山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

馬見古墳群 南から北へ 1

2020年11月13日 | 古墳を訪ねて

★2020年10月27日(火曜日)
またお墓参りだ。今度は奈良盆地西南部、法隆寺南方5キロほどに位置する馬見古墳群(うまみこふんぐん)です。南北に長い馬見丘陵を中心に、4世紀後半から6世紀にかけて築造された古墳が散在している。大和盆地でも有数の古墳群です。中央に位置している馬見丘陵は「県営馬見丘陵公園」として整備され、広い広い公園内は自然と花と、そして古代のお墓を楽しめる(?)素敵な場所となっている。

どこから攻め込むか思案した結果、近鉄大阪線・五位堂駅近くの狐井城山古墳から出発し、東西にジグザグしながら北上し馬見丘陵公園に入る。公園を楽しんだ後、さらに北上し大塚山古墳、島の山古墳まで行きます。かなり広範囲なので、途中で断念することも考えていました。馬見丘陵公園は、私が今までに訪れたなかではトップクラスの公園だった。たくさんのお花が咲きほこっているが、開花時期を調べて訪れることをお勧めします。
総歩数<58588歩>、<43.9km>、<2232cal>

 狐井城山古墳(きついしろやまこふん)  


近鉄大阪線・五位堂駅に着いたのは朝6時過ぎ。まだ薄暗く、出勤時間前なので人も見かけない。最初の目的地・狐井城山古墳(きついしろやまこふん)はこの駅から西へ、歩いて30分位の所にある。住宅路を西へ西へと歩く。
狐井城山古墳が見えてきました。古墳に接近できる場所を探す。古墳東側に住宅の間から堤に通じる道を見つけた。堤は枯れ草が刈り取られ、なんとか這い登れました。

堤の上は、道は無いのだが草が刈り取られているので歩けます。古墳の東側から後円部を撮った写真。全長約140m、後円部径約90m、後円部高さ10m、前方部幅約110mの前方後円墳。前方部は北東に向く。幅18mといわれる周濠は満々と水をたたえています。5世紀後半~6世紀前半の築造と推定されている。
遠くに見える山並みは、葛城山、金剛山。

堤の上は、後円部辺りで行き止まりだが、前方部の方向へは正面まで歩ける。前方部の前は、少し広い空き地になっている。この空き地から北側の住宅路に道が通じていた。

古墳の西側は車道で、濠を挟んで墳丘が丸見えだ。ただし2m以上のフェンスで囲まれている。戦国時代に城があったことから「城山古墳」と呼ばれたが、全国に同名の古墳が多いことから、地名を付けて「狐井城山古墳」と呼ばれる。

被葬者はだれだろうか?。古代葛城氏の縄張りに近いこともあって、葛城氏の関係者と考えられている。しかし周濠をもったかなり大きな前方後円墳なので、第23代顕宗天皇や第25代武烈天皇との説もある。

狐井城山古墳のすぐ南に、恵心僧都源信(942―1017)が生まれたという伝承がある阿日寺があるので寄ってみる。道端に石碑「恵心僧都誕生之地」が建ち、その路地を入った先が阿日寺です。

この寺には、平安時代の「木造大日如来坐像」や鎌倉時代の「阿弥陀聖衆来迎図」が伝わり、ともに重要文化財に指定されている。「阿弥陀」と「大日如来」からそれぞれ一字をとり「阿日」寺となったそうです。


 築山古墳とその周辺古墳  



狐井城山古墳の次は築山古墳です。直線距離で2キロ以上あり道も分かりにくく、電車を利用するのもありだが、歩くことにした。40分ほどかけ、ようやく住宅の間から築山古墳が見えてきた。古墳後円部の中央です。堤に上がると濠に沿って歩道が設けられている。

北側の、後円部と前方部の境目辺りで周濠は途切れ、墳丘と地続きになった箇所がある。そこには塀が設けられ番小屋があり、宮内庁の警告文が張り出されている。築山古墳は、宮内庁が第23代顕宗天皇を被葬候補者として「磐園陵墓参考地(いわぞのりょうぼさんこうち)」に指定し管理している。
宮内庁治定の本陵は、ここから4キロほど北西に離れた香芝市にある。後日に訪れてみます。

今度は後円部から墳丘の南側へ周ってみる。こちらは古墳南側の側面。広い濠が墳丘を取り囲み、その濠に沿って細道が続く。民家の裏側なので気がひけるのだが、古墳を間近に見ながら一周できます。

前方部です。広く澄み切った濠が印象的だ。
全長は210m、後円部径は120m、前方部幅105m、三段築成の前方後円墳。築造時期は、採集された埴輪片から4世紀後半と考えられている。埋葬施設は明らかでない。


