「御供所ライトアップウォーク」ば見げぇ行ってきた。
日曜の最終日て言うとぃ結構な人手やったです。
まずは「承天寺」ご存知「山笠発祥の地」として有名です。
15日の追山この碑の前に「清道」が立てられ
住職が山ば迎える場所です。
門ばくぐると
東流の舁き山「胡蝶天空舞」が
ライトに照らされてお出迎え・・・・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/0d/001fe3eb70733d45788ec7083b3766a7.jpg)
境内には「饂飩、蕎麦、饅頭発祥の地」の碑もあり
露天でうどんが出ておりました。
広い「承天寺」道ば渡って「方丈」へ
方丈(住職の接客や仏事に使う建物)前の枯山水の石庭
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/a6/76e9d33f91d0c0ccbd202caa63e592f6.jpg)
それに続く、泉水庭(この時だけしか見られません)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/4d/edfe7eb09f74ea61bdaba2e4fd7fa27c.jpg)
携帯のカメラやもんやけん
よう撮れとりまっせんばってん
幻想的な世界やったです。
波型の砂文様の前にいっぱいカメラば抱えた人たちが・・
なるほど方丈前の石舞台で「稚児舞」の始まるとこでした。
まぁ稚児舞は松囃子の時でもみらるるけん
次の「妙楽寺」へ
妙楽寺はおいしゃんの生まれた町
「妙楽寺新町」に由来する愛着のあるお寺です。
正式には「石城山妙楽円満禅寺」言います。
名古屋で有名な「ういろう」
ここが伝来の地でもあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/2f/c22c2f6d08b597f3fc095fc0772e9572.jpg)
門から本堂までの間のライトアップ
昔は「博多息浜(現在の昭和通北側)」のほとんどば占めるほどの敷地で
境内では広く海外貿易が行われ
海外からの日本への文化はここから入ってきたて
言われるところです。
中で商いばする商人は「石城の商人」て言われ
門前町は日本の技術のトップが集まる
エリート職人集団の町であったといわれます。
妙楽寺は天正14年(1586年)に全焼し、
慶長5年(1600年)、福岡藩初代藩主、
黒田長政が入国後、現在の御供所町に寺地を与え、
慶長7年(1602年)三要専公が再興されたとです。
旧奈良屋小学校の校歌にも出てくる
「偲べ歴史を宗湛の~」の「時の博多の豪商」
神屋宗湛の菩提寺でもあります。
こちら方丈前の舞台でちょうど「稚児舞」の
始まるとこでラッキー・・
松囃子の時と違うてライトアップされた稚児舞は
幻想的であります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/52/e2c80ff3315f0a1e28f5ea27c758178f.jpg)
最後は「東長寺」
妙楽寺から東長寺までの道すがら前K端町取締のあっちゃんば
見かけました。彼女?と二人連れやったけん
そ~っと見過ごしてあげました。
「東長寺」ご存知第二の清道が立つお寺
これも大昔は博多の息浜にあり土居流の「行町」は
この東長寺に由来します。
勤行ば唱える町で勤行町→行町になったとです
江戸時代まで東長寺に属する神護寺が櫛田神社ば
管理しとったていう山笠にも非常に関連あるお寺です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/66/3487db5fcd56ced17084be5f2e66e331.jpg)
六角堂も写したバッテン夜景モードで
手振れしてしもうた。
東流(稚児舞)の「滝田さん」のお顔も見えました。
この御供所界隈はおいしゃんが週二回、
博多駅から仕事の帰り歩いて帰る道筋です。
普段は人通りも少ないばってんなんかしら
大博通りば歩くよりせばい追山コースの「東町筋」
ば歩くほうが落ち着きます。
戦災にあわんかった昔ながらの家並みの残る町は
戦災で焼け昭和通りで半分の町が無うなった北側から見たら
羨ましい町並みです。
いっぺん隅々まで歩いて散策してみたいと
思うとります・・・・