山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

紀三井寺から和歌の浦へ 2

2020年06月27日 | 寺院・旧跡を訪ねて

 和歌の浦へ  



「和歌の浦」とは、和歌山市南西部に位置する和歌浦湾をとり巻く景勝地の総称。古くから風光明媚な地として「万葉集」に詠われてきた。古き時代は「若の浦」、「弱浜(わかのはま)」、あるいは「明光浦(あかのうら)」と呼ばれていました。平安初期に衣通姫が和歌の神様として玉津島神社に祀られてからは、皇族や貴族、歌人たちが度々訪れ和歌奉納が行われてきた。この頃から「和歌の浦」と呼ばれるようになったようです。

奈良・平安の頃には、「玉津島山」と総称される船頭山、妙見山、霊蓋山、奠供山、鏡山、妹背山の六つの小島がこの周辺にあった。潮の満ち引きで陸続きとなったり、離れて浮島となったり、その多彩な変化を現した。その神聖さから稚日女尊、息長足姫尊(神功皇后)らを勧請し、玉津島神社が設けられ、和歌の浦の中心になった。
この和歌浦は都に近いことから多くの文人、貴族らに愛されてきたが、とりわけ聖武天皇はこの和歌浦を気に入り、何度も行幸している。玉のように美しく島々が連なる眺望に感動して詔を発し、玉津島の神と明光浦霊を祀り、この風景を末永く守るように命じた。この時天皇に随行した歌人山部赤人が詠んだ歌
  「若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み 葦辺をさして 鶴(たづ)鳴き渡る」
は有名です。その後、称徳天皇(765年)、桓武天皇(804年)も玉津島に行幸している。
平安初期、和歌の神として衣通姫が玉津嶋神社に祀られると、和歌の聖地として天皇や貴族、歌人たちに崇拝され参詣や和歌奉納が行われてきた。この頃から「和歌の浦」と呼ばれるようになる。

平安中頃から西国巡礼や高野山、熊野への参詣が盛んになると、その行き帰りに和歌の浦を訪れる人々も増えてきた。菅原道真に因む和歌浦天満宮が創建されたのもこのころである。
天正13年(1585)、紀州攻めを行った豊臣秀吉は和歌の浦を遊覧したのち、その北方に城を築き「和歌山城」と名付けた。これが現在の県名の由来となる。

江戸時代になると、御三家である紀州初代藩主・徳川頼宣(家康の10男)によって和歌の浦の景観の保全整備が行われた。父家康の御霊を祀る紀州東照宮を雑賀山に建立し、また母・養珠院の菩提を弔うため妹背山に三断橋をかけ多宝塔を建てた。その後の歴代の紀州藩主も和歌の浦の景観保護に尽くし、観海閣や不老橋などが造られた。

明治になると別荘地・行楽地の性格が増し、1909年に路面電車が和歌浦まで開通し、観光客増加に一役買った。夏目漱石が訪れたのもこの頃だ。しかし大正中頃から開発、観光客誘致の中心は西方の新和歌浦に移っていった。
現在の和歌の浦は、近代化とかっての景勝地との調和に悩んでいるようです。しかし時代の流れには逆らえず、景勝地としての性格は失われ、単に古跡、旧社の残る観光スポットとなってしまっているようだ。

紀三井寺から西に行くと広い大通りに出る。大通りを渡り、車道に沿って西へ歩くと旭橋という大きな橋です。橋を渡りきった所で左下の湾岸道に下ります(写真の白いビルの手前)。湾岸道は奠供山の近くまで真っ直ぐ続いている。歩くごとに和歌の浦の風景が迫ってきます。

 芭蕉句碑・芦辺屋跡  



和歌の浦に近づいてきました。右端の山が奠供山(てんぐやま)で、玉津島神社の赤鳥居が見えます。正面が鏡山、三断橋を渡って左端に少し見えるのが妹背山。妹背手前の家屋が旧「あしべ屋別荘」です。

鏡山と三断橋との間。交通量が多く、景観に見とれていると大変危険な場所だ。横断歩道も信号もありません。和歌にその絶景が詠われた奈良・平安の頃は、奠供山や鏡山は海に浮かぶ小島で波が打ち寄せ、時には潮の干満によって陸続きになったりと多彩な風景が人々を魅了してきた。現在は、その面影は全くありません。

