これから入口の清所門から入り、抜けガラとなった京都御所内を定められた順路に従い見ていきます。
京都御所 1(清所門から承明門へ)
御所とは現在の皇居にあたり、天皇が住み,儀式や執務などを行う宮殿のことで,「内裏・禁中・禁裏」とも呼ばれる。
京都御所の西側です。手前の門が「宜秋門」で、その先に小さく見えるのが「清所門」。御所全体が五筋入りの築地塀で囲まれ、南北約450m、東西約250mの方形で、面積は約11万平方メートル。京都御所は宮内庁管理の皇室財産なので、どんなに貴重な歴史的遺産であっても特別名勝・特別史跡・国宝のような文化庁による評価の外に位置している。文化的評価を超越した存在です。天皇陵も同じ(天皇陵が文化財的評価を得て世界遺産に登録されたのが不思議です)。京都御苑は環境庁管理の国民公園。
(パンフレットの参観順路図)
★・・・現在の京都御所の歴史・・・★
平安遷都時の元の平安宮内裏は、現在の場所より1.7キロほど西方にあった。その平安宮内裏は何度も焼失・再建を繰り返し、その都度天皇は、一条院・枇杷殿・京極殿・藤原氏など公家や貴族の邸宅に移り住み一時的な仮の内裏として使ってきた。これを「里内裏(さとだいり)」と呼びます。天皇の居所は内裏、里内裏と転々とし、平安後期以降になると本来の内裏は次第に使用されなくなり、建物も廃絶するものが増え「内野(うちの)」と呼ばれる荒れ野になっていった。
南北朝時代の建武4年(1337)、北朝2代光明天皇が里内裏のひとつであった土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの、公家・藤原邦綱の邸宅)に居住すると、これ以降他所へ移ることなくここが恒常的な内裏として定着した。これが現在の京都御所の場所で、明治2年(1869)に明治天皇が東京奠都するまで約530年間にわたって天皇の居所として使用され続けられた。(京都御所内に掲示されていた年表には「元弘元年(1331)光厳天皇が現在地の里内裏で践祚。以降この地が約500年間内裏として使用される」とあるのだが・・・)
応仁の乱(1467-1477)で内裏は荒廃するが、天下を取った織田信長が改修に着手、そして秀吉(天正19年/1591)、家康(慶長18年/1613)、家光(寛永19年/1642)が権力誇示するために内裏の整備改築を行ない、しだいに規模が大きくなる。これ以降6度の火災にあい、その都度徳川幕府による再建が繰り返されてきた。
特に天明8年(1788)1月の大火で内裏や仙堂御所が全焼。寛政2年(1790)幕府老中松平定信は、有職故実家の裏松固禅(1736-1804)の「大内裏図考証」を参考に平安時代の復古様式にのっとった紫宸殿や清涼殿、その他の御殿を造営した。しかしこれも安政元年(1854)4月に炎上したが、翌安政2年(1855)に従来のほぼそのままの形で再建された。これが現在目にする京都御所で、かっての平安京内裏の姿に近い形で再現されているという。
北側の「清所門(せいじょもん)」が入口です。ここで検温、簡単な手荷物検査を受ける。そして番号の入った「京都御所入門証」を受け取り、首にかけて歩く。大宮御所・仙洞御所ほどピリピリした雰囲気は感じませんでした。空っぽになり、見せるだけの遺産になった空間と、現在でも皇室が時々使用する空間の違いでしょうか。
清所門は、本柱2本で支えられた切妻屋根、瓦葺。大台所の前にあったことから「台所門」ともいわれる。
