千鳥足こと博多のおいしゃんの独り言

風土記から(対馬小路)

昨日あたりから飾り山笠の飾りつけが急ピッチに始まりました。

今年も「龍」が多いですね。水害の出らんのきゃ良かばってん。

かねがね思いよったリバレインの飾り山、あそこだけお櫛田さんと

反対向いとりますったぃ。今日、川端の元取締「髪結いの筒井さん」に聞いたら

な~る(^^♪

リバレインの建物のくぼんだ場所に建てるけんお櫛田さんの方向けたら

山の表が壁の前にきてみる人が見づらいけんていうことで

お櫛田さんにも了解済みとのことげなです。疑問解決!

※写真は昨年のリバレイン飾り山です。

このお話はここまでばってん今回はこの「筒井さん」にも関係あるお話。

風土記の中でも今回の「対馬小路」はけっこうページば割いてあります。

この町名の由来は現在の対馬小路(旧大下おおじも)」の浜近くに

対馬藩の屋敷と大きな倉庫があったことからです。

そして対馬小路は今の対馬小路ではなく現在の古門戸町と須崎町に挟まれた

下対馬小路・中対馬小路・上対馬小路やった部分ば言います。

※現須崎町と古門戸町の対馬小路筋

現在の対馬小路は昭和24~5年くらいまで松の木が生えた海辺やったていいます。

戦後の福岡市の町名町境改正でここも古門戸町が大和町という町名やったように

対馬町て言う名前になるところやったとです。

中対馬小路には「沖浜稲荷」があります。おっぺけぺの音二郎の生誕の地。

戦災で焼ける前は沖浜稲荷社光照寿院の境内は121坪あったて言います。

そこに弘法大師が衣ば掛けたて言う「衣掛の松」があったて言います。

実際、このすぐ東側の「行町」は鰯町の渡唐口に第一歩ば記した空海が

初めて行ばなした地であり「勤行の町」からが町名の由来です。

ここ対馬小路には岩崎姓が多いとですが代々大工棟梁の家筋らしく

明治の頃「岩崎元次郎」氏が土建業岩崎組ばおこしとります。

この元次郎さんの兄が大工の庄三郎さんで稲荷の下隣に住まいその隣が

大阪の日本一薬館の取次店の塚田薬局で現麹屋番の塚田君とこなんですね。

その先が今のパンダさんとこの「料理屋やま利」

初代振興会会長の栄吉さんのお爺さん(栄助さん)の時代は肴屋で

煮売り屋ば始めたとが料理屋になる基礎で栄助さんに見込まれた

芥屋町生まれの鹿吉さんが養子に入り料理屋ば始めたて言うこと。

その後火事で全焼、再建途中に鹿吉さんは亡くなり跡目ば継いだとが

栄吉さんで一流料亭にのし上がったばってんがまたまた火事で全焼。

栄吉さんは世話好きで戦時中は市会議員で在郷軍人西分隊長等ば務め

戦後、祇園山笠の原動力となったとはご存じのとおりです。

やま利の隣に立石乾物店の倉庫があってその東側角にあったとが

「髪摘屋筒井」、レンガ造りの西洋館が有名やったらしいです。

明治の中期頃、大阪から下ってきた理髪職人が現在の「ヘアーサロンツツヰ」

昔の地図見たら筒井さんの床屋は数件ありましたもんね。

当時は西洋館造りのレンガ造りの髪摘屋は珍しかったらしいばってんが

やっぱ博多の人は「レンガ造りていうたっちゃぁ家のすそだけがレンガ造り」て

悪態付きよったげな(^^♪

横町筋の西側角にあったとが石村萬盛堂、萬盛堂から以前五町会の

法被が出てきたとは納得ですね。当時の博多五町は

上・中・下対馬小路に妙楽寺・新町で、バス停の博多五丁とは別もの。

しかし博多の商家は結構古い家が多かですね。

戦災で全焼したけん住んどる場所こそ昔とは違うばってんが

家康について三河の商人が江戸に行ったとににて

博多は大阪から下ってきた家が多かですね。

以前、川端町にあった小原カメラも元は京都から博多に

移り住んだ菓子職人の「小原伝右衛門さん」です。

さて、その太閤様が復興町割りした博多の夏祭りが来週から始まります。

今年はどげな山笠になるでしょう(^^♪

チャンチャン


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