山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

六波羅から建仁寺へ 1(六波羅蜜寺・六道珍皇寺)

2023年06月05日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2023年5月27日(土曜日)
5月のゴールデンウィークはどこへも出かけず、巣ごもりしていた。といっても私は年中ゴールデンウィークなのだが・・・。そろそろどこかに行ってみたくなりました。そうだ半年ぶりに京都へ行こう。どこへ?。
中世の歴史に触れると、”六波羅”という語句によくでくわす。調べると、鴨川と清水寺に挟まれた辺り。すぐ傍には禅寺で名高く、俵屋宗達の風神雷神図で知られる建仁寺があります。境内は素通りでよく歩いたが、お堂の中へは入ったことがない。そうだ出かけよう、六波羅から建仁寺へ。

 六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)  



京阪電車清水五条駅を下車、五条通りの一つ北側の筋「柿町通り」を東へ400mほど歩けば左側に六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)が見えてくる。東面する正面は鉄柵で塞がれ、二つの門があります。

★六波羅蜜寺の歴史
応和3年(963)醍醐天皇第二皇子光勝空也上人の創建による。
平安時代中期「当時京都に流行した悪疫退散のため、上人自ら十一面観音像を刻み、御仏を車に安置して市中を曵き回り、青竹を八葉の蓮片の如く割り茶を立て、中へ小梅干と結昆布を入れ仏前に献じた茶を病者に授け、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えてついに病魔を鎮められたという。現存する空也上人の祈願文によると、応和3年8月(963)諸方の名僧600名を請じ、金字大般若経を浄写、転読し、夜には五大文字を灯じ大萬灯会を行って諸堂の落慶供養を盛大に営んだ。これが当寺の起こりである。」(受付パンフより)
なおWikipediaは、空也上人が造立した十一面観音を本尊とする道場を造立した(当初「西光寺」と称した)天暦5年(951)を創建年としている。

空也没後の貞元2年(977)、比叡山延暦寺の僧・中信が、これまで西光寺と称していたのを「六波羅蜜寺」と改称し、天台宗に属する天台別院として中興した。寺名となった「六波羅蜜」とは仏教の教義に由来し、「この世に生かされたまま、仏様の境涯に到ための六つの修行(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)をおこないなす。波羅蜜とは彼岸(悟りの世界)に到ること」(公式サイトより)。この辺り、古くから「六原」と呼ばれていたこととも関係あるかも・・・。

平安後半、六波羅蜜寺は、北は四条通、南は七条通、西は鴨川、東は東大路通に囲まれた広大な寺域を誇っていた。ところが平安時代末期、伊勢国を本拠にした伊勢平氏が、東国や伊勢から京都への入口にあたるこの近辺に住みつく。まず平正盛が、現在の六道珍皇寺あたりに邸宅を構え、一族のために供養堂を建立した(天仁3年(1110))。その子の平忠盛が六波羅蜜寺の敷地内に「六波羅館」を設置、ここを拠点として当寺の境内に軍勢を駐屯させた。次の平清盛の代にかけ、六波羅蜜寺の敷地やその近辺には平家一門の人々の屋敷、邸館が立ち並び、最盛期には5200軒余にものぼったという。清盛は「六波羅殿」と呼ばれ権勢を誇った。六波羅蜜寺は平家の屋敷群に取り込まれてしまったのです。しかし1181年に清盛が亡くなると平氏の勢力は急激に衰え、源氏との争いに敗けます。寿永2年(1183)、平氏の都落ちの際に六波羅館は平氏自らの手で火が放たれ、六波羅蜜寺の諸堂は本堂だけを残して焼失してしまった。
その後、鎌倉幕府によって六波羅探題が置かれる。六波羅蜜寺は源頼朝や足利義詮により再興修復が行われたが、度々火災にもあっている。豊臣秀吉、徳川家の加護をうけ寺を維持してきた。
明治維新の廃仏毀釈を受けて大幅に寺域が縮小し、今では本堂、弁財天堂(弁天堂)、宝物収蔵庫のみとなっています。