清所門から入ると南へ向かって歩く。道の両側にはロープが張られ、その範囲内でしか行動できない。要所々には警備員が配置されているが、威圧感がないので気軽に話しかけてガイドを受けることもできます。
「宜秋門(ぎしゅうもん)」が見えてきた。上の写真は外から撮ったもの。桧皮葺き、切妻屋根、四脚門で、御所に参内する公家が使用したことから「公家門」とも呼ばれる。
「御車寄(おくるまよせ)」です。儀式や天皇と対面するために参内した公卿や殿上人などの限られた者だけが使用した玄関。牛車を横づけしたことからくる名称でしょうね。廊下を通って、諸大夫の間・清涼殿・小御所とつながっている。唐破風の屋根や金飾りに威厳を感じます。
御車寄と棟続きで「諸大夫の間(しょだいふのま)」と呼ばれる建物があります。玄関から入った者の控えの間で、三間からなり、身分の高い順に東側の清涼殿に近いほうから、襖絵にちなんで「虎の間」「鶴の間」「桜の間」と呼ばれる各部屋に控える。部屋により畳縁の柄や色も違っている。御車寄から入りここで控えるのだが、「桜の間」に控える者だけは建物手前の沓脱石から上がらなければならない。
三間の襖絵は写真が掲示されているが、ガラス越し見ることもできます。
諸大夫の間のすぐ南に「新御車寄(しんみくるまよせ)」が建つ。説明版「大正4年(1915)、大正天皇の即位の礼が紫宸殿で行われる際し、馬車による行幸に対応する玄関として新設されたものである。天皇が御所の南面から出入りされた伝統を踏まえて南向きに建てられている」
自動車にも対応できるようにするためか、でっぱりがやや長く、側面の壁が無い。建物にはガラス窓が使われ、中は絨毯敷きで天井にはシャンデリアが使用されているそうです。
御所の南側に回り込むと、黒い建礼門と紅い承明門が対面しながら建っています。桧皮葺き、切妻屋根、四脚門の「建礼門(けんれいもん)」は京都御所の南面中央にあり、天皇皇后及び外国元首などの国賓のみが通ることのできる格式高い門。また葵祭(5/15)、時代祭り(10/22)のスタート地点となります。
建礼門の東側に、潜り戸のような小さな門があり、「道喜門」と呼ばれています。
外から見た御所の南側。手前が穴門の「道喜門」で、中央に建礼門(左の写真)。
16世紀初頭創業の「御ちまき司 川端道喜(かわばたどうき)」という代々続く主人の名を店名とした粽(ちまき)や餅を商う店があった。応仁の乱後の混乱で、皇室も困窮し天皇の食事の確保もままならない状況に陥っていた。そうしたなか、創業間もない川端道喜は、天皇に毎朝「御朝物」と呼ばれる餅を献上するようになった。京都御苑西隣にある店から蛤御門を通り、正門である建礼門の東隣の門を潜って御所に入り毎日天皇の朝食を届けていた。明治2年(1869)明治天皇が東京に移る日の朝まで350年以上にわたって続けられたという。やがてこの門は「道喜門」と呼ばれるようになった。
京都御所には6つの大きな門以外に、こうした屋根のない小さな9つの門があり、「穴門(あなもん)」と呼ばれ商人などが出入りするのに使った。
建礼門の向かいに建つのが「承明門(じょうめいもん)」。庭を挟んで正面奥に紫宸殿が見える。瓦葺き切妻屋根の十二脚の門で、天皇行幸や上皇御即位後の出入りに使われるという門で、下々の者は通れないようにロープが張られている。
京都御所 2(紫宸殿)
東側に周ると回廊の扉が開いていて、ここから庭に少しだけ入ることができます。右奥に見える屋根付きの門は「日華門」。
紫宸殿の前に、廻廊で囲まれた白砂の庭が広がる。「南庭」で、「だんてい」と読むそうです(皇室用語は難しい)。紫宸殿正面に18段の階段が設けられ、紫宸殿と南庭が一体となった、儀式のための空間となっている。
