山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

紀三井寺から和歌の浦へ 1

2020年06月07日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2020年4月3日(金曜日)
4月になって春うらら。行楽シーズンになったが、世の中真っ暗。いつも出かける道頓堀、黒門市場、通天閣界隈は人影まばらで生気を失ってしまった。長年大阪ミナミに住んでいるが、こんなの初めてだ。人混みで歩くのも困難だった黒門市場は自転車でスイスイ通れる。通天閣下のビリケンさんもマスクをはめられ、人影の無くなった串かつ通りを見つめている。唯一有難いのは異邦人が消えたことだ。やっと日本語が耳に達するようになった。建設ラッシュだったホテルは、オープン早々「当面の間は休業」の張り紙が。雨後の竹の子のように増殖したドラッグストアも相次いで閉店していく。

そうだ気分を晴らそう!、どっかへ出かけよう!。高野山は別にして、紀州和歌山への出歩きは初めてだ。紀三井寺を訪れ、その後に万葉の歌に詠まれた和歌の浦へ周ることにした。世は、盛んに「不要不急」の外出自粛を呼びかけている。この時期、マズイんじゃないかナ、と自問自答します。
健康のためのウォーキングは認められている。県境を越えるのだが、一日ウォーキングは私の健康保持と気分転換に必要不可欠なのです。不急じゃないのか?。今回の出歩きは桜の名所で名高い紀三井寺と高津子山が目的だ。桜の寿命は短く、あっという間に散ってしまう。この時を逃してはならず「急」を要するのです。とかなんとか自分を納得させ出かけることに。唯一心配なのは往復の電車内、最新の注意を払います。コロナに打ち勝つ健康つくりのために、いざ和歌の浦へ・・・。
(4月8日、緊急事態宣言が天下る。紀三井寺の特別拝観も停止された。和歌の浦の神社仏閣も同様だろう。急を要して、かろうじて目的を達成することができました)

 紀三井寺(きみいでら)へ  



大阪・JR天王寺駅から特急で和歌山駅へ、そこから普通に乗換え紀三井寺駅に到着。9時前です。駅を出ると目の前に名草山が横たわり、桜色に染まる中腹に寺の甍が覗いています。薄雲が広がり、快晴とまではいきません。

駅前広場を横切り、山沿いの細い車道を南へ歩くこと10分位で紀三井寺の正面で、そこは門前町です。何軒か土産物屋さんが並ぶが、まだ開いていません。

★★~紀三井寺の歴史~★★
紀三井寺の始まりについて寺伝では「紀三井寺は、今から1240年近く昔(宝亀元年、770年)、唐僧・為光(いこう)上人によって開基されました。為光上人は、伝教の志篤く、身の危険もいとわず、波荒き東シナ海を渡って唐より到来されました。そして諸国を巡り、たまたまこの名草山の麓に一宿した折、山の頂上付近が白く光っているのを不思議に思って上がって来られると、金色に輝く千手観音様と出会われました。この地が、ご仏縁深き霊場と悟られた上人は、自ら一刀三礼のもとに十一面観音様の尊像を彫られて、これを草庵に安置し、この紀三井寺を開創されました。」(寺から頂いたパンフレットより)

中世の紀三井寺については「合せて四十九町中世以後寺領とす。天正十三年豊臣太閤征伐の時、皆没収せらる。此ノ時寺に伝ふる所の綸旨院宣種々の文書等皆散失す」(「紀伊続風土記」)。秀吉の紀州攻めによって寺領は没収され、寺の史料など皆散失したため詳しいことは分からないという。

この辺りは紀州街道沿いになり、京からはるばる熊野詣する途中の中継寺院として栄えてきた。法皇、上皇や貴族達が熊野詣の行き帰りに立ち寄っているのです。紀三井寺のご詠歌は「ふるさとを はるばるここに 紀三井寺 花の都も近くなるらん」。これは西国三十三所観音霊場の中興の祖といわれている花山法皇が、熊野からの帰りに立ち寄り、京の都に近づいたな、という感慨を詠ったものです。
江戸時代になれば紀州徳川家歴代藩主の庇護を受けたようです。

 楼門  


境内入口はこの紅い楼門です。紀三井寺への巡拝はまず階段から始まります。紀三井寺は名草山(なくさやま、標高228.7m)の西側中腹(標高50m辺り)に位置するので、そこまで登らなければならない。きつい階段です。ここから100mほど北へ回ると裏門があり(境内MAPを参照)、まわり道になりますが緩やかな坂道を使って登ることができます。階段が苦手の方にはお奨めです。駐車場も近い。