北側の門は、本堂の正面に位置するので正門でしょうか。お寺といえば木造の山門をイメージするが、それとはほど遠い「鉄柵門」です。この門は通常、閉められておりここから入れない。





南側の門は開いており、ここから境内に入るようです。【開門】8:00 【閉門】17:00 、、定休日無し、とあります。
境内や、本堂内は無料で自由に参拝できます。ただし、空也上人立像がある令和館(宝物館)は有料で、門を入った左側の建物で拝観券を売っている。
令和館 拝観時間【開館】8:30 【閉館】16:45 (受付終了 16:30)
令和館 拝観料《大人》600円《大学生・高校生・中学生》500円《小学生》400円



入口を入って正面の建物が「福寿弁財天堂」。
七福神の中で唯一の女神とされる弁財天が祀られ、都七福神の一つとなっている。金運・財運・芸能・縁結びのご利益があるそうです。

本堂、右奥に銭洗い弁財天堂が見える。
黒っぽい銅像は、本尊の十一面観音菩薩像(国宝、秘仏)を模して作られたもの。銅像の右隣が「一願石」の石柱。石柱上部の円盤を、三回手前に回してお願いすると一つだけ願いが叶うという。

平清盛塚(左)と阿古屋塚(右)。どちらも鎌倉時代に造られた供養塔。「阿古屋(あこや)」は平家とかかわりの深い遊女。歌舞伎、浄瑠璃の演目「壇浦兜軍記:阿古屋の琴責め」が人気となる。屋根、囲い、説明石板など新しいが、「奉納 五代目・坂東玉三郎 平成二十三年」となっている。阿古屋を演じたのでしょう。清盛より阿古屋のほうが羽振りがよさそう。

右方の鉄柵近くに石碑「此附近 平氏六波羅第・六波羅探題府」がある。
平家没落後、六波羅の地は源頼朝に与えられて京都守護が置かれた。承久の乱(1221)後に京都守護を廃し、朝廷の監視のほかに、裁判、京都周辺の治安維持などのため、鎌倉幕府の出先機関として六波羅蜜寺の南北に六波羅探題を設置し、北条氏の一族の中から有望な人材が任命された。周辺には関係する武士の住居が建ち並んだという。
元弘3年(1333)、元弘の乱が起こると後醍醐天皇の命に応じ反幕の挙兵をした足利尊氏らによって六波羅探題府は攻め滅ぼされた。室町幕府は洛中に根拠を置いたために、六波羅は武士の居住は減少し、再び寺院などが建てられて信仰と遊興の地として賑わっていった。東福寺の六波羅門は、六波羅探題府にあったものが移築されたと伝えられています。

本堂(重要文化財)は、無料で自由に入れます。内部は、板敷の外陣と一段低い四半敷き土間の内陣からなっている。内陣中央の厨子には本尊の国宝・十一面観音立像が安置されているのだが、秘仏のため拝観できない。12年に一度辰年にのみ開帳される(次回公開は2024年11月)。
本堂はたびたび焼失し、南北朝時代の貞治2年(1363)に再建された。前に突き出た向拝は、文禄年間(1593 - 1596)に豊臣秀吉によって附設されたもの。重要文化財の本堂だが、見た目、新しく感じられるのは昭和44年(1969)に開創1000年を記念して解体修理が行われたためです。色鮮やかな朱色の柱や扉、虹梁や蟇股などに絢爛豪華な彫刻(絵画?)が見られ、創建当初の極彩色の色合いが復元された。
山号 補陀洛山
院号 普門院
正式名 補陀洛山普門院六波羅蜜寺
別称 六はらさん
宗派 真言宗智山派
本尊 十一面観音(秘仏、国宝)
開山 空也上人
西国三十三所第17番札所
ご詠歌:重くとも五つの罪はよもあらじ 六波羅堂へ参る身なれば
公式サイト<https://rokuhara.or.jp/
所在地 京都府京都市東山区松原通大和大路東入二丁目轆轤町81番地の1