車道を挟んで三断橋の反対側に芭蕉句碑が建つ。天保4年(1833)の建立。芭蕉句碑は紀三井寺にもあったが、芭蕉は元禄元年(1688)、吉野・高野山そしてここ和歌の浦を訪れている。句碑には「行春を わかの浦にて 追付たり」と書かれている。

芭蕉句碑があるこの辺りの平地には、かって「芦辺屋(あしべや)」という旅館があった。紀州藩初代藩主徳川頼宣が造らせた御茶屋が始まりで、明治時代には和歌浦でもっとも格式高い旅館として多くの著名人が利用している。大正11年には、皇太子時代の昭和天皇も宿泊された。しかしその後(大正14年?)に経営不振のため廃業し、建物は取り壊された。三断橋を渡った妹背山の脇には別館が今なお残されています。


絵図は「明治26年(1893)」、写真は「昭和10年代」とある。










 三断橋と観海閣  



この三断橋(さんだんきょう)は、徳川頼宣が妹背山に母の供養のために海禅院多宝塔を建てた時に造られた石橋で、三つのアーチ状の小橋をつないだ美しい橋です。ここから「三断橋」の名前がきます。
ところが、これが現在の三断橋です。橋の両側には打ち波から防御するためでしょうか、石嚢のようなもので守られています。昨年、関西を襲った大型台風のせいでしょう。和歌山は、関西にとって台風の表玄関なのです。

写真のとおりの橋の惨状だ。ロープが張られ、「通行止め」となっている。立ち入り禁止のようだが、せっかくなのでロープをまたぎました。

傍の説明板に「妹背山は、周間250m程の小島で、西側に砂岩製高覧付きの三断橋が架けられている。この橋は和歌山県内最古の石橋で、紀州藩初代藩主徳川頼宣が妹背山を整備した慶安4年(1651)頃までに建設された。中国の景勝地である杭州西湖の六橋の面影があるといわれ、独特の??・構造を持つ欄干、敷石、橋桁、橋脚は何度か補修されているが、橋の原形は崩れることなく今日まで継承されている。正面右側の「経王堂」と呼ばれる小堂の中には、梵字で書かれた題目碑がある。南側の磯辺の道をたどると東端の水辺に観海閣が建っており、西の方向へ石段を登ると多宝塔の前に出る。」とあります。

三断橋を渡り妹背山の小島へ入り、反対側に周ると海上に突き出た観海閣(かんかいかく)があります。入母屋造り、瓦葺の立派な屋根をのせているが、下は四方に柱を配しただけのただの展望所です。観海閣前の小磯は、亀の姿に似ていることから亀石と呼ばれている。潮の満ち引きで多様に変化するのでしょうね。

この観海閣は慶安年間(1648~1652)に、初代藩主徳川頼宣が木造の水上楼閣として建立したもの。何度か台風で損壊している。現在の建物は、昭和36年の第二室戸台風で流出した後にコンクリートで再建されたものです。

内部からは四方を眺めることができる。特に南側では片男波の砂州を一望でき、現在でも往時の絶景を偲ぶことができます。ここでござを広げ宴でも催されたことでしょう。現在なら、バーベキューに最適の場所ですが。

東側を展望すれば、対岸に名草山を望め、紀三井寺の伽藍が見えます。歴代の紀州徳川家の藩主は、ここから紀三井寺を遥拝したそうです。また民衆にも開放され、多くの人々が多宝塔に詣で、紀三井寺をここから拝観したという。

観海閣の北側には芦辺屋別荘が残されている。本館は無くなっているが、ここの別館は個人に譲渡され現在でも使われているとか。建物の南側は、足場が組まれ数人の作業員の方が修繕中でした。これも台風によるものでしょうか。