楼門は室町時代の永正6年(1509)の建立で、三間一戸・入母屋造・本瓦葺き。正面左右には仁王像を安置している。永禄2年(1559年)に加修。下階中央間は開放で扉がない。欄間には牡丹と蓮の鮮やかな彫刻が施されています。国の指定重要文化財。




楼門の左脇に閻魔大王像が置かれている。ここ紀三井寺は西国三十三所観音霊場の二番目札所。三十三所観音霊場巡りは、病死して冥土の入口にやってきた徳道上人に閻魔大王が、三十三所を巡り地獄に落ちる人々の罪を軽くしなさいと、上人を現世に送り返したことから始まったという。そういうご縁で閻魔大王さまがお座りになっているのでしょう。脇の小像は徳道上人でしょうか?。




 清浄水(しょうじょうすい)  



楼門の先には、気の遠くなるような階段が待ち構えている。「紀三井寺」の名称は、「清浄水」「楊柳水」「吉祥水」の3つの湧き水に由来します。このうち「清浄水」「楊柳水」の2つがこの階段の途中にあるので、先にこの井戸を紹介します。

三井水(さんせいすい:吉祥水・清浄水・楊柳水)は、水槽の刻銘により、紀州初代藩主徳川頼宣によって慶安3年(1650)に整備されたことが知られている。昭和60年(1985)には環境庁の「名水百選」に選定された。
石段を60段ほど登ると、右手にチョロチョロと滴り落ちる小滝があります。これが三井水の一つ「清浄水(しょうじょうすい)」です。伝説では、寺の開祖・為光上人の前に竜宮の乙姫が現れ、上人に竜宮での説法を乞うて清浄水に身を投じて龍に化身したという。
公式サイトに「大正十一年、昭和天皇陛下が皇太子殿下のみぎり、当地に行啓された時、紀三井寺の清浄水が非常に良いということで、わざわざ和歌浦の御宿舎までこの水を運んで調理その他の用水に供されたことは、当時の人々の誇りとして、今尚諸人の記憶に新たなる所です。」とあります。

清浄水の小滝を見つめるように取り囲んで後代紀州の俳人達の句碑が置かれている。一番手前には松尾芭蕉の句碑「見上ぐれば 桜しもうて 紀三井寺」(建立文化年間(1804年~)もあります。芭蕉は桜見に来たのだが、既に散始めていたのを残念がって詠ったものだそうです。

 楊柳水(ようりゅうすい)  



清浄水の所からさらに数段登れば右手に小道がある。この小道を100mほど進めば突き当たりに瓦葺の小屋が現れる。ここが「楊柳水(ようりゅうすい)」の場所だ。

公式サイトに「この水を飲む人々を病から救って下さるというありがたい水として喜ばれてきた南の滝・楊柳水ですが以前は、木々の間に埋もれ、覆屋の白壁は落ち、井戸は泥で濁って、見るも無惨な有様でした。一足先に復興された吉祥水や紀三井寺の三井水が、環境庁より日本の名水百選に認定されたのを期に、楊柳水の整備の気運が高まり、かねてより護持の意向を示しておられた、市内和歌浦・木下建設株式会社の木下治郎社長の手により昭和六十年に短期間の内に整備工事が進められ、復興されました。」とあります。

楊柳水への小道からの眺め。和歌の浦や高津子山が見えてきました。

小道とは反対側に、和歌山市指定文化財になっている「応同樹(おうどうじゅ)」がある。開祖・為光上人が竜宮から持ち帰った七種の宝の内の一つと伝えられておる霊木で、和名はクスノキ科のタブノキ(イヌグス)。
現在の樹は樹齢推定約150年とされ、「創建の頃の応同樹株から種子が落ち、自然に発芽成長して今日に及んだもの」(「側の説明板より)だそうです。



