山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

馬見古墳群 南から北へ 2

2020年11月21日 | 古墳を訪ねて

★2020年10月27日(火曜日)
馬見丘陵公園の南の入口から入り、北に向って散策する。古墳も楽しめるが、お花一杯なので歩きつかれた疲労も癒されます。

 馬見古墳群と馬見丘陵公園  


★★ 馬見古墳群(うまみこふんぐん) ★★
奈良盆地西部に,馬の背の形をしているということから「馬見(うまみ)丘陵」と呼ばれる標高70~80mの低い丘陵地がある。南北約8キロ・東西約3キロと南北に長く,香芝市・大和高田市・広陵町・河合町など2市3町にまたがっている。この丘陵の東辺部を中心にして,墳長約200mを超える大型前方後円墳4基を含め古代の大小さまざまな約230基の古墳が集中しており「馬見古墳群」と呼ばれています。この中には第23代顯宗天皇,第25代武烈天皇の陵墓参考地も含まれている。大和盆地でも代表的な古墳群で,4世紀から6世紀にかけて造営されたと推定されている。

馬見古墳群は大まかに南群,中央群,北群の3つの地域に分けられる。南群は馬見丘陵公園より南に位置し,狐井城山古墳,築山古墳,新木山古墳などを含む。即ち,今まで歩いてきた所で,東に行ったり西へ行ったりかなり広範囲にわたる。中央群・は,現在公園となっている範囲で,これから周る予定。北群は馬見丘陵公園をはずれ北側に位置する。大塚山古墳,島の山古墳という大きな前方後円墳に代表されます。
馬見古墳群は,古代豪族の葛城氏の本拠地に近いことから関連が考えられるが,確証はない。

「馬見」の名前の由来について、奈良県公式サイトに「その昔、当丘陵地は馬の放牧地として利用されていた。その名残として現在、上牧や下牧の地名が残っている。丘陵内には南北に高田川・佐味田川・滝川・葛下川の4河川が流れているが、それぞれの河川の囲まれたエリアの地形が馬の背の形をしている。聖徳太子が法隆寺を建立する際、明日香から馬に乗り、四方の景色を見ながら通った」の三つの説があると記されている。

★★ 馬見丘陵公園 ★★

馬見古墳群が広がる馬見丘陵周辺は,戦後の高度成長期を経て昭和40年代後半より大規模宅地開発が進み,真美ヶ丘ニュータウンや西大和ニュータウンなどが造られていった。奈良県はこうした開発から自然と古墳を守るため昭和59年(1984)に公園化を決定。奈良公園に次ぐ県内二番目の広域公園です。

南北に長く,とにかくでっかい。古墳があるから起伏に富み,池あり森あり芝生あり,なんといってもすごいのが花壇だ。四季折々の多様な花が植えられている。子供が遊べる大型遊具施設もあり,これほど変化に富み見どころの多い公園を他に知らない。池のほとりのベンチで余生をのんびり過ごすおじいさん,花に夢中になっているおばさん,バードウォッチングで鳥の出現を待つおじさんたち,のんびり散策する人,ウォーキングに汗かく人,古墳の上で古代に思いをはせる(?)人,芝生で弁当広げる人・・・。平日なのだが多くの人が楽しんでいる。広いのでソーシャルディスタンスはしっかりとれます。

(写真は乙女山古墳と花壇)奈良県の公式サイトに月ごとの花情報を知らせてくれる。2020年 馬見花だより

馬見丘陵公園で特筆すべきなのは、お金を使う必要がない、というよりレストランを除いて使うところがないのです。入園無料、駐車場無料、遊具場無料、公園館入館無料・・・、自動販売機も公園館横を除いて見あたりません。お金が使えない、その分足を使います。
広い公園内は、樹木・芝生・植込みなどよく手入れされて整然としている。ゴミも落ちてない。ゴミ箱自体が置いてない。園内に沢山ある広い花壇もビックリするほどよく手入れされている。
公園の広さから考えて維持管理費用はかなりのものと思われます。この費用はだれが負担しているのでしょうか?。県営なので奈良県としか考えられない。奈良県の懐の大きさに感心させられます。