昭和3年11月10日の昭和天皇の即位の礼を書籍により再現してみます。
・午後2時頃、天皇は御学問所で、皇后は御三間で着替えをする。
・午後2時50分、天皇は紫宸殿に入り高御座にお座りになる。
・午後3時、高御座前の紫の帳が静かに上げられる。鉦の音が「カーン」という音が鳴り渡り、庭に参列していた人々は直立、最敬礼を行う。
・午後3時10分、天皇は立ち上がり「神器を奉じて万世一系の皇統を継ぎ即位の礼を行った」と大礼の勅語を述べられる。
・午後3時13分、田中義一首相は十八階段の下に立ち、高御座でお立ちになっている天皇に向かい「天皇陛下万歳」を三唱、庭の参列者全員も万歳三唱する。御所外に待つ参列者も一斉に万歳の声を上げる。
・午後3時30分、天皇・皇后両陛下は御学問所、御常御殿に戻られた。
・市内もお祝い一色となり、万歳行列、ちょうちん行列で賑わったという。
「紫宸殿(ししんでん)」は、即位式などの重要な儀式を行う最も格式の高い京都御所の正殿です。現在の建物は安政2年(1855)に再建されたもの。なお、慶長18年(1613)に建立された最初の紫宸殿は仁和寺の金堂として移築され現存している(国宝指定)。
入母屋造、檜皮葺きの屋根、正面9間、奥行3間で、周囲に高欄付きの簀子縁(すのこえん)をめぐらす。内部は、間仕切りを設けず広い一室とし、柱は円柱、床は畳を敷かず拭板敷(ぬぐいいたじき)とし、天井板を張らず垂木をみせた化粧屋根裏だそうです。柱間には、白板に黒漆塗りの桟で格子を組んだ蔀戸(しとみど)がはめられ、開けるときは内側に金物で釣り上げる。
建物前の庭には、東側に「左近の桜」、西側に「右近の橘」が植えられています。
(写真は回廊に掲示されていたもの)
紫宸殿内の中央に天皇の御座「高御座(たかみくら)」、その東側に皇后の御座「御帳台(みちょうだい)」が置かれています。現在の高御座と御帳台は、大正4年(1915)の大正天皇の即位礼に際し、古制に則って造られたもの。平成天皇、令和天皇の即位礼の際には、解体され京都御所から空輸で東京の皇居に運ばれて使用された。その後京都御所に戻され、現在も紫宸殿に常設されている。
天皇が東京へ移られた後でも、明治・大正・昭和の三代の天皇の即位礼がここ京都の紫宸殿で行われた。何故だろうか?。Wikipediaによれば「1877年(明治10年)、東京の皇居に移っていた明治天皇が京都を訪れた際、東京行幸後10年も経ずして施設及び周辺の環境の荒廃が進んでいた京都御所の様子を嘆き、『京都御所を保存し旧観を維持すべし』と宮内省(当時)に命じた。その翌年にも明治天皇は京都御所を巡覧し、保存の方策として『将来わが朝の大礼は京都にて挙行せん』との叡慮を示して、1883年(明治16年)には京都を即位式・大嘗会の地と定める勅令を発している。旧皇室典範第11条の規定はこれを承けて制定に至った」。そして明治22年(1889)制定の旧皇室典範に「日本国天皇の即位の礼及び大嘗祭は京都にて行う」と定められた。
明治天皇は、幼少期を過ごされた京都をとても愛された。東京から京都へ行幸されると、帰るのを嫌がり理由をつけて一日でも長く滞在しようとされたという。そして自分の墓は「京都の伏見へ」と言い残されている。
戦後制定された現在の皇室典範では、場所の規定は無くなり、皇居のある東京で行われるようになったのです。
回廊東側に広い土地が広がる。その奥に見えるのが「建春門(けんしゅんもん)」。切妻屋根、四脚門で、他の門と違い唐破風が付き威厳を示す。儀式の時に大臣や公家が出入りしたという。
