方寺」もあったったい
寺ばっかりやが・・

いっぺんタイムスリップしてその頃に
行ってみたいと思います。

謝国名さんに逢うて・・・
「承天寺は未来もこげんして
賑わいよります」てお話してみたか

今の追山・・
東長寺ば奉納して承天寺に向かい妙楽寺ば通って
東町筋ば下ります。

考えたらその昔も妙楽寺と東長寺の間ば
山が走り抜けて行きよったとですね

もちろんその頃は「追山」はありません。

ランキングに参加中です。
見るたびにクリックしてつかあさい!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「博多今昔」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事