 妹背山と多宝塔  



観海閣の脇に階段があり、上に塔が見える。これが海禅院多宝塔(かいぜんいんたほうとう)です。
紀州藩初代藩主・徳川頼宣の生母・養珠院(お万の方)が、慶安2年(1649)に夫・家康の33回忌に多数の小石に法華経題目を書写した経石を石室(東西210cm、南北164cm)に埋納した。その上に小堂が建てられた。経石は、養珠院に賛同した上皇から庶民まで、全国から総数20万個が集められたという。
その後、養珠院が亡くなると頼宣は承応2年(1653)、母の菩提を弔うため小堂を二層の多宝塔に改築し拝殿と唐門を建立した。これが「海禅院」です。同時に、頼宣は渡るための三断橋をかけ、観海閣を造るなどして妹背山を整備した。江戸時代は紀州徳川家の庇護を受けたが、明治維新以後は庇護するものも無く荒廃し、多宝塔を残すのみとなった。多宝塔は高さ13mの総ケヤキ造り、本瓦葺き。

階段横の民家風の建物は?。洗濯物が吊るされ、犬がさかんに吠えてくれる。住宅としたら、こんな景勝地の高台に住めるなんて羨ましい。でも台風が怖いな・・・。

多宝塔の横に上へ登る道がある。すぐ妹背山(いもせやま)の頂上です。ここからは和歌浦の海がよく望まれ、片男波の出っ張りがきれいに見えます。まるで天橋立のようだ。

背後を見れば、真下の三断橋から鏡山、奠供山を見通せます。奈良・平安の頃には、「玉津島山」と総称される船頭山、妙見山、霊蓋山、奠供山、鏡山、妹背山の六つの小島がこの周辺にあった。潮の満ち引きで陸続きとなったり、離れて浮島となったり、その多彩な変化は多くの人を魅了し和歌などに詠まれてきた。現在は埋め立てられ、小島として残っているのはここ妹背山だけです。
平成20年(2008)、三断橋と共に妹背山が、和歌山県指定文化財名勝・史跡和歌の浦として指定された。

 不老橋と片男波公園  


妹背山の小島を離れ、西に進むとあじべ橋があり、その西側にアーチ型の石橋「不老橋(ふろうばし)」が架かる。片男波の砂洲に渡る橋で、和歌の浦のシンボルにもなっている。
片男波松原にあった紀州東照宮御旅所の移築に際して、第10代紀州藩主徳川治宝の命によって架けられた。第13代藩主徳川慶福の治世の嘉永3年(1850年)に着工し、翌4年(1851年)に完成。紀州東照宮の祭礼である和歌祭の際に、徳川家や東照宮関係の人々が御旅所に向かうために通行した「御成道」に架けられたものです。
石材は和泉砂岩を使用し、敷石やアーチ部分の内輪石には直方体状の石材が使用されている。橋台のアーチ部分は肥後熊本の石工集団の施工だそうです。

雲を文様化した勾欄部分の彫刻が優れている。この勾欄部分は、湯浅の石工石屋忠兵衛が造ったという。

(橋を渡り、後ろを振り返った写真)この橋を渡った先には、片男波公園や片男波海水浴場があります。ただし現在は不老橋は使われず、隣の車道橋のあしべ橋が利用されている。というか、不老橋を渡るのはやや危険な感じがします。和歌の浦のお飾りでしょう。

「不老橋」の名前の由来は、住吉神社の神主・津守国基(1023-1102年)が玉津島神社の祭神・衣通姫を詠った
”年ふれど老いもせずして和歌の浦に幾代になりぬ玉津島姫”
という歌からきているようです。

不老橋を渡り片男波公園に入ります。天橋立のような狭長の砂州半島は、和歌浦湾に注ぐ和歌川の河口部に沿うように延長千数百メートルにも及ぶ。万葉集に「潟をなみ(片男波)」と呼ばれ、その風光美が詠まれていました。現在、景勝地としての歴史的景観を考慮しつつ、市民が手軽に楽しめる文化・レクレエーション・スポーツの場として公園整備されています。
私のウォーキング地は人情味溢れすぎた新世界、天王寺公園だが、こうした自然味豊かな場所でウォーキングできるなんて羨ましい。

名草山の山腹にある紀三井寺から、和歌浦湾やここ片男波半島を眺めた景観が大変素晴らしかった。今度は逆に、ここ片男波から名草山を眺めます。かすかに紀三井寺の伽藍が、特に新仏堂のお堂がよく見える。