広い土地の北側に建つのが「春興殿(しゅんこうでん)」。説明版「大正4(1915)年、大正天皇の即位礼に際し、皇居から神鏡を一時的に奉安するために建てられたもので、昭和天皇の即位礼でも使用された。内部は板敷で、外陣・内陣・神鏡を奉安する内々陣に分かれている」
紫宸殿内に小部屋を造り、鏡を置くだけでよいと思うのだが(納税者としては)。
京都御所 3(清涼殿から御学問所へ)
指定された見学コースは紫宸殿の背後に回り込む。左の建物が紫宸殿で、「撞木(しゅもく)廊下」と呼ばれる渡り廊下で小御所へつながっている。渡り廊下の下を潜り、清涼殿の東庭に入ってゆきます。
清涼殿の東庭が広がる。「東庭」、どう読むんだろう?。南庭が「だんてい」だったので、「どんてい」かな。
一面に白砂を敷いただけの広い空き地です。目につくものとしては、清涼殿前の二か所の竹の植込み。左側(南)が漢竹(かわたけ、皮竹が転化したとも)、右側(北)に呉竹(くれたけ、真竹の異称)が植えられている。左側の建物は紫宸殿です。
この清涼殿も安政2年(1855)に、平安朝の古い様式にならって再建された建物。入母屋造り、檜皮葺屋根の寝殿造り、正面9間、奥行き2間、内部は板敷で、間仕切りで小さな部屋に区切られている。紫宸殿と同様に、格子状の蔀戸がはめられ、内側に跳ね上げて開く。
清涼殿は、元々は天皇が日常生活を過ごされる御殿だったが、天正18年(1590)に生活の場として御常御殿ができてからは、清涼殿は儀礼の間に変わっていった。
蔀戸が跳ね上げられ、内部が公開されている。高欄奥に厚畳が置かれている。これは「昼御座(ひのおまし)」といい、天皇がお座りになる所。その奥に白絹の帳(とばり)で囲まれた御帳台がある。この中で天皇はご休息なされた。天皇が日常生活の場として使われていた時の様子を再現したものでしょうか。
清涼殿の東側に、「御溝水(みかわみず)」といわれる南北に流れる石敷きの水流があり、その北寄りに高さ20センチほどの落差がつくられており、これを「滝口」と呼ぶ。この滝口近くにある渡り廊にかって内裏警護の武士が詰所として宿直していた。そこから清涼殿の警護をする者を「滝口の武士」と称した。またこの詰め所は「滝口陣(たきぐちのじん)」などと呼ばれた。
「滝口の武士」で有名なのは「平家物語」の滝口入道と横笛の悲恋物語。高山樗牛が1894年に書いた小説『滝口入道』で一躍有名になる。京都小倉山にあるこれに関連した「滝口寺」を、私も5年ほど前に訪れたことがあります(ココを参照)。
清涼殿東庭の北側に見える建物は、御車寄・諸大夫の間・清涼殿から小御所や御学問所につながる長い廊下です。表からは見えないが、二つの廊下が並走している。手前が天皇がお通りになる「御拝道(ごはいみち)廊下」、その脇には六位以下の臣下用の「非蔵人廊下」が並ぶ。
清涼殿をでて、さらに奥へ行くと小御所(手前)と御学問所(奥)が、池に面して並んで建つ。
「小御所(こごしょ)」は鎌倉時代以降に建てられ、江戸時代は将軍や大名などの武家との対面や儀式の場として使用された。内部は畳敷きで、床の高さを変えて北側から「上段の間」「中段の間」「下段の間」と並ぶ。
昭和29年(1954)8月、鴨川の河川敷で開催された花火大会で打ち上げられた花火の残火が小御所の檜皮葺の屋根に落下し全焼する。現在の建物は4年後(1958年)に再建されたものです。
高欄付き板張りの縁が廻り、半蔀格子(はじとみごうし)がはめてある。これは上半分の戸を外側に吊り上げて白障子をみせ、下ははめ込み式になったもの。
