千鳥足こと博多のおいしゃんの独り言

風土記から(魚町中島町の山褒め)

現在、中洲流は1丁目~5丁目で構成されて中島町は参加しとりません。

ばってんが昔は現在の中洲(南新地)辺りは人が住んどりませんでした。

最初は入海やった所、黒田藩が今の中島町辺りば埋め立てて商売地としたそうです。

福岡と博多の間にできた町やけん「中島町」

その島の東西に架けたとが今もある東中島橋・西中島橋です。

最初は福岡の管轄やったばってんが後年博多に編入されて「魚町流」になります。

この「流」南北に通る町筋ば本筋として東西に通る町筋ば横町としました。

本筋の町は那珂川の流れに沿って建てられたけん「流」てなったのではて言われます。

中島町が魚町に編入されたとにはなんか理由があったはずやばってんが

それはなしてか?定かではありません。

昔は追山が周り止めに入ったら堂山(偶数番山)は麹屋番、掛町筋ば通って帰路につき

(昔は昭和通りはありません)差し山(奇数番山)は川端ば通って帰る仕来りやったげな。

魚町流でちゃ中島町は流舁きでも舁き入れんけん追山の後、東中島橋のたもとの

町民に山ば止めて見物(山褒め)させよったげな。

これが混雑の原因になるて他流から異議がでたけん以後、中島町の山褒めは

十一日に行うとなったゲナ。

流舁はながれうちの町内ば舁きまわるおきてのあったとぃ

当時は四尺以上もある舁き山が中島橋ば渡るとは危険が伴うとして

中島町に舁き入れるこたはなかったげなですばってんが幕末にいっぺん、

明治34年頃いっぺん舁き入れられたことはあるそうです。

現在の東中島橋は昭和通りができたため旧東中島橋より50m南寄りになってます。

西中島橋は従来の位置で昭和26年に架け替えられたけん

西中島橋ば渡ったところに福岡に入る「枡形門」がありました。

もともとこの中島町から博多に入り橋口町から掛町・麹屋番・綱場町

中間町(なかんまち)石堂町・勘内町の六丁筋が博多のメインストリート。

ばってんが電車通りがこの南側(明治通り)ば通ることになって

賑わいば電車通りの方に奪われた挙句、先の大戦で空襲ばうけて

六丁筋は消滅してしまいました。

幕末から明治にかけてこの中島町は栄えていろいろな逸話もある町ばってんが

魚町やった中島町が現在の中洲流に属してないとはそういう所以カモしれまっせんね。


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