千鳥足こと博多のおいしゃんの独り言

博多風土記から

何回読み直したっちゃ全部新鮮でついつい読み込んでしまう「博多風土記」

初版は昭和44年です。

きしくも著者の小田部さんはこれ書かれたとが今のおいしゃんと同じ68歳の頃です。

「小田部博美」さん、明治生まれの博多のおいしゃんです。

これだけや無うて数多くの博多に纏わる著書を残されてます。

この方、歴史学者やありませんけん文中にも自分が見聞きしたことば

書かれとるとこはおいしゃんと一緒です。て言うかおいしゃんが

この方の手法ば真似しよるて言うた方が良かかもしれまっせん。

一つ言えるとは元新聞記者やけんデータは一杯持っとんしゃったようです。

「博多を語る会」の創立メンバーの一人です。

文中は博多に纏わる伝説や思い出で構成されとります。

詳しい歴史は歴史学者さんにお任せってのもおいしゃんとおんなじスタンスです。

 

さてこの「博多風土記」は明治生まれの小田部さんが書かれたもんやけん

いささか読むとにつっかえるとこのありますと。

それは今じゃとても使わん漢字ば使うちゃるし言葉の意味もわからんとこも・・

そいけんおいしゃん文中にフリガナと脚注入れる作業ばしよるとこですたぃ!

古文書と違いこれくらいはおいしゃんも調べられますけんね(^^♪

例えば「綽名(あだな)」「諱(いみな)」「赤心(まごころ)」「序に(ついでに)」等々

ついでに「官寺」やら「博多綱首」「殷賑(いんしん)」やら意味も調べて

脚注つけよります。

例えば「謝国明」は綱首て言われる商人て愕然と思いよったばってんが

調べてみたら「綱首(こうしゅ)」とは船ば所有し自ら船に乗り込んで

貿易活動ば行う商人のことゲナです。改めて勉強になります。

大陸のシルクロードで商売したマルコポーロたちとは違い

船ば使うて海ば股にかけて貿易する商人です。

 

たいがい儲かっとるに違わん、私財なげうって承天寺作ったほどですけんね。

※文中この「なげうって」も旧漢字使うてあります。

IMEパッド使うたっちゃぁなかなか出てこんけんここで漢字は使いません(>_<)

今おいしゃんのライフワークも少し行き詰っとるとこやけん

一時、この「博多風土記」から抜粋して記事ば書こうて思いよります。

そこで今日はこの「博多風土記」でも最初の方に出てくる

「宋の帰化人謝国明」から・・・・・・

時は鎌倉時代、日宋貿易が盛んな頃です、鴻臚館の交易から

貿易が博多中心になった頃です。

この風土記、辻の堂、出来町あたりの博多のはずれから書き始められとります。

そしてこの辺りにある大楠さんから話ばはじめるとこはいかにも

小田部さんな博多通ておいしゃん思いましたね。

出来町の大楠さんは博多の恩人「謝国明」が住んどったとこです。

現水道局やら若八幡の近くです。

当時、博多綱首やった謝国明は私財ばなげうって承天寺ば作りましたばってんが

創建される前の年、博多(九州地方全部)は大飢饉に襲われます(疫病やありません)

食べるものがなく年越しもでけん博多の民衆は櫛田神社や東長寺、聖福寺

それに創建前年の承天寺に集まってきます。(仁治2(1241)年山笠起源説)

そこで謝国明はこの四か所でそばがきば振舞うて年越しがでけたそうです。

それが今の「年越しそば」の始まりて言われとります。

博多では今でも「運蕎麦」て言い実際、当時博多は翌年は景気が回復に

向こうたそうです。

この恩義があるけん昔から追山はその恩義に報いる為に

この四か所に山笠ば奉納するとです。

昔は聖福寺にも舁き入れて奉納しよったそうですが

追山が始まって時間ば競うごとなって通り道やけん聖福寺だけはそのまま

通り過ぎるごとなったて言われます。

そいけんおいしゃんが当番の時の人形は「謝国明」にしました。

標題は「余香複侑大楠恩(よこうふくいくたりだいなんのおん)」

時は流れても受けた恩は花の残り香が漂う如く残るて言う意味です。

 

さて、この謝国名の肝いりで承天寺ば開山したとが宋から帰国した

円爾弁円、後の「聖一国師」です。

弁円は宋から饅頭の作り方と楓の種子ば持ち帰りました。

弁円が福崎の荒津山に立ち寄った時、茶店の「栗波吉左衛門」に

饅頭の作り方ばおそえて栗原家は我が国の饅頭屋の元祖となります。

後に弁円は京都に上り「東福寺」ば開山することになるとですばってんが

京都でも饅頭の作り方ば伝授しました。

それが「虎屋饅頭」の起こりて言われます。

承天寺に撒いた楓も京の東福寺通天挟にも撒いてます。

それが後に京の有名な「通天楓」になったそうです。

楓は蛙の手に似とるけんカエル手がかえでとなったゲナですバイ(^^♪

聖福寺の開祖「栄西」が茶の種ば持ち帰り背振山に撒き(嬉野茶)

その後、京に上り撒いたとが「宇治茶」の始まりと似とります。

こげな面白かお話満載の「博多風土記」です。

少しずつシリーズで紹介していこうて思います。

次回は「対馬藩ゆかりの対馬小路(山笠の栄吉等)」

魚屋で煮売りやから始めた「落石栄助(栄吉氏の祖父)」氏が

本格料亭(やま利)ば起こすまでのお話やらも交えて書いて行きますね。

この風土記、やま利が火事になったことやおいしゃんちの人形屋が

火事になったことも書いてあります。

今はビバレイン(川端)にあるツツ井美容室

昔は中対馬小路にあった西洋館の「筒井髪摘屋」やらも交えて

書いて行こうかな?こうご期待を・・・・・・・

今日はこの辺で

チャンチャン


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