正面中央は、白桟障子が開けられ、ガラス越しに室内の障壁画を見れるようにしている。しかしガラスの反射光のためよく見えない。
小御所と御学問所との間の広場は「蹴鞠(けまり)の庭」と呼ばれる。ここで公家さん達の優雅なお遊びが繰り広げられた。後ろには天皇が通る御拝道廊下があり、天皇は廊下から覗いてにっこり微笑んだかナ・・・
御学問所(おがくもんじょ)は「家康による慶長度(慶長18年、1613)の造営時に初めて設けられた建物で、御講書始などの行事が行われたほか、学問ばかりでなく遊興の場としても用いられた。江戸末期頃になると御学問所は年中行事の場や仮常御殿としても用いられた他に孝明天皇が徳川将軍である徳川家茂公や徳川慶喜公と対面を行った場になった」(Wikipediaより)
舞良子という細い桟を格子状に打ちつけた「舞良戸(まいらど)」と呼ばれる引き戸が開けられている。内部は畳敷きで、上段・中段・下段を含む6室からなる。
小御所、御学問所は明治維新の舞台ともなった。慶応3年(1867)12月9日、大久保利通、岩倉具視ら倒幕急進派は、軍事力で御所の各門を封鎖し親幕派公家の参内を禁止する。そして御学問所にて、まだ16歳だった明治天皇に勅令「王政復古の大号令」を発せさせた。新政権の樹立と天皇親政をうたい、幕府の廃止、朝廷の摂政・関白の廃止、新たに三職(総裁・議定・参与)を置く、という政治体制の根本的変革を実行したのです。まさにクーデターだった。
その夜、小御所で新政府の基本方針を策定するため最初の三職会議が開かれた。そこで徳川家の辞官納地(官位を失し、領地を返上さす)について大激論になった。山内容堂(前土佐藩主)は「この会議に、今までの功績がある慶喜公を出席させず、意見を述べる機会を与えないのは陰険である。数人の公家が幼い帝を擁して権力を盗もうとしているだけだ」と反対し、松平春嶽(前越前藩主)も同調した。深夜に及ぶ激論の末、最後は西郷隆盛の「ただ、ひと匕首(あいくち=短刀)あるのみ」の脅しで大久保利通、岩倉具視の主張する辞官納地が決定した。これが「小御所会議」です。
小御所、御学問所の東側に前庭として「御池庭(おいけにわ)」が造園されている。江戸時代初期に作られ、池を中心とした池泉回遊式庭園。ただし仙洞御所のように回遊させてくれません。右奥に見えるのが中島(蓬莱島)にかかる欅橋(けやきばし)
澄みきったエメラルドグリーンの池、対岸に多彩な樹木を見せ、その前に中島を配し橋を渡す。池の中には3つの中島があり、2つの木橋と3つの石橋が架かる。派手過ぎず、地味すぎず、落ち着いた安心感に浸れる池です。
手前の岸には、栗石が敷き詰められ州浜を表現している。州浜真ん中あたりに飛び石が置かれ、池の中まで出ている。ここから舟遊びに出たのでしょうか。
京都御所 4(御常御殿から出口へ)
御学問所前を通り、御池庭の北へ行くと、潜り門があります。ここまでが公の空間で、この先は天皇の私的な生活の場になる。「ここから先は明治維新期まで奥向きの御殿とされ男子は稚児と老侍以外は男子禁制とされお付きの女官や女御など女性や女子のみしか立ち入りを許されなかった」(Wikipediaより)
元々、清涼殿が天皇の日常生活の場だったが、秀吉の天正度造営時(1590年)に、天皇の生活の場として「御常御殿(おつねごてん)」が独立した建物として造営された。明治天皇も明治2年(1869)に東京へ遷るまでこの御殿に住んでおられました。