余談になるが、大阪を代表する天王寺公園はどうか。数年前まで、150円の入園料を取っていたので、都心にありながら誰も利用しない。園内にいる人より、園外の道を歩いている人のほうが多い、という惨状だった。手をやいた大阪市は、数年前に近鉄に管理を丸投げする。近鉄は、アベノハルカスの前庭、全面芝の無料「てんしば公園」に作り変えた。無料だけに入園者は増えた。しかし近鉄はボランティア企業でないので、損をするわけにはいかない。園内に金儲けの施設を造り始めた。かって桜見物で賑わった場所にはドッグショップ、レストラン、食品販売所が、花壇があった場所は有料フットサルコート3面に、熱帯植物ホールは取り潰されバーベキュー店などに。西側の空き地も、現在整地され工事用の塀で囲まれている。何ができるのだろう?。かっての公園の三分の一が消え、有料施設になってしまった。
大阪市など無くしてしまえ、というのも頷ける。

竹取公園と車道を挟んで反対側に馬見丘陵公園の南の入口がある。ここから公園に入り、公園内を南から北へ散策しながら古墳と花壇を楽しんでいきます。

 三吉2号墳・ダダオシ古墳  




馬見丘陵公園に入り、右側を見ると芝生広場が広がっている。土盛りで傾斜をつけられ、寝転べば心地良さそうだ。案内によれば、芝生広場でなく復元された「三吉2号墳(みつよし2ごうふん)」でした。芝生面は、申し訳程度の低い柵で囲われ、入ってはいけないようです。

前方部を北に向けた四段築成の帆立貝式古墳。個人の住宅が建ったり果樹園、道路などで墳丘は一部破壊を受けていたが、公園整備事業の事前調査で、全長約90m、後円部径78m、高さ4.7m、前方部幅41.2mの規模と判明した。また、墳丘の周囲には幅7mの周濠があり、さらに外側には幅8mの堤が確認され,円筒埴輪などが採取されている。
現在,盛土などで失われた部分を補修し,公園敷地として取り込まれ復元整備された。階段がつけられ墳丘上まで登れるようになっている。墳丘の上は何もない広場となく、背後の古墳南側は復元されておらず雑木が茂っています。

墳頂から北側と東側は展望が開け眺めがよい。すぐ東側の巨大な巣山古墳もよく見えます。三吉2号墳は巣山古墳の陪塚だったのでしょうか?。
出土した円筒埴輪から巣山古墳に次ぐ時期、5世紀前半に築かれたようです。埋葬施設は不明だが、少数ながら円筒埴輪片、朝顔型埴輪片、家型埴輪片が出土している。墳丘に埴輪の配列がなされていたと考えられる。

公園入口を入って左に見える小山がダダオシ古墳。墳丘長約50m,後円部の径33m、高さ7m、前方部の最大幅は30~34m、高さ4mで,前方部を南に向ける前方後円墳です。説明版に「前方部南東に小石室が見つかった」とある。築造時期は6世紀初頭と推定されています。 東側で幅7mの濠と幅8mの外堤が確認され、周濠と外提を持っていたと考えられている。

 巣山古墳(すやまこふん)  



(墳丘の北側、右が後円部、左が前方部)大きすぎて全体がカメラに収まらない。国の特別史跡(昭和27年<1952>指定)になっており、立ち入ることはできません。

(馬見丘陵公園館に展示されていた立体模型)全長204m、後円部径108m、高さ25m、前方部幅94m、高さ21mの巨大前方後円墳。馬見古墳群の中で最大で,馬見古墳群を代表する古墳。
三段築成の墳丘で、斜面には礫石や割石で葺かれ、円筒埴輪も並べられていた。築造時期は、古墳時代の前期から中期へと移る過渡期、4世紀末~5世紀初頭と推測されている。

(前方部方向へ西側墳丘を撮る)墳丘の周囲は幅40m位の楯形の周濠が巡っており、さらに外堤で囲まれている。空中写真を見れば広い濠に水を貯えているのだが、公園から見える西側は水は少なく、雑草が茂った地面が現れていた。傍まで近寄れないので正確なことは分からない。また空中写真を見れば、堤から墳丘へ連絡する渡り土手が見られます。前方部と後円部が連結するそのくびれ部には祭祀を行う為の方形の造出しが見られる。

(ナガレ山古墳東側に設置された馬見古墳群の立体模型より)後円部に割石を積み上げた二基の竪穴式石室があった。前方部の先端にも方形の壇状の施設があって小型の竪穴式石室があったとみられている。いずれも明治時代の盗掘によって破壊を受けているが、長さ9.5cmの大勾玉(まがたま)や管玉(くだだま)と車輪石、石釧(いしくしろ)、鍬形石(くわがたいし)などの腕輪類、刀子(とうす)や斧などの祭祀用の石製品など多くの遺物が出土しており、現在宮内庁書陵部に収蔵されています。