公園内にある唯一の建物が見えてきた。1階が健康館、2階が万葉館となっています。

万葉集の中には和歌山を旅した歌が107首あり、”和歌”は県名にもなっている。万葉館には、万葉集に関する資料や書籍が展示され、万葉シアターでは映像と音響・照明効果など使った多彩な演出で万葉の世界を体感できるようになっている。
■ 開館時間 9:00~17:00(入館は16:30まで)
■ 休館日 年末年始(12月29日~1月3日)及び設備機器等の点検日
■ 入場料 【 無 料 】

健康館は、気軽に健康運動ができるアリーナをはじめ、トレーニング室、多目的室、シャワー、ロッカーを備えたコミュニティ体育館です。レンタル自転車も置いていたので公園内を全周してみたかったが、時間の関係で断念。

西側は海水浴場「片男波ビーチ」で、ビーチの総延長は1200mもあるそうです。シーズンには大阪方面から多くの海水浴客が訪れ賑わうという。環境省選定「快水浴場百選」海の部に選定されている(2006年)。

ただし人工的に造られた海岸で、波打つ天然の砂洲とは大きく様変わりし、かっての景勝地「片男波」ではなくなっている。

 塩竃神社と鏡山  



片男波公園を後にし不老橋を渡ると、正面が塩竃神社(しおがまじんじゃ)だ。鏡山の岩盤にへばりつくように、いや食い込んで存在しています。海風に削がれ、波に洗われ、鏡山の岩盤がむき出しになっている。この辺りの奇岩の岩山に波が打ち寄せる様は、和歌浦十景の一つとされたそうです。
神社横の岩盤上に山部赤人の歌碑が干潟を眺めるように建っています。

ここはもともと玉津島神社の祓い所で、神輿が玉津島へ渡御する「浜降り神事」の際、神輿を収めて清め祓いした岩穴だった。そこから「輿の窟(こしのいわや)」と呼ばれた。大正6年(1917)に、祓所から神社になったが、今でも玉津島神社が管理されている。
拝所となっている「輿の窟」と呼ばれる洞窟の内部へ入ってみます。途中で左に曲がり、その奥の岩石のくぼみに御神体がお祀りされている。
祀られているのは「鹽槌翁尊(しおづちのおじのみこと)」。この神様は、山幸彦と豊玉姫の縁を結び、安産によって子供を授けられたことから、地元では安産・子授けの神様として信仰され、「しおがまさん」の愛称で親しまれている。またこの周辺では紀州藩の塩田があり製塩が行われてきたことから、塩づくりの神でもあった。そこから神社名がきているようです。

塩竃神社から車道を西へ100mほど行くと玉津島神社への西参道口がある。参道を入るとすぐ玉津島神社の正面だが、その反対側に階段が見えます。ここが鏡山への登り口です。
途切れ途切れに52段の階段となっており、すぐ頂上についてしまう。頂上は小さな空き地で、周囲を遮るものが無く、見晴らし抜群だ。

上は和歌浦湾と片男波の風景、下は名草山方面。

 玉津島神社(たまつしまじんじゃ、玉津嶋神社とも書く)  


玉津島神社は歴史的景勝地・和歌の浦の中心で、江戸時代以前までは玉津島神社の歴史が和歌の浦の歴史だった。。
玉津島神社の由緒について公式サイトに「玉津島社の創立は上古(じょうこ)ときわめて古く、社伝には「玉津島の神は『上つ世(かみつよ)』から鎮まり坐(ませ)る」とあります。玉津島一帯は玉出島(たまでしま)ともいわれ、いにしえ、満潮時には6つの島山(玉津島山)があたかも玉のように海中に点在していたとされます。そして山部赤人の玉津島讃歌に「神代より然ぞ貴き玉津島山」と詠まれた如く、風光明媚な神のおわすところとして崇められてきました。」とある。
社伝によれば、仲哀天皇の皇后息長足姫(神功皇后)が紀伊半島に進軍した際、玉津島神(稚日女尊)の加護を受けたことから、その分霊を祀ったのに始まるという。その後、息長足姫自身も合祀されることとなった。
神亀元年(724)、23歳で即位した聖武天皇は、その年に和歌の浦に行幸してその景観に感動、この地の風致を守るため守戸を置き、玉津嶋と明光浦の霊を祀ることを命じた詔を発する。そして景観に感動し「この地の弱浜(わかのはま)という名を改めて、明光浦(あかのうら)とせよと命じられた。玉津島と明光浦の霊が祀られたが、特に社殿があったわけでもなく、島自体が神としてあがめられててきた。「玉津嶋には社一(ひとつ)もなし。鳥居もなし。只満々たる海のはた(側)に古松一本横たはれり」との記録もある。

