山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

京都・小倉山 紅葉三景 1

2018年12月05日 | 寺院・旧跡を訪ねて

■2018年11月27日(火曜日)
紅葉の季節がやってきた。昨年は京都・東山だったので、今年は京都の西、嵐山周辺に決めていた。嵐山・嵯峨野には多くの紅葉の名所があります。その中で、小倉山の山腹に並ぶように佇む常寂光寺、二尊院、祇王寺を訪れることにしました。小倉山は、桂川(保津川)を挟んで嵐山と向かい合い、古より紅葉の名所として親しまれ、皇族や貴族が別荘を構えた所です。
嵐山・嵯峨野は平安の昔より景勝地として知られていた。それは現代でも変わりはない。多くの人が訪れます。特に週末や祭日は人、人・・・で溢れかえる。週末は避けました。今回は常寂光寺です。

 常寂光寺(じょうじゃっこうじ)へ  



9時15分、阪急・嵐山駅に到着。渡月橋の架かる桂川(保津川)へ向う。観光スポットの渡月橋。午後になると人波でごった返す。正面に見えるお椀型の山が小倉山で、左が嵐山。その間を桂川(保津川)が流れる。トロッコ嵯峨駅からトロッコ列車に乗り亀岡まで行き、保津川下りの小舟でここまで帰ってくるのがお奨め。この紅葉シーズンが最高です。
渡月橋を渡ると、嵐山・嵯峨野のメインストリート。そこを抜け左に入れば、これも嵐山名物の竹林地帯へ。人力車が急に増えくる。竹林と人力車はよく似合うのだが、人が多くなってくると邪魔でしょうがない。最近、人力車が増えたような気がする。紅葉シーズンだからなのかな。
竹林の中に佇む野宮神社。縁結びの神さんなので、若い女性に人気だ。

嵐山の観光案内図を撮る。阪急・嵐山駅からここまで20分くらいでしょうか。

踏み切りを渡り、広い空き地が現れ、奥に落柿舎が見えてきた。常寂光寺はすぐ近くだ。空き地から西へ進めば、突き当りが常寂光寺の山門だ。常寂光寺は嵐山・嵯峨野を代表する紅葉の名所ですが、まだ10時前なのでそれほど混雑していない。
山門は、江戸中期までは両袖に土堀をめぐらした薬医門だったが、江戸後期に墨色の門に改築されたもの。豪華さは無いが、山門らしい落ち着いた雰囲気をもった門です。
寺院は塀で囲まれているのが普通だが、この常寂光寺には塀は無く、小倉山と一体となって溶け込んだお寺さんです。

寺名「常寂光寺」の由来ですが、「常寂光土」という仏教の理想郷を表す言葉からきているという。天台宗で言われる四土(しど)で一番最高の世界、仏の悟りである真理そのものが具現されている寂光浄土の世界を表す。
開創者の日禛は隠栖地として、静寂で風情豊かな小倉山の山麓に「常寂光土」を求めたのでしょうか。
藤原定家(1162-1241)の「忍ばれむ物ともなしに小倉山軒端の松ぞなれてひさしき」の歌に因んで、「軒端(のきば)寺」とも呼ばれたそうです。

山門をくぐり少し歩くと受付があるので、ここで拝観料:500円を支払います。この受付の手前までは自由に入れるので、ここから写真を撮って引き返す人もいる。毎年のように訪れる私も今までそうでした。拝観料を支払い中へ入るのは初めてです。無休、9時開門~17時閉門(16:30受付終了)



 境内図と歴史  



山門脇に掲示されている境内図。受付で頂けるパンフレットに載っている図と同じ内容だ。
・京都府京都市右京区嵯峨小倉山小倉町3
・山号は小倉山。旧本山は、大本山本圀寺(六条門流)
・正式名:常寂光寺
・宗派:日蓮宗,本尊:十界大曼荼羅

常寂光寺は日禛(日禎、にっしん、1561-1617)上人によって開創された。日禎は,幼いころに日蓮宗の大本山である本圀寺(ほんこくじ)に入り、わずか18歳で第16世住持(住職のこと)となったといいます。
「文禄四年 (1595)、豊臣秀吉が建立した東山方広寺大仏殿の千僧供養への出仕・不出仕をめぐって、京都の本山が二派に分裂したとき、上人は、不受不施の宗制を守って、出仕に応ぜず、やがて本圀寺を出て小倉山の地に隠栖し、常寂光寺を開創した。当地を隠栖地にえらんだのは、古くから歌枕の名勝として名高く、俊成、定家、西行などのゆかりの地であったからと思われる。当時、小倉山一帯の土地は、高瀬川開削で名高い角倉一族の所有であった。日禛上人は角倉了以の従兄である栄可から寺の敷地の寄進を受けている。」(受付でもらったパンフより)
日禛は、藤原定家の山荘「時雨亭」跡に草庵を結び、寺に改めたという。宗学(教義について研究する学問)や歌道に造詣が深く、加藤清正、小早川秀秋、瑞竜院日秀尼(豊臣秀吉の姉)をはじめ多くの帰依者がおり、それらから寄進を受け堂塔伽藍が整備されていった。

