山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

京都・東寺探訪 3

2017年08月20日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2017年5月20日(土)春の特別展開催中の京都・東寺を訪ねる

 灌頂院(かんじょういん)  


東寺の中心伽藍(五重塔・金堂・講堂・食堂)を見てきたので、再び南大門近くまで戻り、その他の建物を見ていきます。
五重塔とは対照の位置、東寺境内の南西隅に建つのが灌頂院(かんじょういん、重要文化財)。灌頂院は密教の重要な儀式を行う場所で、密教寺院には無くてはならないもの。伝法灌頂(密教の奥義を師匠から弟子へ伝える儀式)、後七日御修法(詳しくは「東寺境内図と歴史」の「雑記」参照)が行われるという。そういうう建物なので非公開で、一般人は中へ入れません。
掃除をされていた方に聞けば、内部には仏像などは置かれておらずガラーンとした石畳だけの空間だそうです。1月14日に特別の行事があり、この間の2時間ばかりは中へ入れるそうです。

 小子房(しょうしぼう)と蓮花門(れんげもん)  



境内西側に、灌頂院と並んで小子房と本坊がある。小子房は天皇を迎える特別な建物らしく、正面の勅使門(唐門)がいかめしい。非公開のため内部に入れないので東寺の公式サイトを引用すれば「天皇をお迎えする特別なところです。南北朝時代。足利尊氏が光厳上皇(こうごんじょうこう)を奉じて都に入ったおり、上皇は、洛中の戦いが治まるまでの間、小子房を御所としました。現在の小子房は、昭和9年(1934年)、弘法大師空海の千百年御遠忌(ごおんき)にあたり再建されました。総木曾檜造で、昭和を代表する建築物のひとつとされ、襖絵や壁画は堂本印象、庭園の「澄心苑(ちょうしんえん)」は七代目小川治兵衛の作です。」

小子房の中には庭園に面して国宝の蓮花門(れんげもん)があるというが、小子房の中には入ることができない。御影堂脇の西門から外の壬生通りに出て、写真を撮る。
三間一戸の八脚門で、切妻造り本瓦葺き。この蓮花門は、鎌倉時代初期文覚上人による東寺再興時に再建され、東寺6門のうち最古の門。そのためか唯一国宝指定で、他の門は重要文化財です。東寺には6つの門があるが、東門(慶賀門)と蓮花門は「不開門」で閉められている。

「蓮花門」の名には伝説がある。空海が晩年の天長9年(832)11月、東寺を弟子に譲り高野山に隠棲するためこの門から去ろうとした時、西院不動堂に祀られていた不動明王が門前まで見送りのために現れ、涙を流して別れを惜しんだという。そして空海の歩いた足元に蓮(ハス)の花が咲いたことから、「蓮花門」と呼ばれるようになったそうです。
全国各地に弘法大師にまつわる奇蹟的な伝説は多数残されているが、ここ東寺だけに真実味があります・・・。

 御影堂〈みえどう、大師堂、国宝〉  



小子房、本坊から築地塀にそって北へ進むと、同じ塀内に南から毘沙門堂、御影堂、大日堂と並んでいる。東寺境内の北西隅になる。
御影堂の山門を潜り塀内に入ると、そこは金堂、講堂、五重塔のある東寺の中心部とは違った雰囲気をもった場所です。難しい密教などという空気感はなく、一般庶民の素朴な信仰の場所となっている。
残念ながら御影堂(大師堂、国宝〉は、現在修理中(平成32年12月まで)で大きな覆屋で隠されていて、内部だけでなく外観さえも見ることができない。

御影堂(大師堂とも)が成立するのは鎌倉時代になってから。現在の御影堂のある区画はかって「西院」と呼ばれ、空海が住房とし東寺造営工事の指揮を執った場所。延応2年(1240)、西院の不動堂に安置されていた弘法大師坐像が、不動堂北側の堂に移される。そして東寺再興に大きな功績を残された宣陽門院(せんようもんいん、1181-1252、後白河法皇の皇女)の働きかけで、それまで灌頂院で行われていた弘法大師空海に報恩感謝する法要・「御影供(みえく)」が、この弘法大師坐像が安置されている堂で行われるようになった。これが御影堂の成立です。3年後の寛元元年(1243)、宣陽門院は弘法大坐師像に生前同様に食事などの給仕をする「生身供(しょうじんく)」も始めています。
御影堂の成立をきっかけに、平安時代後期になると寺運が衰退していた東寺が、御影堂を中心に弘法大師信仰が高まり、「お大師様の寺」として皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになっていく。
当初の堂は康暦元年(1379)に火災に遭い焼失、翌年に後堂部分が再建された。10年後の明徳元年(1390年)、弘法大師像を安置するために北側に前堂、その西側に中門が増築された。これが現在の御影堂です。

御影堂正面になる北側から、覆いの隙間から修理中の内部を覗き撮り。わずかながら御影堂の一部を垣間見ることができました。御影堂を目にすることができないので、東寺サイトを引用すれば「後堂(うしろどう)、前堂(まえどう)、中門(ちゅうもん)の3つの建物で構成され、軒まわりは簡素な垂木(たるき)、屋根は檜皮葺(ひわだぶき)。建具は蔀戸(しとみど)や妻戸(つまど)、縁には高欄(こうらん)を巡らす、落ち着きのある建物です。」となる。
後堂(南側)には、空海の念持仏だった不動明王坐像(国宝、9世紀〉が安置されている。平安時代末期、東寺長者・寛信師が像の光背を修理したところ、直後に空海が入寂したことから、以来現在まで一切御開帳されず秘仏とされている。前堂(北側)の弘法大師座像(国宝〉は、修理期間中は大日堂に移されています。