その後、称徳天皇(765年)、桓武天皇(804年)も玉津島に行幸している。第58代光孝(こうこう、830-887)天皇により和歌の道に秀でた衣通姫尊(そとおりひめのみこと、第十九代允恭天皇の妃)が和歌の神として合祀された。これは天皇の御夢枕に衣通姫が現れて、『立ちかえり またもこの世に跡垂たれむ その名うれしき 和歌の浦波』と詠じられたからだという。このことにより玉津島神社は、住吉大社(摂津)、柿本神社(明石)とともに『和歌三神』の一つに数えられ、和歌の神様を祀る神社として天皇や貴族、歌人たちに崇拝され参詣や和歌奉納が行われてきた。またこの頃から、「若の浦」から「和歌の浦」と呼ばれるようになる。

その後についてWikipediaは「天正13年(1585年)に紀州を平定した豊臣秀吉も早々に玉津嶋に詣でている。この後、紀州に入部した浅野幸長により社殿の再興が図られ(1605年)、初代紀州藩主・徳川頼宣により本殿などの本格的な整備がなされた。寛文4年(1664年)には、春秋2期の祭祀が復活している。現在、境内には頼宣が承応4年(1655年)に寄進した灯篭が残されている。近世に整備された玉津嶋神社は、和歌の浦の名所として巡礼をはじめ大勢の人々が詣でるところとなり」と記す。

鏡山の階段を降りると、すぐ正面が玉津島神社です。鳥居前に「日本一社・玉津島神社」の石柱が立っている。これは国内に同名の神社が多くあるが、「玉津島神社」というのはここしかない、ということです。

鳥居の左側の塀には「小野小町袖掛の塀」と案内されている。小野小町が和歌の上達を願って当神社に参詣した時、この塀に袖を掛けて和歌を詠んだと伝わることから。
鳥居右前には「衣通姫」と名付けられた桜の木があります。和歌の神様として祀られている衣通姫は、絶世の美人として知られ、その色香が「衣を通して光り輝いた」そうです。小野小町、藤原道綱母と並び「本朝三美人」の一人とも。
拝殿です。二基の石灯籠は、徳川頼宣が承応4年(1655)寄進した石灯籠の復元もの。実物は本殿前にある。名のある神社にしては境内は広くない。数分もあれば全て見てまわれます。海に浮かぶ小島だったからでしょう。

拝殿背後の一段高くなったところに本殿が建つ。樹木に遮られよく見えないのだが、「蝋色(ろいろ)施工の漆塗りが優美な春日造りで、内陣外壁3面には名勝和歌の浦の風景、根上り松などの絵が描かれている」そうです。見えている石灯籠が徳川頼宣が寄進した実物です。

御祭神は以下の四神。
・稚日女尊(わかひるめのみこと)・・・伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)の御子であり、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の妹神で、玉津島の神でもある。
・息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・・・神功皇后です。
・衣通姫尊(そとおりひめのみこと)・・・第19代允恭天皇の后で、和歌の道に秀でた絶世の美女でその麗しさは「衣を通して光り輝いた」と伝えられている。第58代光孝(830-887)天皇により和歌の神として合祀されました。
・明光浦霊(あかのうらのみたま)・・・当地に行幸された聖武天皇は、美しい景観に感動され「明光浦(あかのうら)」と名付け、その霊を祀られた。

拝殿の左に回ると天然記念物の「根上り松(名称鶴松)」がある。人工的なオブジェのようで、松とは見えない。砂や雨風によって松の根元が浮き上がり、このような有様になったのです。大正10年に和歌山市高松より移転保存されたもの。

右奥に見えるのが山部赤人の万葉歌碑。聖武天皇に随行した宮廷歌人山部赤人が詠んだ玉津島讃歌を、万葉学者・犬養孝氏(大阪大学名誉教授)が平成6年(1994)に揮毫建立したもの。

 奠供山(てんぐやま)  