 仁王門  



受付から仁王門までの50mほどの参道も紅葉の見所。今日あたりが、紅葉が一番華やいで、美しく輝いているようです。赤色から淡黄色までのグラデーションがなんともいえない。

仁王門といえば仁王像が睨みをきかし、豪壮でいかつい建物が多い。ここ常寂光寺の仁王門にはそうした雰囲気はありません。単層で茅葺の屋根、小ぶりで質素な佇まいは周囲の風情によくマッチしている。
この仁王門は、本圀寺客殿の南門(貞和年間の建立)を元和2年(1616)に移築したもの。境内伽藍の中で最も古い建物だという。

紅く染まった紅葉の下で、両脇の仁王さんも色づいている。身の丈七尺の仁王像は、若狭の小浜の日蓮宗寺院・長源寺から移されたものとされる。寺伝では、平安時代に活躍した仏師・運慶の作と伝えられているというが、実際の作者は不明なようです。
仁王像の前にたくさんの草鞋が吊るされている。仁王像は目と足腰の病にご利益があるとされ、近在の檀信徒がわらじを奉納して病気平癒を祈願したものだそうです。



仁王門から入口の山門側を振り返る。人出もだいぶ増えてきたようだ。写真を撮るのに困るのは人の顔。なるべく写らないように、場所を選びタイミングを探るのだが、これだけ人が増えると避けるのは困難になる。

写ってしまった人、ゴメンナサイ!。










仁王門を通して見上げれば、本堂へ通じる階段が。



仁王門を潜り、背後からみた風景。白壁に苔むす茅葺の屋根、とても仁王門とは思えない山門風の佇まいです。

 本堂への階段  





仁王門を潜ると50段くらいの石段だ。登りきると本堂の正面です。この階段周辺が常寂光寺一番の絶景スポット。見上げて撮る、振り返って撮る、を繰り返しているうちに登りきってしまう。この景観をもっと大規模にしたものが奈良の談山神社の階段です。談山神社の紅葉もすごかったが、コンパクトにまとまったここも見ごたえがある。



見上げて感動する紅葉だが、横を見てもこれまた感動もの。苔に覆われた階段横の斜面に降り散った真っ赤なモミジ葉。緑の苔の上に舞い散った深紅の落ち葉、自然に演出された美しいまだら模様を創りだしている。「散りもみじ」「敷きもみじ」と呼ばれているが、こんなに目をひく散りもみじは初めてだ。

右の写真は、階段左側の「散りもみじ」。

仁王門横から撮った写真。階段は登り専用とされているが、ハッキリ明示されていないので降りる人もいる。右の坂道がお帰りコースとなっている。この坂道は「末吉坂」と呼ばれ、上ると「女の碑」、休憩所・トイレへ行けます。階段が苦痛な人は、少し遠回りだが末吉坂を登っても本堂へ行けます。緩やかな坂道で、こちらも紅葉を堪能できるよ。

階段を登りきって撮る。京都有数の紅葉寺。境内には200余本のカエデが植えられているそうです。

 本堂  


常寂光寺公式サイトに「本堂は、第二世通明院日韶上人(日野大納言輝資の息男)代に小早川秀秋の助力を得て、桃山城客殿を移築して本堂としたもの。江戸期の文献、資料に図示された本堂の屋根は、本瓦葺きの二層屋根となっている。現在の平瓦葺きの屋根は、昭和七年の大修理の時に改修されました。建立の年代は、慶長年間。」とあります。秀吉が建て、家康が再築し、その後廃城となった伏見桃山城からは、多くの建造物が各所にばら撒かれている。ここもその一つなのでしょう。「御祈祷処」の扁額は伏見常照院宮のもの。
本堂内には本尊の十界大曼荼羅と釈迦如来像が安置されています。

妙見堂前から撮った本堂。

本堂の裏は庭園になっている。縁側に座ってしばし休憩するのによい。豪華な庭園ではないが、小倉山の苔むす斜面に紅葉が被さる。手前に小さな池が配されているが、散りもみじに覆われ「枯れ山水」ならぬ「紅山水」となっている。

 鐘楼・女の碑  



本堂の斜め前に、紅葉に覆われ鐘楼が佇む。寛永18年(1642)に建立されたものだが、梵鐘は第二次世界大戦中の金属供出により失われた。現在の鐘は、戦後の昭和48年(1973)に新しく鋳造されたもの。毎日、正午と夕方五時に撞かれているそうです。

鐘楼の先が下山路となっている。その途中に「女の碑」が置かれている。碑には「女ひとり生きここに平和を希う」と刻まれています。この碑の趣旨は、横の説明板を読んでいただくとして、尼寺に設置されたほうが相応しいと思うのだが・・・。
結婚式の最中に召集令状が、という話を聞いたことがある。戦争の影はこういうところにもあったのですね。