京都御所の中で最も大きな建物で、檜皮葺き、入母屋造り、書院造り。内部は総畳敷きで、天皇の寝室「御寝の間」、三種の神器のうちの剣璽を奉安した「剣璽(けんじ)の間」、儀式や対面用の「上段の間、中段の間、下段の間」など15部屋がある。
縁側の板戸が開けられており、杉戸絵を見ることができます。
御常御殿の東側にある庭は「御内庭(ごないてい)」と呼ばれる。「流れの庭」とも呼ばれるように遣り水が曲がり流れ、中島をはさみ土橋、石橋、八つ橋が架かる。御内庭の南東隅の築山の上には小さな茶室「錦台(きんたい)」<空中写真の(1)>が建ち、庭を眺めながらお茶を嗜むようになっている。
また北東隅には「地震殿(じしんでん、泉殿)」<空中写真の(2)>と呼ばれる建物がある。これは、床を低くし天井を張らず屋根も軽くし、地震などの時の避難場所として造られたもの。
御常御殿の北側までが許可された見学コースです。あとは空中写真をみて想像するしかない。
写真中央は、孝明天皇の希望を受けて書見の間として安政5現(1858)に造られた「迎春(こうしゅん)」<空中写真の(3)>と呼ばれる建物。御常御殿の縁座敷から渡り廊下で結ばれ、十畳と五畳半の二間だけの簡素な建物。その右の檜皮葺き屋根だけが見える建物は「御涼所(おすずみしょ)」<空中写真の(4)>と呼ばれ、暑い京都の夏をしのぐために、窓を多くし風通しを良くした建物。
<空中写真の(5)>は壁のない「吹抜廊下(ふきぬきろうか)」で、途中でゆるやかに折れ曲がり下を池からの遣り水が流れ、この流れの周辺には、飛び石が配置され、美しい植栽と苔で埋められている。廊下の先は「聴雪(ちょうせつ)」<空中写真の(6)>で、安政4年(1857)に孝明天皇の好みで増築された数寄屋建築の茶室。
上の写真の右端が「龍泉門」<空中写真の(7)>で、これを潜ると「龍泉(りゅうせん)の庭」<空中写真の(8)>となる。池の中央に中島があり、三方向から石橋が架けられている。聴雪の奥が「蝸牛(かたつむり、かぎゅう)の庭」<空中写真の(9)>。明治期の作庭で、水を全く使わない枯山水庭園。白砂を敷いて池を表し、中央に苔の島を築かれている。
御常御殿南側の出口を出ると、「御三間(おみま)」と呼ばれる建物がある。ここでも杉戸絵を見ることができます。
宝永6年(1709)に御常御殿の一部が独立したもの。三間からなり、涅槃会、七夕、盂蘭盆会など内向きの年中行事に使われた。明治天皇が祐宮(さちのみや)の幼少時に、「御手習い始め」「御読書始め」をされた場所ともいわれる。
御三間を最後に見学コースは終了です。出口には白テントが設置され、暑いなかご苦労さま、と休憩所が用意されていました。今日は特に暑かったのでありがたかった。
江戸時代、天皇はじめ公家たちは幕府から政治に手を出すなと、と抑えられていた。そして彼らは貧しいながら優雅な宮廷生活を送っていたのです。ところが、1853年ペリーの黒船来航から状況が一変する。開国・通商を求められた幕府はうろたえ狼狽し、何事も決められない。そうだ、日本には天皇という偉いお方がいらっしゃる、相談してみようと京都の御所まで特使を出したのです。天皇と取り巻きの公家達は、俺たちにも力があるんだと目覚めた。こうして朝廷の政治的権威が急浮上し、それにあやかろうとする諸藩の藩士や志士気取りの浪人まで京都に集まってくる。こうして京都は政治の舞台となり、朝廷のある京都御所は幕末政治史の焦点に躍り出た。現在は抜け殻となった空虚な京都御所ですが・・・。
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