築山古墳の周辺には多くの古墳、陪塚(ばいづか)があり、築山古墳群を形成している。その中で主要な以下の3古墳を訪ねた。


築山古墳南の栂池公園に接して茶臼山古墳(ちゃうすやまこふん)がある。直径50mの円墳です。樹木は伐採され、丸裸の土盛りで、子供の遊び場に相応しいように見えます。しかし周囲はフェンスで囲まれ入れないようになっている。

反対の西側に周ると、「磐園陵墓参考地陪塚」という宮内庁の立て札が立っていた。築山古墳の陪塚(ばいづか)だということです。宮内庁は、参考地の陪塚であっても取り上げ、国民から隔離してしまうのだ。住宅地のど真ん中に鎮座する皇室の聖域となっている。

築山古墳の南にある狐井塚古墳(きついづかこふん)を訪ねます。フェンスで囲まれ、宮内庁の警告文が張られている。全長75mの前方後円墳だが、空中写真で見ない限り、単なる森にしか見えない。

古墳の南西部(後円部?)に周ると、住宅間の細路の奥に入口のようなものが見られる。柵で閉められ、立入り禁止の宮内庁の警告文が見える。ここは宮内庁が「陵西(おかにし)陵墓参考地」として占拠している。北にある築山古墳が顕宗天皇陵かもしれない、ということからここを顕宗天皇皇后・難波小野王(なにわのおののみこ)の陵墓と推測したようです。

築山古墳の東側にはコンピラ山古墳がある。直径95mで、全国的にも最大規模の円墳だそうです。見つかった埴輪の特徴から、5世紀前半の築造と推定されている。「コンピラ」は墳丘上にあった金毘羅神社からきている。

近づこうとしたが住宅や田畑に囲まれているので近づけず、遠くから眺めるしかなかった。単なる小山にしか見えません。

 新山古墳(しんやまこふん)  



築山古墳の北1キロにある新山古墳(しんやまこふん)へ向う。近鉄大阪線の踏切を渡り、高田川に沿った国道132号線の歩道を歩く。

全長約126m、後方部幅67m,高さ約10メートル、前方部幅約66m、前方部を南にむけた前方後方墳です。墳丘は2段築成で葺石・埴輪(円筒・家・蓋・盾など)が見つかっている。出土した埴輪から4世紀後半の築造と推測され、馬見古墳群中で最も古い古墳とされています。

南側の前方部に入口が見える(空中写真のAの地点)。ここも柵で閉められ、「大塚陵墓参考地」という宮内庁の石柱が建つ。第25代武烈天皇が被葬候補者とされています。武烈天皇は5世紀後半の天皇なので、古墳の築造時期と合わないのだが?。
宮内庁治定の本陵は、ここから5キロほど北西に離れた香芝市にある。後日に訪れてみます。

周濠のように見えるが、濠ではなく池です。空中写真を見ればよくわかる。

明治18年(1885)、地主が植樹しようと後方部中央で穴を掘ったところ竪穴式石室が見つかった。ここから銅鏡34面(三角縁神獣鏡・直弧文鏡・画文帯神獣鏡など)や玉類、鍬形石、車輪石、石釧、金銅製帯金具、台座形石製品などの貴重な副葬品が多数発見された。これら出土品は国の重要文化財・考古資料に指定され、一部が東京・奈良国立博物館に収蔵・展示されている。新山古墳は昭和62年(1987)に国の史跡に指定されました。

 別所城山第1・2号墳(べっしょしろやまだい1・2ごうふん)  



新山古墳から城山児童公園を目指して西へ20分ほど歩くと城山児童公園の森が見えてきました。住所は「香芝市真美が丘4-5」。この公園内に、平成6年(1994)に香芝市指定史跡となった別所城山1号墳、2号墳があります。

写真は公園の南側。児童公園となっているが、名前のような雰囲気は感じられない。二基の古墳を保存するために造られた公園のようにみえます。

公園の北側へまわると小さな広場となっている。正面には丘の上に登る広い階段が設けられており、児童でも簡単に丘(古墳)に登って遊べる(学べる)ようになっている。

登った上は別所城山1号墳の墳頂になる。写真は、1号墳の墳頂から別所城山2号墳の方向を眺めたもの。丘上は適度に樹木や草が除かれ、子供が遊べる雰囲気がでています。古墳の上だという感じはしない。

 三吉石塚古墳(みつよしいしづかこふん)  