本堂北側に見えるのは、銭洗い弁財天、水掛不動尊が祀られているお堂。右側、松の下に寝そべるのは「なで牛」。「ご自身の痛いところ、辛いところ、撫でて下さい」とあり、各所でよく見かける撫で物です。

蓮の上に座り、琵琶を弾いている銭洗い弁財天。周囲には池をイメージさすように水が貯められている。置かれているザルにお金を入れ、「柄杓一杯の水を三回に分けて掛け、清めたお金は使わず貯めて下さい」。洗ったお金を六波羅蜜寺の金運御守に入れておくとご利益にあやかれるようです。
銭洗い弁財天の向かいには、お金を包むためのテーブルがあり、お金を乾かすためのドライヤーまで用意されている。

銭洗い弁財天のお堂前から左へ、即ち本堂の背後へ周ると令和館(宝物館)です。昨年、二階建ての新しい建物に作り変えられたようです。
ここには重要文化財となっている多くの貴重な彫像・仏像が展示されています。六波羅蜜寺は令和館(宝物館)に尽き、令和館に入らなかったら六波羅蜜寺を訪れた意味はない。

(写真は受付パンフより)令和館(宝物館)の二階に上がってまず目にするのが、並んで展示されている木造・空也上人立像と平清盛坐像。共に重要文化財です。

六波羅蜜寺を創建した空也上人(903-972)は「第60代醍醐天皇の皇子で、若くして五畿七道を巡り苦修練行、尾張国分寺で出家し、空也と称す。再び諸国を遍歴し、名山を訪ね、錬行を重ねると共に一切経をひもとき、教義の奥義を極める。天暦2年(948)叡山座主延勝より大乗戒を授かり光勝の称号を受けた。森羅万象に生命を感じ、ただ南無阿弥陀仏を称え、今日ある事を喜び、歓喜躍踊しつつ念仏を唱えた。上人は常に市民の中にあって伝道に励んだので、人々は親しみを込めて「市の聖(いちのひじり)」と呼び慣わした。」(受付パンフより)
この空也上人立像は、上人没後250年経ったころの鎌倉時代前期に仏師運慶の四男康勝が彫ったものです。病が蔓延していた京の街中を、鉦を打ち鳴らし、念仏を唱えながら、わらじ履きで歩く姿が生々しく表現されています。首から鉦を下げ、右手に鉦を叩くための撞木を、左手に鹿の角のついた杖をもっている。上人が鞍馬山で修行中、可愛がっていた鹿が猟師に射殺されたことを悲しまれ、その皮と角をもらい受け、皮を衣に、角を杖頭につけ生涯身から離さなかったという。口からは、針金でつながった六体の小像が吐き出されている。「空也上人が念仏をとなえると、口から六体の阿弥陀仏が現れた」という伝説を表現したもので、この六体は「南無阿弥陀仏」を表しているそうです。

木造・平清盛坐像も鎌倉時代の作。座して経巻を手にするその姿は、武者のイメージはなく出家した僧のようです。

(写真は受付パンフより)奥の部屋には、日本を代表する仏像彫刻師、運慶・湛慶父子の坐像が並んでいる。鎌倉時代の作で、共に重要文化財。この親子像に一番感銘した。令和館で見る実物は、写真では伝わってこない迫力を感じました。奥深く見つめる眼差し、黒ずんだ全身から執念のようなものが伝わってくる。
令和館にはその他、平安時代・鎌倉時代に造られた薬師如来坐像、地蔵菩薩立像、持国天立像、閻魔大王像など多くの重要文化財が展示されています。

 六道の辻と西福寺(さいふくじ) 



