岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

【家庭舎】その建物としての構造    石井十次40

2005-03-31 10:10:41 | 石井十次
それでは家庭舎のハード面について、十次はどのように考えて いたのだろうか。 十次は、建築についても大いに興味があったようだ。 旅行する町々で建築物を見て歩いている。 音楽隊が各地を巡回する時も、その地の建物の観察を怠らなか ったという。 岡山孤児院の建物は78棟に達したのであるから、もし十次が 建築家であったとしても十分なキャリアである。 十次は小舎制の最高水準の建物を建てたと考える。 家庭舎と . . . 本文を読む

【院内】家庭舎と養育  石井十次その39

2005-03-30 12:16:16 | 石井十次
1906年(明治39年)収容児数が前年比3倍に急増する最中に 家庭舎という小舎制へ移行を始めた。 10~15名収容の建物を数多く建て、建物ごとに一人の主婦 (保育士)が児童の養育する体制は、当然ながら建物の 数に見合った主婦が必要になった。 十次は1906年(明治39年)1月発行の岡山孤児院新報で、 「院内を全く理想的即ち家族的(バーナード式)に改良した きこと」などが書かれており、特に家庭舎建 . . . 本文を読む

【皇室】御下賜金って。   石井十次その38

2005-03-29 10:50:00 | 石井十次
御下賜金とは何か。 相撲の天皇杯のことを賜杯という。 これは正確に書けば、御下賜杯ではないだろうか。 詳しい方は教えていただたい。 私は御下賜金を以下のように理解している。 「立派な行いをしている人への皇室からのお金のプレゼント」 そして、皇室が寄付をするのだから、国民はこぞって寄付を すべしということになる。 効果は絶大である。現在でも社会的な事業を行っている団体に この寄付がある。しかし、戦 . . . 本文を読む

【孤児1200名】いかに暮らす2       石井十次その37

2005-03-28 14:30:38 | 石井十次
ここで少し突っ込んで、岡山孤児院の財政がどのように なっていたか、考えてみよう。 100年前の施設の財政を書いてどうする、という意見もある とは思いますが、現在では、福祉施設の運営経営(ソーシャル ・アドミニストレーション)が重要視されているので意味の あることと考えています。 1906年(明治39年)、この年の岡山孤児院の全歳出は、 14万4000円といわれてる。 現在の貨幣価値にする12億円 . . . 本文を読む

【イラク】帰還米兵の心の闇は深い。

2005-03-27 23:17:33 | 世界のなかま
テレビ・ドキュメントを観て、これは大変なことだと思った。 戦争に参加することで、精神を病むことは昔から知られて いた。第1次世界大戦後にはすでに大きな問題になったいた。 日本では、戦争ボケなどどいわれた。 勇者がなる病ではないといわれ、表面化されない場合が 多かっただろう。この傾向は今でもある。 イラク戦争では、ストレスを感じたら上官に相談せよ、 といわれているらしい。 しかし相談すると、本国 . . . 本文を読む

【孤児1200名】いかに暮らす     石井十次その36

2005-03-27 22:17:12 | 石井十次
1200名という、小さな町か大きな村の人口ほどの院生を 抱えた十次は、いかにキリストの導きとはいえ、着る服、 食べるもの、住む家は、「みんな」で集め、つくるしかない。 ここでいう「みんな」は、国の内外を問わない。ちょっと、 想像ができないくらいの人数の援助があったのではない だろうか。 集った総額はどのくらいになるのだろう。この話が終る頃 までに調べればと思う。参考までに、死者14万という 関東 . . . 本文を読む

【寒さの夏はおろおろ歩き】宮沢賢治の夏      石井十次その35

2005-03-26 09:42:16 | 石井十次
賢治の「雨ニモマケズ」に謳われた「寒さの夏はおろおろ歩き」 と謳われた東北大凶作は、1905年(明治38年)のことである。 岩手県花巻に生まれた賢治が9才の時である。 平年に比べて1~3割の収穫しかない大飢饉である。 全く収穫のない村もあった。 弱いものは生きていくのさえ困難になってしまった。 十次はこの飢饉が始まる直前に、この飢饉を予期するように、 無制限収容主義を発表していた。 1906年 . . . 本文を読む