城山児童公園から北へ歩くこと30分、新木山古墳と三吉石塚古墳が見えてきた。まず大きな新木山古墳の手前にある復元古墳の三吉石塚古墳(みつよしいしづかこふん)から見ていきます。

東からの写真。三吉石塚古墳(みつよしいしづかこふん)は、所在地の北葛城郡広陵町三吉字石塚からきている。新木山古墳の外堤西側に主軸を同じくして接しているので新木山古墳の陪塚と思われるが、築造時期がズレているので疑問も残る。平成4年(1992)に県指定史跡となる。

後円部に短い小さな前方部がつく形の帆立貝式前方後円墳。全長は45mで、前方部が新木山古墳の位置している東側を向いている。見事に築造当時の姿に復元されています。東側と南側に後円部の上まで登れる階段が設けられている。築造当初にこんな階段などあるずがない。階段をなくし、葺石の上を這い登らせる、っていうのはどうだろうか?。

後円部の墳丘は二段築成で、一段目には円筒埴輪列に朝顔形埴輪を置いた埴輪列がめぐり、後円部の墳頂には蓋(きぬがさ)、短甲、家などの形象埴輪が置かれていた。築造時期は5世紀後半と指定され、埋葬施設や被葬者は未調査のため不明。

周囲には馬蹄形の周濠がめぐり,さらに外堤が確認されている。墳丘と周濠内側には葺石が敷かれていた。
説明板に「墳丘と周濠部分の内側に10~30cmの葺石を施し、特に後円部の葺石が縦一列に並ぶ所があり、この葺石の列石間が1つの作業単位で、作業方法を示す基準と考えられています。葺石の材料は、前方部に使用されている黒雲母花崗岩が当麻町西方から、後円部の輝石安山岩が香芝市の二上山麓から運ばれてきたものです。」とあります。

古墳は広陵町の町営墓地に囲まれている。現代の一般庶民の墓と古代の貴人の墓が対照的です。今の世でこんな土盛りの墓に眠れるのは天皇のみです。

 新木山古墳(にきやまこふん)  



三吉石塚古墳の墳頂から眺めた新木山古墳(にきやまこふん)の後円部。古墳名は、所在地の北葛城郡広陵町赤部字新木山からきている。新木山古墳もかっては手前の古墳のように葺石で覆われ埴輪列がめぐっていたことでしょう。天皇陵を含め古代の古墳は、青々とした森を想像してしまうが、実際の姿は全く別物ということですね。

後円部北側まで濠が廻っているが、後円部から前方部までの南側は濠が埋められ耕作地として使われています。墳丘は鉄柵で囲まれ、宮内庁が陵墓参考地として立入禁止としている。何故、周濠は見逃されているのでしょうか?。

後円部から前方部方向へ墳丘の南側を眺めたもの。全長200m,後円部径117m、後円部高さ19m、前方部幅118m、前方部高さ17mで、前方部を東に向けた前方後円墳。 両くびれ部に造り出しが存在する。
埋葬施設は不明。勾玉、管玉、棗玉が見つかり宮内庁で管理されている。築造時期は、外堤から出土した円筒埴輪により5世紀前半と考えられている。

南側一帯の濠も田畑として利用されています。

南側中央辺りで墳丘に近づくと、宮内庁の立て札が見えます。「三吉陵墓参考地」と書かれている。調べると、第30代敏達天皇の子で、第34代舒明天皇の父にあたる押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)を想定しているようです。

周濠は墳丘北側と前方部にのみ残り、水を貯えている。前方部の北側は池となっており、周濠と一体となっている。かっての溜池でしょうか。それ以外は埋め立てられ田畑として利用されている。陵墓参考地としては珍しい。

 牧野古墳(ばくや古墳)・佐味田宝塚古墳(さみたたからづかこふん)  



新木山古墳から、新しい一戸建て住宅が建ち並ぶ中を西へ西へと歩きます。20分ほどで牧野史跡公園の森に到着。

牧野史跡公園は、公園というほどの施設はなく、名前のとおり古墳史跡を保存するための公園のようです。公園図に牧野古墳の位置がはっきり示されていないのが残念だ。別名「うまさん公園」とあり、なんかピンとこない。どこが”うまさん”なのでしょうか?。近くには「ねずみさん公園」もあります。

公園正面入口から入って右へ曲がるとすぐ左に階段が見える。階段を登ると石室の入口が見えている。
直径55m、高さ13m、三段築成の円墳。二段目に南を向い開口している横穴式石室です。築造時期は石室や石棺、出土遺物から6世紀末と見られている。
昭和32年(1957))に国の史跡に指定され,史跡公園として整備された。