(写真は前方部の西側の出島状遺構らしき跡)平成15年(2003)、前方部の西側で、墳丘から周濠へ張り出す出島状遺構が発見された。大きさは南北約16メートル、東西約12メートル,高さ1.5メートル程の規模で、二段に築かれ、葺石を施してた。そこからは水鳥形埴輪や家型、柵型、蓋(きぬがさ)形といった形象埴輪が数多く発掘され注目された。祭祀の場として造り出しがあるのだが、それとは別に何らかの祭祀が行われたと思われる。

また周濠の北東角から準構造船の部材が出土している。葬送の際に棺を載せて運んだ「喪船(もふね)」と考えられている。

被葬者はだれか?。縄張りに近いことから古代の有力豪族であった葛城氏が考えられるが、規模の大きさから大和王権の大王墓だという考えもあるそうです。

巣山古墳の前方部側に周ると花畑が広がり、白、赤、ピンクの花が一面に咲いています。コスモスです。パンフレットには「春まちの丘」と案内されている。

 佐味田狐塚古墳(さみたきつねづか)  



巣山古墳前方部の外堤北西隅に近接して佐味田狐塚古墳(さみたきつねづか)があります。現在、芝生を張った土盛り状に復元整備されている。
墳丘全長78m、後円部径55m、同高7m、前方部幅31m、同高5mの規模で、南側に前方部を向けた帆立貝式の前方後円墳。周囲に浅い空濠がめぐる。5世紀前半の築造と推定されている。

墳丘に登ると横断橋が架かっている。公園内を東西に横切る町道建設によって北側の後円部と南の前方部に真っ二つに分断されてしまったのです。
横断橋から見ると、片側2車線の車道に色がつけられた部分が橋の両側にある。これは墳丘の存在した範囲を示し、道路建設によって削り取られてしまった部分です。県、町はこうして償いの気持ちを表したのでしょうか。

横断橋を渡り、北側から後円部を撮ったもの。墳丘に植込みが配置されている。これは葺石をイメージしたものでしょうか。
道路工事に伴う発掘調査で、後円部から木棺を粘土で保護した粘土槨が確認され、鏡や鉄刀の破片などが出土している。

 カリヨンの丘  



佐味田狐塚古墳から東方にあるカリヨンの丘へ向う。なだらかな丘陵状になっている広場は「カリヨンの丘」と名付けられています。「カリヨン」って?。後で調べるとフランス語のようで「組み鐘。音の高さを異にする一組の鐘を配列したもの。手または機械で相互に打ち鳴らして奏する。16~17世紀のヨーロッパで教会や市庁舎に設置された」とあった。
丘の上の施設に時計と鐘が設置されており、1時間ごとにカリヨンの演奏が聴くことができ、季節ごと時間ごとに曲が変わるそうです。鐘が鳴るなんて知らなかったので、聴き漏らしました。

この時期、カリヨンの丘はほぼ全面に色鮮やかに紅葉したコキアが群生している。これは花でなく、別名「ホウキグサ」「ハナホウキギ」と呼ばれる草です。緑色から、秋になると紅葉しとても鮮やかで美しい赤に変化します。群生する光景は圧巻です。掃きホウキに使えそうな形を見せている。昔はこの茎を乾燥させてホウキを作っていたとか。ふんわりとした姿と柔らかな感触は花としてみても違和感が無い。コキアの丘にカリヨンの鐘の音が響くのを聴いてみたかった。

幻想的な雰囲気が漂うカリヨンの丘 に、古墳の墓(石棺)という全く場違いなものが置かれている。他に置きな所はなかったのでしょうか?。
丘の西側にある小屋に収められているのが北今市1号墳石棺です。ここから5キロほど西の香芝市北今市3丁目で見つかったもので、古墳はすでに消滅してしまっているが石棺だけが馬見丘陵公園内に移設されました。
建物の中にはベンチも置かれています。墓を眺めながら休息し、カリヨンの鐘の音に耳を傾ける・・・いいかも

公園の南エリアと中エリアをつなぐ歩道橋の下に置かれているのが北今市2号墳石棺。とりあえずここに置いとけ、といった感じだ。

 ナガレ山古墳  



次は公園の西側へ向い、馬見丘陵公園で一番注目を集めているナガレ山古墳へ行く。古墳といえば、普通は樹木が青々と茂る森や小山を想像してしまうが、築造当初の古墳はそんなものではありませんでした。ナガレ山古墳は、築造当初の姿に復元され、古墳とはこんなのだ、ということを私達に見せつけてくれます。

全長105m,後円部径64m・高さ8.5m、前方部幅70m・高さ6.2mの前方後円墳。前方部は二段、後円部は三段築造。墳丘全体に葺石が敷かれ、埴輪列がめぐっている。築造時期は、その形状や埋葬施設の構造,埴輪列から5世紀前半の築造と考えられています。