 厄除け石段「結縁坂(けちえんざか)」  



この急な階段を登らなければ紀三井寺に参拝できない。「地上より231段」とあるのは楼門前にある20段位を含んだ数です。

ここは「結縁坂(けちえんざか)」と呼ばれ、公式サイトに「江戸時代の豪商・紀ノ国屋文左衛門は、若い頃にはここ紀州に住む、貧しいけれど孝心篤い青年でした。ある日、母を背負って紀三井寺の表坂を登り、観音様にお詣りしておりましたところ、草履の鼻緒が切れてしまいました。困っていた文左衛門を見かけて、鼻緒をすげ替えてくれたのが、和歌浦湾、紀三井寺の真向かいにある玉津島神社の宮司の娘「おかよ」でした。これがきっかけとなって、文左衛門とおかよの間に恋が芽生え、二人は結ばれました。後に、文左衛門は宮司の出資金によって船を仕立て、蜜柑と材木を江戸へ送って大もうけをしたのでした。紀ノ国屋文左衛門の結婚と出世のきっかけとなった紀三井寺の表坂は、それ以来「結縁坂」と呼ばれるようになりました。」 とあります。
二人で登ると縁が結ばれるといわれる結縁坂だが、現在は縁結びよりは厄除けを強調されているようです。鼻緒の時代ではないですからね。踏み外して転ぶ・・・というのはありか。これより上の登段最速記録は21.9秒(元100m日本記録保持者 青戸慎司選手)とある。平地50mの俺の記録と同じだ。


70段ほど登ると楊柳水への脇道がある場所になる。ここで一区切りされ、次の「女厄除坂(33段)」が始まります。女性の大厄が33歳であることからくるんでしょう。

右側には災厄を代りて受くてくださる「身代り大師」を祀っているお堂松樹院があるので、ついでにお参りを。

次は「男厄除坂(42段)」、さらにその上は「還暦厄坂(61段)」と続きます。階段は厄ごとに一区切りされているので、そこで一服。そして歯を喰いしばり石段踏み越え厄払い。といっても俺はとっくに厄を越えてしまているのだが。結縁を望むには枯れすぎたし・・・。

階段の高さや幅は丁度良いくらいなので登り易い。そのうえテスリも設けられている。とはいってもかなりの段数があるので大変です。そういう時は一服し後ろを振り返るのです。満開の桜の先に美しい和歌浦湾がだんだんと見えてくるようになります。石段を踏み外さないように注意を・・・今時の娘さんは見向きもしない。

 六角堂・鐘楼  



階段を登りきると、正面に見えてくるのが六角堂。江戸時代の寛延年間(1750年頃)に建てられたお堂で、西国三十三カ所の御本尊が祀られている。六角堂にお参りすれば西国三十三箇所巡礼をしたのと同様の功徳が得られるようです。
鐘楼は宝亀2年(771)に建立


六角堂の横に建つのが鐘楼。黒ずんだ縦板の袴腰の上に、梵鐘を納めた紅い上層部がのっている。渋い黒とカラフルな赤色の上下対照的な鐘楼は珍しい。
鐘楼は宝亀2年(771)建立とされるが、天正13年(1585)秀吉の紀州攻めの後の天正16年(1588)に再建されたのが現在の鐘楼。旧鐘は文禄・慶長の役の折に没収されて筑後に移されたが現存しないという。
細部の様式も安土桃山時代の特徴をよく示している秀作で、明治41年に国の重要文化財に指定された。






鐘楼の先に建つのが弘法大師像を祀っている大師堂。



階段を上がりきった左手突き当りが本堂です。そこまでの参道右手に、六角堂、鐘楼、大師堂が並ぶ。紀三井寺は山腹に位置するので、境内はそれほど広くはない。

 本堂と特別拝観  



参道の正面が本堂です。入母屋造本瓦葺き、正面に唐破風の向拝を付け、総欅(ケヤキ)造りの建物。江戸時代、宝暦9年(1759)の建立とされる。和歌山県指定有形文化財。
正面軒下に額「救世殿」が掛かる。この本堂の名前なのでしょうか。


外陣には扉は無く巡拝者に開放されている。ここは名だたる西国三十三所観音霊場の第二番札所なのです。

特別拝観のため本堂内に入ります。本堂右手に回りこみ履物を脱ぎ、本堂入口で特別開帳拝観料:千円(大人)を払う。本堂内を一周するように反対側(西側)に回り込む。そこが大光明殿の入口になっている。

今まで本堂内に秘仏として安置されていた本尊の十一面観音像と千手観音像は火災や震災などに備えて、本堂の裏手に棟続きに建てられた大光明殿(昭和58年、1983年 完成)に移された。二体の秘仏は50年に一度御開帳されるが、今年がその年に当たる。また紀三井寺開創1250年目でもあります。通常、大光明殿は扉が閉められたままで非公開だが、今回は特別に開かれることになった。
大光明殿内部は狭く、薄暗い。10人も入れば「三蜜」になりそうだ。込み合うと入場制限されるようです。朝早かったのでまだ5人ほどで、ゆっくり拝観できました。
(コロナ緊急事態宣言により4月8日から特別拝観は停止されました。宣言解除されたので5月30日(土)より再開されました)

