この論考は、『現代生命哲学研究』第8号(2019年3月)に掲載されています。
坂田昌彦さんはご自身の体験について書かれています。
はじめに に書かれているように
「急激に認知症を発症し自宅介護ができなくなり認知症病棟に入院した90歳前半の母」との日々から
/人間の「生」と「死」とは何か、そして人生最終盤における「認知症」のケアなどの在り方を模索したい/
との思いで書かれています。
まず、「母」(坂田さんのお母様は「」をつけさせていただきます)は、
1.才女として女子高等師範で数学を学び卒業後には教師として数学を教えた
2.結婚後は「父」を内助の功で支え、高校の非常勤講師や塾の先生を務め、家計を支えた
3.「父」が脳溢血を倒れると献身的な介護に務め、暴言にも耐えた
4.愛情深く子育てに力を注ぎ、二人の子供を育てた
坂田さんが書いているようにまことに「立派な人生」です。
そして現在の様子を書かれています。
「母は認知症病棟にいる。母は個室からあまり室外に出ない。作業療法にも参加しようとしない。
たまに個室から出てきて、遠目からそれを見ているだけだ。友達を作ろうとしない。
他者から必要とされ信頼されてきた女性の最晩年が、こんなにも侘しいものなるのかと思う」
/人間の「生」と「死」とは何か、そして人生最終盤における「認知症」のケアなどの在り方を模索したい/
※私自身と共通することの多い体験です。坂田さんがどのように論考されたかを追います。
2.グラデーション(漸時的移行)
「生」と「死」は、私たちの生きている社会ではトランプの表裏のように「生」か「死」に隔てられている。
それは、社会が定義したものであり、自然界にはそのような「定義」は存在しない。
トランプの表裏という二元論的な認識では、見落としてしまう領域がある。
グラデーション(漸時的移行)
人生を空に例える。
「星空のなかを、東からス少しずつ太陽が昇り辺りを照らし、次第に青空へと変えていく。
そして、太陽はメラメラと輝き、見渡す限りの突き抜けるようの青空を描く。
しかし、やがてまばゆい輝きを放った太陽は徐々に西に傾き、
いつしか夕暮れの空を、日没後には夕闇の空を描き、星空に戻る」
虹は7色といわれるが実際はグラデーション。境はないのですね。境は「定義」です。
人の誕生とはいつだろうと思うと、「定義」としては母親の胎内から生まれた瞬間と言われます。
しかし、それは通過点とも言えます。
母親の胎内で育っている時、すでに生命として誕生していると言えるかもしれません。
また、「死」についても同様な考察ができます。
三兆候(瞳孔反応停止、呼吸停止、心停止)が「定義」です。
これを判定するのは医師だけです。
脳死判定は別な「定義」です。
坂田さんは、「母」の現在のグラデーションの価値を、現代に生きる人間が新たに「定義」づけなくてはならないという。
そして便宜上、<夕闇の時期>。壮年期を<青空の時期>、死を<星空>の時期と「定義」します。
<夕闇の時期>とは、西空に陽が落ちてもオレンジ色に燃えた勢いが、やがて星空に代わっていく時期です。
私たちは、この時期のことについて、戸惑っているのが実情です。
私の母も、認知症を患い<夕闇の時期>を過ごしています。
<青空の時期>に持っていた記憶の大半は失われています。
しかし、間違いなくそこに母親の性格の根っこを見ます。
母は別人にはなっていません。
やがて意思疎通ができなくなると思います。
この<夕闇の時期>の症状は、坂田さんの「母」と私の母では少し違いますが、
近い症状は、「見舞いの日によって、母の様子は違う」ことです。
「母」は幻覚に支配される時も、穏やかな時もあるそうです。
母は幻覚に支配されることは少なくなりましたが強い不安があります。そして穏やかな時もあります。
脳の神経細胞の損傷部位の違いでしょうか。
お読みいただき有難うございました。