前方部から後円部方向を撮る。「ナガレ山」の名は、所在地の「河合町佐味田字別所下・ナガレ」という小字名による。地元では「お太子山」と呼んでいたようだが。

東側のくびれ部から前方部へ少し寄ったところで,墳丘裾の埴輪列に直交する2列の埴輪列が確認された。これは葬送の際に墳丘上へ登る通路ではないかと考えられている。

前方部の上から後円部方向を撮る。
埋葬施設について説明板に「後円部墳頂の埋葬施設は明らかでありませんが、盗掘の際に捨てられた土から勾玉など多くの遺物が出土しました。また、前方部墳頂にも埋葬施設があり、箱形木棺を粘土で覆った粘土槨です。木棺を覆った粘土の中に多数の鉄製品が埋納されていました。」とありました。

写真に見える前方部の楕円形図は、内側が「粘土槨」、外側が「墓壙」と表示されていた。

昭和50年(1975)から翌年にかけ土砂取りにより墳丘の一部が破壊さるという事態に。そこで昭和51年(1976)に国の史跡に指定され保存されることになった。昭和63年(1988)から発掘調査を行い、整備工事が行われ平成8年度(1996)に完成し、翌年5月から一般公開されました。
復元整備は築造当時の姿を再現することを目的に、墳丘全体に盛土を施し、墳丘を葺石で覆い、円筒埴輪が並べられた。

(後円部墳頂から撮る) 墳丘裾と中段を中心に600本以上の埴輪列が復元されています。円筒埴輪のうち、3割は公募により10歳から84歳まで125名の河合町民が手作りで粘土帯を積み上げて復元したもので、作った人の名前が刻まれているそうです。上部に丸いお皿のようなものが付いているのが朝顔型埴輪。また復元された葺石には、調査で確認されたニ上山山麓の安山岩や花崗岩が使われている。

後円部上から二上山や金剛山,葛城山などの山並みが見渡たせる。ここで休息を兼ねて古代の情緒に浸ってみるのもよいものです。

葺石や円筒埴輪列で復元されているのは墳丘の東縦半分だけ。反対側の西半分は芝生で覆われています。
出土遺物として、円筒埴輪・形象埴輪・石製模造品(刀子・斧・紡錘車形)・石製玉類・鉄製品(刀・剣・鏃・刀形・剣形・鋤先形・鎌形)・土師器・須恵器・水銀朱などがある。これらの出土品は河合町中央公民館に展示されているそうです(見学には事前の申し込みが必要)。

ナガレ山古墳東側の散策路を挟んだ反対側に、馬見丘陵公園内にある主な古墳の地形模型が展示されています。大変参考になる。

 倉塚古墳(くらつかこふん)・一本松古墳  





馬見丘陵公園の中央には上池と下池という二つの大きな池があり、その二つの池の間の散策路を通って池の東側に行けば倉塚古墳・一本松古墳だ。

ナガレ山古墳東側の置かれている古墳の地形模型より。倉塚古墳の前方部に接するように一本松古墳の後円部がある。(右側が北方向になる)

別名スベリ山古墳。元々経90m位の円墳と見られていたが、測量により前方部を東に向けた大きな前方後円墳だということがわかった。ただ古墳そのものは詳しい調査が行われていない。出土した円筒埴輪の特長から5世紀前半頃の築造と推測されている。

倉塚古墳も公園整備により樹木が伐採され、全面に芝生が植えらている。緩やかな木製階段が設けられ、墳頂まで登れます。古墳の上だという感じは無く、この芝生の丘で寝転びのんびり休息するのにちょうどよい。
前方に一本松古墳のふくらみも見えている。

散策路を挟んで倉塚古墳の北側に見えるのが一本松古墳。「倉塚北古墳」と呼ばれていたが、地元で「一本松山」と呼ばれていたことから「一本松古墳」となった。
前方部を北東に向けた全長130m、高さ12mほどの前方後円墳。発掘調査で周濠の一部と堤が確認されたが、
奈良時代の土器が多量に出土していることから周濠は奈良時代に埋められたと思われる。築造された時期は、埴輪棺墓に使用された埴輪から倉塚古墳より古い4世紀末頃と見られています。
一本松古墳の後円部南東に接する形で、一辺12mの方墳「一本松2号墳」も見つかっている。

後円部上から前方部を眺める。墳丘は樹木が部分的に伐採され、 墳形が分かりやすいように整備されています。
埋葬施設については、東側外堤から埴輪棺墓と土坑墓が検出されているが、副葬品は無く詳細は不明。


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