境内の右奥側に周ると階段が見えてきた。30mほどの山だし、それほど傾斜も急でないので簡単に登れそうだが、そうでもなかった。足場が悪いのです。不整形の石を階段状にただ漠然と置いているだけなので、足元を見つめ気をつけながら踏みあげてゆく。足が疲れるわ、気分は滅入るわ、で散々でした。紀三井寺の230段の石段のほうがはるかに楽だった。
大正初期にはエレベーターが設置されていたようだが、残しておいてほしかった・・・。

やっとの体で山頂まで登りきる。そこに広がる眺望は疲れた体を一気に癒してくれました。
奈良時代の初め、聖武天皇が山部赤人らを引き連れここまで登ってこられた。ここから眺めた風光明美な景色にひどく心打たれた天皇は、「山に登りて海を望むにこの間最も好し。遠行を労せずして以て遊覧するに足る。故に≪弱浜・わかのはま≫の名を改めて≪明光浦・あかのうら≫と為せ。宜しく守戸を置きて荒穢すせしめることなかれ」と命じられたという。
聖武天皇もあの石段を・・・そんなはずない、当時は草ボウボウの粗道だったはず。当時、天皇は23歳、俺とはは雲泥の差でもあります。


頂上は小さな広場になっており、片隅に「望海楼遺址碑」が建つ。碑文は腐食が激しく詠むことはできません。望海楼とは765年に称徳天皇が和歌の浦の眺望を楽しむために造営された楼閣風の建物。望海楼もこの碑も、元は山麓にあったのだが、明治天皇が艦上から眺められるように山頂に移したという。なんでや、という気がします。

片男波方面の眺望。遠くに見えるのは下津の石油工場?、和歌山マリーナシティ?。かって「万葉集」などに詠まれた景観だが、当時の風景とは全く別のものに。頭と目を空にして、古の風景をイメージするしかありません。

こちらは新和歌浦方面。背後の山が桜の名所・高津子山で、今日の最終地です。

後ろを振り返れば、これから訪れる紀州東照宮や和歌浦天満宮が見えています。

これは現地の案内板にのっていた写真。左の写真に注目です。エレベーターが写っている。建物は「望海楼本店全景」と書かれている(望海楼といっても、称徳天皇が休んだという楼とは同名でも全く別物)。
明治43年(1910)、日本初となる高さ30mの昇降機(屋外型エレベーター)が旅館望海楼によって建設された。東洋一のエレベーター「明光台」として大々的に宣伝されたそうです。

夏目漱石は明治44年に関西地方への講演旅行の際に和歌の浦を訪れこのエレベーターで奠供山に登った。この時の体験が小説「行人」(大正元年12月6日~大正2年11月まで朝日新聞連載)に使われている。
主人公とその兄は泊まっていた旅館で早朝「手摺の所へ来て、隣に見える東洋第一エレヴェーターと云う看板を眺めていた。この昇降器は普通のように、家の下層から上層に通じているのと違って、地面から岩山の頂まで物数奇な人間を引き上る仕掛であった。所にも似ず無風流な装置に違ないが、浅草にもまだない新しさが、昨日から自分の注意を惹いていた。果たして早起きの客が二人三人ぼつぼつもう乗り始めた」。面白そうだと、二人は浴衣掛けで宿を出た。「すぐ昇降器へ乗った。箱は一間四方位のもので、中に五六人這入ると戸を閉めて、すぐ引き上げられた。兄と自分は顔さえ出す事の出来ない鉄の棒の間から外を見た。そうして非常に鬱陶しい感じを起こした。”牢屋みたいだな”と兄が低い声で私語いた。・・・牢屋に似た箱の上り詰めた頂点は、小さな石山の天辺であった。その処々に背の低い松がかじりつくように青味を添えて・・・そして僅かな平地に掛茶屋があって、猿が一匹飼ってあった」。その後、二人は紀州東照宮へ向う。

歩いても10分程度で登れる奠供山だが、物珍しさもあって当初は大人気だったようです。しかしだんだん飽きられ乗降客が減っていき、また環境保全の反対運動もあり、大正5年に撤去された。旅館望海楼も新天地「新和歌浦」へ移転する。

南側から撮った写真で、かって海に浮かぶ小島であった様子がうかがえる。東洋第一エレベーターと望海楼本店が彷彿としてきます。


詳しくはホームページ

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