【看護婦】吉田辰子について2   石井十次34

2005-03-25 10:06:40 | 石井十次
辰子が孤児院に来てから3年が経った。 1895年、品子と十次に病魔が遅い、品子には炭谷小梅が 付きっきりで看病し、十次の収容先である離病院には二人の 看護婦が付き添った。そのひとりが辰子だった。 そして十次のみ生き残ることになる(2月21日号掲載)。 その時のことを、小梅の講演録から引用してみる。 少し長いが、大切な内容なのでお許しいただきたい。 石井氏は3人の実子と300人(1895年現在) . . . 本文を読む

【看護婦】吉田辰子について    石井十次33

2005-03-24 09:22:38 | 石井十次
吉田辰子(以下辰子)に関して、今だ資料が十分集っては いないが、書いておかなくてはならない女性である。 辰子と十次の出会いは、1892年のあの同志社病院である。 (2月9日号掲載) 辰子は、夫と死別した後、自活のために看護婦になって 同志社病院に務めていた。夫は、関西法律学校(関西大学 の前身)の初代校主吉田一士ということだから、かなり歳の 離れた夫婦だったのだろう。 この年の十次の日誌をじ . . . 本文を読む

【教育に未来を託す】福西志計子と木村静   石井十次32

2005-03-23 10:04:24 | 石井十次
福西志計子と木村静はともに、備中高梁の生まれである。 福西志計子(1847~1893)は、藩士の一人娘として生まれ 養子を迎えた。 木村静(1837~1900)も士族の生まれで、本家に嫁ぐが 寡婦となる。 ともに1875年(明治8年)、岡山の裁縫伝道所に向う。 時代は明治に移っており士族には厳しい時代である。 自活しなければならなかった。 福西の場合は自活の必要はなかったかもしれないが、向学の . . . 本文を読む

【火の玉宣教師】炭谷小梅    石井十次 その31

2005-03-22 11:44:34 | 石井十次
30話を超えた。そこで約束の十次の回りにいた女性に ついて書いていきたいと思う。 十次は、姉妹に囲まれて育ったことからか、女性に対する 接し方が自然である。このことがまた多くの女性に囲まれる ことにつながる。 明治の初期は女性にとっても受難期であり、また未来が拓け ようとする時でもあった。キリスト教に近づいた女性は、 その平等思想に惹かれたようである。 男性においても、平等思想は魅力的だった。 . . . 本文を読む

【え!】手榴弾の解体処理中に爆発、作業員が死亡 北海道

2005-03-21 21:59:03 | 日本の仲間
不可解な事故である。 爆破処理をしたのは下請業者で、初めての受注という。 このような情報はなかなか知ることができないので、 不使用弾の処理は演習を兼ねて自衛隊で処理されて いるのではないかと思っていた。 しかし、東京で備蓄していた3万発となれば、演習でも 使えないのだろう。 特に手榴弾となれば、隊員がミスをすれば、すぐに事故に つながる。ならば下請でということか。 不発弾処理は自衛隊でというの . . . 本文を読む

【里預け】今でも試行錯誤中   石井十次30

2005-03-21 12:42:21 | 石井十次
「里預け」は、今でいう里親制度である。この言葉は、 よく聞く。 では、現在、制度として機能しているのか。 平成15年現在、全国で2,811名が里親制度を利用している。 諸外国に比べてとても少ない。児童養護施設は28,988名が 入所しているのだがその1割にも満たない人数である。 今だ試行錯誤中といってよい※1。 ただし十次の里預けは戦後の里親事業との連続性はない※2。 では、十次は何人を里預けに . . . 本文を読む

【イラク】開戦2年たって。そして「九条」。

2005-03-21 10:26:02 | 世界のなかま
人の噂も75日というけれど、2年もたてば、どんな大切な ことも薄れていく。人間の脳がそうなっているのである。 別に忘れる脳が悪いわけではない。 人間のこの生理を、補うために、会社では毎朝社訓を読み 上げる。人は記念日をつくって当時を思い出す。 読経をし、朝夕の祈りを欠かさない。 このようなことは非常に大切なのである。 でなければ、日々の新しい出来事に流されることになる。 自分という確固たるもの . . . 本文を読む