女の碑からの坂道は仁王門へ下り、仁王門横を通って出口へ至る。この坂道も、階段に劣らず紅葉と「敷きもみじ」が冴えます。

 妙見堂  



本堂左側に妙見堂が建つ。妙見菩薩とは北極星または北斗七星を神格化した菩薩で、平安時代から京都の各所に祀られて人々の信仰を集めていた。
「當山の妙見菩薩は、慶長年間 (1596~1610) 保津川洪水の際、上流から流れついた妙見菩薩御像をふもとの角倉町の一船頭が拾い、久しく同町の集会所にお祭りされていたのを、享和年間 (1801~1803)、當山第二十二世日報上人の時に、當山境内に遷座されました。 爾来、御所から西の方角に当たることから「酉の妙見菩薩」となり、江戸時代末期から昭和初期にかけては、京都市内だけでなく関西一円から開運、厄除けの御利益を願う参拝者で大賑わいしました」(拝殿前の「妙見菩薩縁起」より)

特に「妙見」が「麗妙なる容姿」とされ、役者や花街、水商売関係の信仰を集めたという。

 多宝塔  



本堂と妙見堂の間を登る坂道が、多宝塔、歌仙祠、時雨亭跡への道になります。この道は紅葉に覆われ、すぐ横は竹林です。竹の緑ともみじの紅のコントラストが本当に美しい。苔の緑とはまた違った雰囲気をだしています。「散りもみじ」「敷きもみじ」も楽しめる。

見上げても、見下げても、そして横を見ても風情を堪能できる。

燃え上がる紅葉の間から多宝塔が見えてきました。

多宝塔は元和6年(1620)、京都町衆の辻藤兵衛尉直信の寄進により建立されたといわれる。内部の須弥壇に釈迦如来、多宝如来の二仏を安置する。そこから「並尊閣(へいそんかく)」とも呼ばれるそうです。正面に、第112代・霊元天皇の勅額「並尊閣」が掲げられている。内部は常時非公開で見ることはできません。

方三間、重層、宝形造、檜皮葺,総高約12m余、屋根の上に長い相輪が伸びる。
初層の屋根上に、雪が積もったような白い部分が見える。これを「亀腹 (かめばら)」というそうです。亀の腹のようにふっくらとしているからでしょうか。亀腹上に縁高欄をめぐらした円塔が建つ。この細い円塔の上に大きく傘を拡げたように広い屋根がのっている。不安定に見えるが、全体を見ればバランスがとれ、均整のとれた美しい姿をしています。国の重要文化財。

多宝塔は境内でも最も高所に位置するため、見晴らしは良い。遠く嵯峨野一帯が見渡せます。


多宝塔の右方に開祖を祀る開山堂が建つ。これは平成16年(2004)、明石本立寺(日蓮宗の寺)野口僧正とその夫人によって建立されたもの。江戸時代作の日禛上人坐像を安置している。






 歌仙祠と時雨亭跡  



多宝塔の右方に佇むのが「歌仙祠(謌僊祠 かせんし)」と呼ばれる建物。藤原定家、藤原家隆そして徳川家康の木像が祀られれています。一般には非公開。
公式サイトに「定家山荘の場所については、諸説ありますが、常寂光寺の仁王門北側から二尊院の南側に有ったと伝へられています。 この場所には、室町時代頃から定家卿の御神像を祀る祠が有りましたが、常寂光寺を創建する時に、定家卿の祠よりも上に寺の庫裏を建てるのは恐れ多いと現在の場所に遷座されました。 明治時代までは、小さな祠でしたが、明治23年に現在の大きさの建物に改築され、歌遷祠と呼ばれるようになりました。 歌遷祠の扁額は、富岡鐡齋の作。南隣に位置する時雨亭跡は、戦前までは庵室が建っていましたが、台風により倒壊してしまい、その後再建出来ず現在に至ります。 この庵室は、いつごろ建てられたか不明ですが、当山の古文書「双樹院日勝聖人傅」(1728年)の境内図には、この位置に庵が描かれています。又、「都名所図会」(1780年発行)にも庵が図示されていることから、江戸時代中期には建てられていたことが分かります。」とある。

小さな祠だったが、明治23年(1890)に定家卿没後650年を記念して現在のような建物に改築されました。そして、富岡鉄斎(文人画家、儒学者、1836-1924)が「謌僊祠(かせんし)」と名付け、彼による扁額が掲げられた。現在の建物は、平成6年(1994)の再改築によるものです。

歌仙祠のすぐ南隣に「時雨亭跡」と刻まれた石碑が置かれています。戦前までは、藤原定家が小倉百人一首を編纂した小倉山の山荘を意味する庵室「時雨亭」が建っていた。その後、台風のために倒壊し再建されないまま石碑のみになっている。

歌仙祠の横に上に登る坂道がある。数分上るとすぐ展望台です。絶景というほどではないが、ここから一番よく嵯峨野一帯が眺められる。

常寂光寺は、お寺にしてはそれ程広い境内ではない。1時間もあれば周れるが、この時期、紅葉を鑑賞しながら写真を撮るとなると1時間半ほどみておけば十分かな。
展望台から下り多宝塔、本堂を経て出口に向います。紅葉シーズンなので臨時出口が設けられているようです。この出口は御朱印所となっています。


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