大光明殿内の仏様は、写真が撮れないので置いてあったパンフレットで紹介します。といっても、写真のように肝心の中央秘仏二体はパンフレットでも「秘」扱いで、かすかに透けてみえるだけ。

中央の秘仏の右側は千手観世音菩薩立像。樟の一木造り、素地仕上げ。通計の42手の他に多数の小手を配した真数千手観音。10世紀後半から11世紀の作風。左の秘仏は本尊の十一面観世音菩薩立像。樟の一木造り、素地仕上げ。10世紀初期の作風。どちらも「伝開山・為光上人御手彫」(パンフ)とされているのだが・・・。一番右端は十一面観世音菩薩立像で、秘仏本尊のお前立ちだったと思われる。その他は、右から梵天立像・帝釈天立像・ 毘沙門天立像。毘沙門以外の五体は国の重要文化財です。

本堂外陣から境内を撮ったもの。
本堂前の向って左側の桜の木は、開花宣言の目安となる和歌山地方気象台季節観測用の「ソメイヨシの標本木」です。この木に5輪の桜が花開けば桜の開花宣言となる。近畿地方では最も早く開花することから「近畿地方に春を呼ぶ寺」としても知られています。

 霊宝堂(大願洞)  



本堂を出た左側(西側)に「霊宝堂 大願洞」の入口が見える。本堂にくっついて建てられている。午前8時半~午後4時半の間に入堂でき、無料です。




まず階段を降り、地下の大願洞に入る。「洞」とあるだけに、やや薄暗く不気味感が漂う。周囲には西国三十三所観音の仏画(?)が並べられ、壁一面に願掛けした杓子が張り付けられている。やっと「大願洞」の意味がわかりました。仏画の前にさい銭箱が置かれているので、さい銭を投げ入れながら三十三所の巡礼ができるようになっているのですね。
最奥には金ピカの仏像がお迎えして下さる。昭和28年に製作された、一体型の陶像としては日本最大の救世観音像だ、と注釈されている。大きく不思議な円筒もよく見れば願掛け杓子を束ねたものでした。この杓子は、本堂前で願い事を書き奉納されたもののようです。

階段を登ると、そこは明るい展示室になっている。壁一面に西国三十三所観音霊場の版画が掲げられ、これを見れば楽しみながら西国三十三所の霊験を巡観できるという。江戸時代の著名な浮世絵師、文章家の手になる版画だそうです。
反対側のショーケースにはいろいろな寺宝が展示公開されている。一休さんの書、第十代紀州藩主徳川治宝筆の「雲龍図」など。

 多宝塔・開山堂  



本堂前の広場。右側の名草山を少し上ったところに見える鮮やかな朱色の建物が多宝塔。本堂横に上り階段があるので、多宝塔と開山堂へ行ってみます。

現在の多宝塔は宝徳元年(1449)に再建されたものだが、紀三井寺に現存する建物では最古のものらしい。各種の絵様、彫刻、須弥壇に室町中期の建築様式を示しているという。
高さは約15mで、方形の下層内の須弥壇には五智如来坐像が安置されている。

多宝塔の南側の一段と高い所に小さな祠が見える。これは「春子稲荷」と呼ばれ、織田信長、羽柴秀吉の軍勢から紀三井寺を救った春子という女性を祀っている。傍の説明板には「凡そ四百年の昔、天正三年織田信長、羽柴秀吉による紀州征伐六万の大軍は根来寺、粉河寺を焼き討ちにし、紀三井寺に迫った。丁度その頃当山観音堂に仕えていた春子という二十才位の美女が突然須弥壇のなかから白狐の姿となり身をひるがえして敵の軍営に赴き霊力をもって武将を威嚇し先鋒の将羽柴秀長から焼打ち禁制の書状を得て紀三井寺及び在所を戦火から救った」とある。