六波羅蜜寺前の道を北へ100mほど行けば三叉路になる。左の白壁が西福寺で、その角に「六道の辻」の碑がたっている。正面突き当りが、現在でも商売されている伝説の飴屋さん。

人口10万人以上いた平安時代の京都では、戦乱も多く遺体の処理が大きな問題だった。お墓を造れるのは高位の人だけで、一般庶民は野山に放置されたのです。風雨に晒さし朽ちるに任せ白骨化さす。「風葬」と呼ばれ古くから行われていた。京には三つの大きな風葬地(葬送地)があった。西の「化野」(あだしの、嵯峨野)、北の「蓮台野」(れんだいの、金閣寺東方の船岡山周辺)、そして東の「鳥辺野(とりべの)」で、清水寺一帯です。(三大葬送地の近くが、現在京都を代表する観光名所(嵐山、金閣寺、清水寺)となっているのは何か因果応報があるのかな?)

西福寺前の松原通り(かっては五条通りだったが、秀吉によって改変されてしまう)は清水寺へ通じています。鴨川を渡り、この松原通りを通って六道珍皇寺あたりで野辺の送りをし、鳥辺野へ死人を運んだ。「冥土への通路」で、この辺りが「鳥辺野」への入口にあたる。即ち、この世とあの世(冥界)との境目なのです。仏教では死後、人は生前の因果応報により六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を生死を繰返しながら流転する(輪廻転生)とされる。そこから、「この世とあの世」の分岐点となるこの辺りを「六道の辻」と呼んだ。

六波羅蜜寺を含め、現在この辺りの町名は「轆轤町」となっている。かっては「髑髏(どくろ)町」だったが、あまりに縁起が悪いと江戸時代寛永年間に京都所司代によって「轆轤(ろくろ)」に改名された。鳥辺野に近いことから、この辺りは人骨がいたるところに転がっていたため「髑髏原(どくろはら)」と呼ばれていたそうです。それが「六原」にも転訛し、「六波羅」にも関係あるかも。

この西福寺(さいふくじ)は、平安時代の貞観年間(859 - 876)に、弘法大師空海が土仏の地蔵尊を自作し、鳥辺野の入口にあたるこの地に地蔵堂を建て祀ったのが始まりとされる。関ヶ原の戦後、毛利家家臣によって地蔵堂の周りに新たに堂宇が建てられ寺院化された。享保12年(1727)に桂光山西福寺に改められた。

山門を入ってすぐ左に地蔵堂があり、空海が自作したという地蔵尊が祀られている。第52代嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(檀林皇后)が、病気がちの正良親王(後の仁明天皇)の病気平癒の祈願をしたことから、「子育地蔵」として信仰されるようになった。子安地蔵、子授地蔵ともいわれています。

本堂は山門を入って右側。浄土宗に属し、本尊の阿弥陀如来坐像が祀られている。西福寺で有名なのは寺宝の「壇林皇后九想図」。美貌で名高かった壇林皇后は「風葬となし、その骸の変相を絵にせよ」という遺言を残された。出来上がったのが「壇林皇后九想図」。人が死に腐敗し、骨が露出し、蠅や蛆が湧き、鳥獣が腐肉をむさぼり、完全に白骨化し最後に土に還る様子がリアルに描かれているそうです。
本堂も「壇林皇后九想図」も通常は非公開だが、盂蘭盆会(八月七~十日)だけ公開され、絵解きされるとか(こんなの見たくないです・・・)。

西福寺の向かいに名物の幽霊子育飴を販売するお店「みなとや」があり、お土産として今でも販売されています。この幽霊子育飴には次のような伝説があります。
一人の女が毎夜飴を買いに来て、鳥辺野の墓場で姿が消える。ある日、赤ん坊の声が聞こえるので掘り起こすと,若い女の死骸の上で水飴をなめながら泣いている赤ん坊がいた。死んでしまって乳の出ない母親は幽霊になって飴を買い、わが子に乳の代わりに与えていたのです。この子は8歳で仏門に入り、立派な僧侶となったとか。(気味が悪いので飴を買う気になれません)

