このあたりは、私の個人的嗜好のように思うが、巡業の準備
の仕方、巡業の演目、ブラスの曲名、幻燈の内容なども
知りたい。
そのような細かなことから、明治時代や十次という人物の
輪郭を浮かび上がらせたいと思っている。
資料※によると、巡業の前に音楽隊が町や村を歩いて、
開催を触れまわる。
職員は、担当別に準備する。会場準備、総督(ディレクターか)、
木戸札売り、接待係など。今と同じ。
開会:8時 . . . 本文を読む
市側は、166億円の改革案を、官邸に報告にいった。
あの大平助役が、永田町を回った。
自民党は、なりふりかまわず、市労組攻撃を始めた。
次期衆院選に向けての攻撃開始である。
政権は守るためには、野党の基盤のひとつである労組の
連帯低下が不可欠である。
自民党も、もはやそれを否定しない。
さて、今回の大阪市役所問題は、政争の具にされるべき
ものではないのは明らかだ。
今の大阪市役所は、ひとつ . . . 本文を読む
では、具体的に幻燈を購入し音楽幻燈隊が巡業していった行程を
書いていくことにしよう。
1898年(明治31)というから、「日向巡業」の次の年1月末に
幻燈機が手に入っている。この資金も米国からの寄付が中心
らしい。本当に米国にはお世話になります。
さて、巡業が出発するのが、幻燈が手に入って1週間後、
2月5日である。
すでに写真等は集っていたのだろう。まことに段取がはやい。
一緒に作業を進めてい . . . 本文を読む
音楽隊は、「東洋救世軍音楽隊」と名付けられて、伝道目的で
始められた。「東洋救世軍」というのはいかにも十次らしい
気宇壮大さが感じられるが救世軍に許可をとってつけた名前
ではない。そのうち使わなくなる。
「音楽隊」の詳しい数字は、前述の共栄学園短期大学の菊池
義昭助教授によることになる。
当初、伝道目的だったが、利益が上がるようになってくる。
そこで、孤児院の収益事業になってくる。他の実業として . . . 本文を読む
十次の事業に語ることは多い。これからもどんどん書いて
いきたいと思います。
まずは岡山孤児院の名物といえば、【音楽隊】である。
この話だけでも十分、1冊の本が書くことができる。
音楽隊は、岡山孤児院の創世期である1891年(明治24)
から、1911年(明治44)まで、20年に渡って活動を
繰り広げた。最初は、シンプルな音楽隊だったが、時を
経るごとにスケールをアップしていく。
ここは、明治期 . . . 本文を読む
貧困とはどのようなものか。19世紀末、世界で最も資本主義
の進んだ英国で調査が進んでいた。もっとも富める国でなぜ
貧困調査なのか。
今では常識でもある「富めるものはますます富み、貧しい
ものはますます貧しくなる」という仕組みは、当時理解されて
いなかった。
だれがどこで貧困調査をしたかについてなら、社会福祉を学ぶ
ものはよく知っている。
さて日本国内にそのことを知らしめた人はだれだったのだろう . . . 本文を読む
1895年(明治28)3月、満天を被う星が流れていった。※1
十次、品子夫婦は相次いで三十路に入った。
疾風怒濤の20代は過ぎ去ったが、新たな試練が
ふたりを襲うことになる。
この年、品子は3月に三女 基和子を出産する。次はぜひ
男子を、と期待されたかもしれない。
しかし、この時すでに品子は結核におかされていた。
結核は当時不治の病といわれ、恐ろしい病気だった。
この病に品子は床に臥したままに . . . 本文を読む
十次にとっても岡山孤児院とっても大切な人である。
品子について書いていきたい。
品子は十次と同じ年で同じ郷里の出身である。
結婚したのは16歳(1881年=明治14)だが当時は
あたり前だったのだろう。
今でいえば高校生である。当時でも成長途上の結婚
である。どのような新婚生活だったか。これから
調べていこうと思うが、結婚イコール同居ということ
でもなさそうである。
十次が岡山で医学生だった頃 . . . 本文を読む
今朝、文珍の番組で、アンケートをとっていた。
ライブドアとフジテレビのどちらに肩入れするか。
どうなるか、非常に興味があった。
結果は、ライブドア3分の2!
へーと思った。みんな鋭いな!
経済界や自民党が守っているものが何か?
感覚的にわかっているんだ。
手続きがどうだと、言っている人々。
では、手続きを取れは参入できるのか。
プロ野球でもできないのに、
既存マスメディアにできるわけはない。 . . . 本文を読む
濃尾大震災の救済について奔走する十次は、岡山孤児院の
子どもの教育にもなると、あることを思いついた。
岡山孤児院の子どもによる救世軍である。もちろん、
軍平の救世軍ではない。その救世軍は4年後に
日本上陸をする。
子供たちの救世軍は、ラッパを鳴らし、旗をたなびかせて、
岡山市内を歩き、義援金を集めた。
やがて、市内だけでなく、県内の各地を回った。
震災の年の11、12月の2ヶ月間で、900円が . . . 本文を読む
ご無沙汰しています。
いくつか図書館を歩きました。この岡山県立図書館は新しく、
資料も豊富で時間がいくらあっても足らないくらいです。
市立中央図書館にも行きました。こちらも郷土の資料は多く、
手におえない感じです。
資料をいろいろみると、ガテンがいったりするのはいいけれど、
自分が始めたテーマの大きさに、呆然とすることになりました。
今は石井十次と留岡幸助の資料をみていますが、近年の
大学関 . . . 本文を読む
☆今週は旅にでます。で、土曜まで更新できません。
岡山に寄れたらと思っています。ちょっと資料不足です。
+ + +
私はこの文章を書くために年表として、講談社の「日本全史」を
使っている。
ページ数は1270ページで、1ページ4段A4変形サイズである。
明治時代だけで100ページになる。大変な量であるが、
社会福祉関係で何ページになるか、調べてみた。
小さな記事ばか . . . 本文を読む
十次の言葉を読めば「正しいことを行え。結果を考えるな」と
いつも励まされる。
十次は楽天主義といわれる。たしかに常人では、「心配で夜も
寝られない」状況下を明るく疾走していく。
しかし明るいだけか。
ともかく、そのスピード感は21世紀の今でも驚くほどである。
(今、BGMは、QUEEN JEWELSだ)
その例を濃尾大震災救済に見てみよう。
1891年(明治24)
10月28日 大震災が起こ . . . 本文を読む
旭川の京橋を少し下ったあたり、貧しい人々の住居が建て込んで
いた。その街の路地を長身の女性がさっそうと歩いている。
中国地方の小都市に米国人はまだまだ珍しい。
ブラウンの長い髪を束ねた碧眼のこの女性に奇異の目が
注がれる。しかし、彼女は気にする素振りもなく、
子どもたちに話しかけていく。
このような街にどんどん入っていくことが、当時の彼らの
使命ともいえた。
この女性が、アリス・ペティー・アダム . . . 本文を読む
十次は、その人々とたちまち意気投合してしまう。
これは、新たなテーマではあるが、武士の禁欲的生活と
プロテスタントの禁欲的生活に共通点があり、互いに
人間として尊敬できる基盤があったのではないだろうか。
(ラストサムライにその雰囲気を感じる。オールグレン大尉は
敬虔なキリスト教徒ではなかったかもしれないが)
ちなみに、十次は士族の出身である。
さてさて、あらぬ方向へ話が進んでしまった。
++ . . . 本文を読む