多宝塔の北側に静かに佇むのが開山堂。名前からして紀三井寺の開祖・為光上人を祀っているのでしょう。

この場所は本堂のある境内からさらに一段と高い場所にあるので見晴らしがすこぶる良い。やはり紀三井寺は桜のこの季節が良いようです。

 本堂前の広場  



本堂前の広場は休憩所と展望所となっている。名草山の西側中腹の標高50m位辺りに位置しているので展望がよい。桜を額縁にして、和歌の浦湾から高津子山、雑賀埼まで見通せます。

休憩所の中央に大きなくすの樹が立つ。樹齢約400年と推定され、和歌山市指定文化財となっている。


 新仏殿  



本堂とは反対側の参道突き当たりに、朱色と白壁の新しいお堂が建つ。その名も「新仏殿」。平成14年(2002)に竣工した鉄筋コンクリート造りで、高さ25m、3階建の建物。中に入るといきなり金ピカの巨大な仏様が、よくいらっしゃいました、と合掌印で迎えてくれる。木造の立像仏としては日本最大で高さ12mの総漆金箔「大千手十一面観世音菩薩像」です。京の仏師松本明慶師の京の工房で制作した寄木造の像をここで組み上げ、平成20年(2008)5月入仏落慶供養が行われた。薄暗い宝庫のなかで、50年に一度御開帳の秘仏を見てきた後だけに、拝観というよりは好奇心で見上げるだけでした。

新仏殿の目的は、三階の展望回廊です。金ピカ仏像の脇に置かれた小箱に展望料百円を入れ、小戸を押し開け中に入り、階段で三階へ。
この展望所からは、南、西、北方面が遮るものなく見渡せる。南の和歌山マリーナシティから、和歌浦湾、片男波、高津子山、雑賀埼方面、さらに北側に回ると和歌山市内まで眺望できます。

これから訪れる和歌の浦をアップで撮ってみました。今でこそ家々が建ち、人工物が造られ昔の面影は無くなっているが、かっては風光明媚な景勝地として都にまで知られた。潮の干満によって干潟が現れては消え、小島となったり陸続きになったり、その多彩な風景は奈良の時代から皇室、貴族に愛され多くの和歌に詠われてきた。ここからその地形を見つめていると、かってのイメージが浮き上がってきます。

飛び出た山地の最上部が桜の名所・高津子山。今日の一日ウォーキングの最終地だ。あそこまで歩かなければならない。

桜に染まる境内を見下ろしたもの。一番奥に本堂の大屋根が見える。左上は和歌山市内だ。
紀三井寺の境内には約500本の桜の木が植えら、桜の名所としても名高く「日本さくら名所百選」にも選ばれている。
寺伝では、開祖・為光上人が龍神の招きで竜宮城に行った帰りに七つの宝物をもらった。その一つが桜の苗木で、それが今日の紀三井寺の桜の元になったという。

 吉祥水(きっしょうすい)  


最後に、三井水の残りの一つ「吉祥水(きっしょうすい)」を訪ねます。吉祥水は、紀三井寺境内から北にかなり離れた少々判り辛い場所にある。目印は紀三井寺の裏門です。
本堂前の広場の北西に、下へ降りる階段がある。降りていくと左に分岐する道があるが、これは例の結縁坂へ通じているので、右の道を選んで降りてゆく。下まで降りるとそこに裏門があります。近くに駐車場があるので、この裏門から坂道を使ってお参りされる人も多いようです。250段の結縁坂を避けれるので、階段の苦手な方はこちらを選ばれると良い。裏門の前に駐車料金所があり、係りの方が常駐されているので吉祥水の場所を尋ねてみても。

裏門の前から北へ向って細い車道が通っている。この車道を北へ300mほど歩きます。一本道なので迷うことはない。すると広い駐車場が見えてくる。この駐車場の北東隅をよく見ると、「吉祥水」と書かれた白い板が見え、その脇が階段になっている。

細い階段を登ってゆく。数えたら93段ありました。
公式サイトに「「吉祥水」は昭和初期、附近に土砂崩壊が起り、その後も相次ぐ崩壊により水筋も変り、水桶等施設も理没して荒廃し、境界も定かならぬ有様となりました。その後幾度となく復旧の話も出て種々努力もなされましたが、機縁熟さず、立ち消えとなりました。しかし近年地元三葛地区の人々を始め有志により、先祖以来子供の頃から「瀧のぼりの清水」として親しまれてきた吉祥水を後世に残そうと保存会が設立され、環境整備が進み吉祥天女石像も造られて、後に落慶法要を迎える運びとなりました。」とあります。



詳しくはホームページ
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