 六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)  



西福寺から松原通りを東へ200mほど行けば左手に六道珍皇寺が見える。

六道珍皇寺の創建は「当寺の開基は、奈良の大安寺の住持で弘法大師の師にあたる慶俊僧都(きょうしゅんそうず)で、平安前期の延暦年間(782年?805年)の開創である。」(公式サイト)。しかし諸説あり、ハッキリしたことは判らないという。鎌倉時代までは真言宗・東寺の末寺として多くの寺領と伽藍を有していたが、中世の兵乱にまきこまれ荒廃する。南北朝期の貞治3年(1364)に建仁寺の住持であった聞溪良聰(もんけいりょうそう)が入寺して再興し臨済宗に改められた。建仁寺の末寺だったが明治43年(1910)に独立する(建仁寺の境外塔頭)。

ここにも「六道の辻」の碑が建っています。「辻」とあるので道の交差路のように考えがちだが、この世とあの世の境目ぐらいの意味だろう。だからこの辺りも鳥辺野への道筋で、冥界への入口にあたる。だから「六道まいり」のお盆の行事や、小野篁が井戸を使って冥土へ通ったというような伝説も生まれる。

山門から境内を見る。境内は見えている範囲がほぼ全て。正面が本堂。参道右側の白壁のお堂は収蔵庫(薬師堂)で、本尊の薬師如来坐像(平安時代、重要文化財)が安置されています。参道左側には「日新電機創業の地」の碑が建っている。

境内は、開門中なら自由に歩けるが、お堂の中には入れなません。

収蔵庫(薬師堂)の先にあるのが閻魔堂(篁堂、たかむらどう)。名前のとおり閻魔大王像、小野篁像が置かれています。
格子戸が閉められ入れません。よく見ると「この格子窓よりおまいり下さい」とある。ほとんどの格子は板で塞がれているのだが、中央辺りに二、三か所透明なシートになっており、内部を覗けます。カメラを近づけ撮ってみました。

等身大の小野篁立像(江戸時代)。小野篁(802-852、おののたかむら)は参議小野岑守の子。遣隋使で知られる小野妹子の子孫であり、孫に小野小町、書家の小野道風がいる。平安初期、嵯峨天皇につかえたの官僚で、武芸にも秀で、また学者・詩人・歌人としても知られる。承和5 (838) 年遣唐副使となったが、大使の藤原常嗣の理不尽な要求に憤り渡唐を拒否、詩で風刺したため嵯峨上皇の勘気にに触れ隠岐に配流された。許され帰京後(840)、陸奥守、東宮学士、蔵人頭などを経て参議(847)、従三位まで昇進。文武両道に優れた人物であったが、その奔放な性格は「野狂(やきょう)」ともいわれ奇行が多く、多くの逸話を生んだ。当寺に伝わる伝説「冥土通いの井戸」もその一つ。

衣冠束帯姿で鬼を従え、右手に笏(しゃく)を持っっている。人智を越えた神通力をもつともいわ、ふわりと持ち上がった両袖は、その神通力を表しているそうです。

格子戸の左端にも同じように「おまいり下さい」とあり、透明シートの格子がある。こちらは閻魔大王坐像(平安時代、伝・小野篁作)です。

閻魔堂の先に白壁、紅柱の鐘楼がある。鐘楼は四方を白壁で囲まれ、鐘は外から見えません。正面中央、花頭窓下の小さな穴から出ている綱を手前に引いて撞くようになっている。