奈良県下でも最大級の大きさを誇る両袖式の横穴式石室。全長17m、玄室部は長さ7m・幅3.3m・高さ4.5m、羨道部は長さ10.4m・幅1.8m・高さ2mで、大きな花崗岩を積んで構築されている。
玄室内には奥壁に沿って長さ2.1mの横向きに刳抜式の家形石棺が安置され、その手前の方に置かれていた石棺は形が崩れていたが破片や痕跡から長さ2.6mほどの組合せ式の家形石棺であったと推定されている。
盗掘にあっていたが、副葬品は玄室内を中心に多数残されていた。金環や玉類の装飾具、一万個以上に及ぶガラス小玉、銀装大刀、矛、鉄鏃等の武器、金銅装の馬具二組、土器類など。
被葬者は誰か?。敏達天皇の皇子押坂彦人大兄皇子の成相墓(ならいのはか)の可能性が高いといわれる。押坂彦人大兄皇子は宮内庁によって新木山古墳が陵墓参考地となっているのだが、両古墳を比較すると、大きさ、形状、築造時期とも全く異なっているのだが・・・?

なお、見学希望日の2週間前までに広陵町教育委員会文化財保存課(0745-55-1001)へ申し込むと石室内部を見学できるそうです。

牧野古墳から北東に300m程の所に佐味田宝塚古墳(さみたたからづかこふん)がある。傍に近づけず、これといった案内も無いので確信がもてないが、それらしき森を佐味田宝塚古墳らしいとして写真を撮りました。

全長112m、後円部直径60m・高さ8m、前方部の幅45m・高さ8mで、前方部を北東に向けた二段築成の前方後円墳。周濠は確認されていないという。築造時期は4世紀後半と推定されている。
明治14年(1881)に地元民により後円部の墳頂が発掘され粘土槨が見つかり、木棺を覆っていた粘土内から約36面の銅鏡を含む約140点の副葬品が出土したことで全国的に注目された。特に日本で唯一の出土例である家屋文鏡(かおくもんきょう)と呼ばれる直径22.9cmの大型鏡が注目されている。鏡背に4棟の建物の図像(竪穴式住居,高床倉庫,高殿,平地式建物)があしらわれており、古墳時代の建築を具体的に示す資料として注目されています。「卑弥呼の鏡」ともいわれる三角縁神獣鏡も11面以上出土しています。昭和62年(1987)に国の史跡に指定された。また副葬品の大部分も平成13年に重要文化財に指定され、一部が東京・奈良国立博物館に収蔵・展示されている。

 竹取公園と讃岐神社(さぬきじんじゃ)  



牧野古墳前の広い車道を東へ1キロ、竹取公園に着く。竹取公園は、広陵町が「竹取物語」の伝説を元に「町おこし」として建設した公園です。

「竹取物語」は平安時代初期の,仮名文による日本最古の物語といわれる。「かぐや姫」のお話で、日本人なら誰でも児童の頃から知っている物語です。そのため、わが町こそ物語の舞台だ、と主張する地域があちこちに現れ、町おこしに利用している。京田辺市,京都府向日市,香川県長尾町(現さぬき市),岡山県真備町,広島県竹原市,鹿児島県宮之城町など。ここ広陵町もその一つ。各自治体それぞれの言い分があるようですが、広陵町の言い分は上をお読み下さい。

公園に入ると大きな切り竹のオブジェが置かれている。竹取公園のシンボルマークのようだが、よく見るとトイレマークがついていた。

家族連れで楽しめる普通の公園だが、すぐ横にお花いっぱいの馬見丘陵公園があるので、こちらの公園はちと物寂しそうです。園内には竹取物語を紹介するパネルが並んでいます。

竹取公園から南へ200mほどの森の中に讃岐神社が鎮座している。拝殿と本殿があるだけの小さな神社です。
現在の祭神は大物忌命・倉稲魂命・猿田彦命・大国魂命を祭る。

「今は昔、竹取の翁というものありけり。名をば讃岐造(さぬきのみやつこ)となむいひける」で始まる『竹取物語』。竹取翁の出身部族である讃岐氏は、持統-文武朝廷に竹細工を献上するため、讃岐国(香川県)の氏族齋部(いんべ)氏が大和国広瀬郡散吉(さぬき)郷(現広陵町三吉)に移り住んだものとしている。そして讃岐神社が建てられた。「讃岐」「散吉(さぬき)」「三吉(みつよし)」は同じものだという。またこの辺りには「藪ノ下」、「藪口」、「竹ケ原」という地名が残り、竹取物語の舞台となったと説かれている。


詳しくはホームページ

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