この鐘は、お盆の「迎え鐘」として有名です。毎年8月15日には、先祖を供養するお墓詣りを行います。ここ六道珍皇寺ではその少し前の8月7日から10日まで、「迎え鐘」をうって精霊(御霊)を迎える「六道まいり(「お精霊(しょらい)さん」とも呼ばれる)の行事が行われ、京の盆の始まりを知らせる夏の風物詩となっている。「迎え鐘」は、遠く十万億土の冥界へも響き渡るといわれ、亡き人の霊がこの響きに応じてこの世に戻ってくるのだと信じられた。参拝者は、迎え鐘を鳴らしあの世からの精霊を迎え、そして線香でお清めした水塔婆をあげて供養する。長い行列ができ大混雑するそうです。逆に五山の送り火(8月16日)は、お迎えしたお精霊さんをあの世へ送る行事です。灯篭流しも同じ。

境内正面が本堂。薬師三尊像(京仏師中西祥雲作)が安置されています。閻魔堂と同じように、障子戸の中央が透明シートになっており、内部の薬師三尊像を拝観できるようになっている。
本堂前には、無色界、色界、欲界という三界すべての精霊に対して供養する「三界萬霊十方至聖供養塔」の碑が建つ。

小野篁が冥土に通ったという伝説の井戸が本堂裏手の庭園の中にあります。近寄れないのだが、本堂右端の格子窓から覗けるようになっているので、履物を脱いで小階段の上へ。
伝説によれば、篁は亡き母の霊に会うためこの井戸から冥土へ初めて足を踏み入れた。母は餓鬼道に堕ちて苦しんでいたので、閻魔大王に直談判して母親を救いだした。これをきっかけに閻魔王宮の役人となる。以来、現世と冥界を行き来して、昼は朝廷に出仕、夜はこの井戸から地獄に向かい、閻魔庁で閻魔大王の補佐として一晩中裁判の助手をつとめ、無実の罪で地獄へ落ちた人を救ったと伝わります。

これが「篁冥土通いの井戸」です。窓から30m位離れている。
朝になると化野の福生寺の井戸、もしくは蓮台野の千本閻魔堂の井戸から地上に戻ってきたとされてきました。ところが平成23年(2011)、六道珍皇寺に隣接する民有地(旧境内)から一つの井戸が発見された。深さ100mもあり、これが冥土よりの帰路に使った「黄泉(よみ)がえりの井戸」だ、とされるのですが・・・?。

 安井金毘羅宮(やすいこんぴらぐう)  



東大路通に面し安井金毘羅宮の石鳥居が建ち、看板「悪縁を切り良縁を結ぶ祈願所」が吊るされています。
安井金毘羅宮(やすいこんぴらぐう)の歴史について公式サイトに「第38代天智天皇(てんちてんのう)の御代(668~671年)に藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が一堂を創建し、紫色の藤を植え藤寺と号して、家門の隆昌と子孫の長久を祈ったことに始まります。
第75代崇徳天皇(すとくてんのう) (在位1123~1141年)は特にこの藤を好まれ、久安2年(1146年)に堂塔を修造して、寵妃である阿波内侍(あわのないし)を住まわされました。崇徳上皇が保元の乱(1156年)に敗れて讃岐(現、香川県)で崩御された時に、阿波内侍は上皇より賜った自筆の御尊影を寺中の観音堂にお祀りされました。治承元年(1177年)、大円法師(だいえんほうし)が御堂にお籠りされた時に、崇徳上皇がお姿を現わされ往時の盛況をお示しになられました。このことは直ちに後白河法皇(ごしらかわほうおう)に奏上され、法皇のご命令により建立された光明院観勝寺が当宮の起こりといわれています。光明院観勝寺は応仁の乱(1467~1477年)の兵火により荒廃しましたが、元禄8年(1695年)に太秦安井(京都市右京区)にあった蓮華光院が当地に移建され、その鎮守として崇徳天皇に加えて、讃岐の金刀比羅宮より勧請した大物主神と、源頼政公を祀ったことから「安井の金比羅さん」の名で知られるようになりました。明治維新の後、蓮華光院を廃して「安井神社」と改称し、更に「安井金比羅宮」と改め現在に至っています。」とあります。

鳥居から200mほどの参道が続き、「絵馬の道」となっているが絵馬は一つも見かけない。ただし立札が立ち、幾つか絵馬が貼り付けられている。「米朝さんのきも入りでこんなタレントさんの絵馬が集まりました」とあり、桂枝雀、桂朝丸、笑福亭松鶴(「禁酒」とある)、横山やすし、、若井ぼん・はやと、夢路いとし・喜味こいし、キダタロー、イーデスハンソン、越路吹雪、小松左京・・・関西の懐かしい名前が並びます。かなり以前から桂米朝一門がこの神社で勉強会を定期的に開催している縁からのようです。

境内に入るといきなり「縁切り縁結び碑」が置かれている。
「この縁切り縁結び碑は、中央の亀裂をつたって神様のお力が下の穴に注がれています。穴をくぐる抜けてそのお力をお受けいただく事によって、悪縁が切れ良縁が結ばれます。まず、お願いを「形代(かたしろ)」(身代わりのおふだ)にお書きになり、次に願い事を心に思いながら碑の中央の円形の穴から表からくぐり抜け悪縁を切り、続いて裏からくぐり抜けて良縁を結び、最後に形代を碑にお貼り下さい。形代一枚につき百円以上お志を下のお賽銭箱へお納め下さい」と説明されています。
高さ1.5メートル、幅3メートルの絵馬の形をした巨石だが、形代のお札が貼りめぐらされて原型がわからない。

多くの人が順番待ちをしている。一度に一人だけで、窮屈な穴を出入りするので時間かかります。


本殿には祭神の崇徳天皇、大物主神、源頼政が祀られている。











本殿右側にある久志塚(櫛塚(くしづか))。傍らの「由来記」を要約すると、使い古したり傷んだ櫛に感謝を捧げ供養するための塚。昭和36年(1961)、風俗研究家の故吉川観方先生の賛意を得て「櫛まつり」が始められ、翌年に塚が造られた。現在も9月第4月曜日、古墳時代から現代の舞妓さんまでの各時代の装束姿で、かつらを使わず地毛で結い上げた髪型をした女人風俗行列が当宮を出発し祇園界隈を練り歩き、多くの見物人で賑わうという。左は吉川観方の像。

北門を出て真っすぐ100mほど行くと崇徳天皇御廟がある。
「崇徳上皇(第75代)は、平安時代の末、保元の乱(西暦1156年)により讃岐の国へ御配流の悲運に遭われた。上皇は血書をもって京都への御還幸を願われたが、意の如くならず憤怒の御姿のまま長寛2年(1164年)夏、46歳にて崩御。五色台白峰山の御陵に奉葬された。上皇の寵愛篤かった阿波内侍は、御遺髪を請い受けてこの場所に一塚を築き、亡き上皇の霊をお慰めしたと伝承されている。
その頃の京都では、上皇の怨念による祟りの異変が相次いで発生したため、御影堂や粟田宮を建てて慰霊に努めたが、永い年月の間に廃絶して、此の所のみが哀史を偲ぶよすがとなっている。なお孝明・明治両天皇の聖慮により、白峯神宮が創建され、元官幣大社として尊崇され今日に至っている。」(傍の解説板より)。
崇徳天皇(1119-1164)の本陵は、香川県坂出市青海町の「白峯陵(しらみねのみささぎ)」だが、阿波内侍が遺髪を譲り受け、この場所に塚を築き霊を慰めたという。管理は、宮内庁でなく白峯神宮(京都市上京区飛鳥井町)が行っています。毎月21日には崇徳天皇の月命日として、白峯神宮から神職が来て、祇園の女将さんらも一緒に月次祭が行われているそうです。

祇園歌舞練場(そして馬券売り場が)のすぐ裏にあたり、表は賑やかで騒がしいが、この裏通りはひっそりして静かです。





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