 生身供(しょうじんく)、御影供(みえいく)と弘法市(こうぼういち)  


★生身供(しょうじんく)~*~*~*~*~*~
この御影堂には早朝6時からお参りできる。弘法大師空海が今も生きているがごとく、毎朝食事を捧げる儀式である「生身供(しょうじんく)」が毎日朝6時から行われるからです。これも東寺サイトから引用すれば「お舎利さん、として親しまれる生身供。弘法大師空海の住房だった御影堂で、毎朝6時から、一の膳、二の膳、お茶をお供えする、生身供がはじまります。ご参拝の方は、午前5時50分ごろまでに御影堂の唐門、または西門前にお越しください。10回の鐘の音の後、門が開きます。そのあとは、毎日お参りに来ている方々にならい御影堂の外陣(げじん)へ。 法要の最後には、弘法大師空海が持ち帰った仏舎利を頭と両手にお授けします。お舎利さん(仏舎利)のお授けは、午前6時20分頃と午前7時20分頃の2回です。」
宣陽門院が始めた生身供は、今日現在まで絶えることなく続けられているそうです。高野山でも同様です。

★御影供(みえいく)と弘法市(こうぼういち) ~*~*~*~*~*~
空海命日に当たる21日には、毎月午前10時から、弘法大師空海に報恩感謝する「御影供(みえいく)」という法要が御影堂で行われる。これは鎌倉時代に後白河法皇の第六皇女宣陽門院が始めたものです。江戸時代に入り、弘法大師信仰の高まりと共に御影供に参加するため多くの人々がお参りにやってくる。それを目当てに、お茶を提供したり、日用雑貨品を並べたりする商売人も集まってくる。こうして毎月21日、東寺境内全域で露店が建ち並ぶ市が開かれるようになった。これが「弘法市」「弘法さん」として親しまれ、京都を代表する縁日の始まりです。
現在でも、早朝5時から夕方4時まで日用品、古着、古本、骨董品、陶器、植木盆栽などの1000店を越す露店が並び10~20万人の人で賑わいます。年初の1月21日は「初弘法」、師走の12月21日は「終い弘法」と呼ばれ、ひと際盛大に催され全国から大勢の人々が詰めかけます。今や京都の代表的な風物詩となっている。

私も数十年前の青春時代、新聞記事を見て初弘法へ訪れました。お堂や仏像など全く興味が無く、東寺が有名な寺など知らなかった。だからお堂や五重塔など全く見ていない。賑わう骨董市の中を歩き回った印象しか残っていません。

 大日堂  


御影堂の正面、即ち北側にあるのが大日堂です。
「御影堂の前にあるお堂が大日堂。御影堂と向かい合う、祈りの大日堂。
大日堂は、東寺のなかで、一番新しいお堂で、もともとは、江戸時代、御影堂の礼拝所でした。その後、桓武天皇、嵯峨天皇をはじめ足利尊氏などの位牌を納める尊牌堂(そんぱいどう)となり、さらに大日如来を本尊としたことで、大日堂となりました。いまは、先祖供養などの回向所(えこうじょ)となっています」(東寺サイトより)
ここには役小角の作と伝えられる胎蔵界大日如来像(平安時代)が本尊として祀られている。また現在御影堂が修理中なので、御影堂前堂(北側)の国宝・弘法大師座像はここ大日堂に移されています。

本物の弘法大師像は見れないが、大日堂の西横に仮御影堂が設けられ、江戸時代作の弘法大師坐像が置かれ参拝できるようになっている。
御影堂の前堂に安置されていた弘法大師坐像(国宝)は、天福元年(1233)に運慶の四男康勝(こうしょう)が、空海の身近にいた真如が描いた空海の肖像画を基に制作したもの。左手に数珠、右手に五鈷杵を持ち、弘法大師空海42歳の姿を刻んだものといわれています。これは最古の大師像といわれ、他の大師像の模範となっている。
非公開だが、毎朝6時の生身供でご開帳され、また毎月21日御影供で内陣扉が開いている時に拝観できるそうです。

御影堂の南側には毘沙門堂が建ち、その西側の築地塀に沿って、幾つかの宝塔や石碑が並べられている。写真左側の亀の上に建つ石碑は「尊勝陀羅尼の碑」と呼ばれ、北野天満宮にあったものが幕末の神仏分離令によってここに移されたもの。この周囲を回りながら亀の頭や手足を撫で、その手で自分の患部をさすると、万病に効くという。患部を擦るための「万病ぬぐい」の布も置かれている(売られている?)そうです。

右側の低い石柵に囲まれた石は「天降石(てんこうせき)」と呼ばれている。“天から降ってきた石”、大日如来さんからの贈り物なのでしょう・・・。この石も撫でると万病に効くという。お大師さんにお参りされた多くの人々が触って帰られる。ところが、逆に病を人から人へ蔓延させるという理由から、明治の一時期にはお触り禁止になったこともあるそうです。
こうした「撫でもの」は、多くの神社・寺院で見かけます。お賽銭箱も置かれている。お賽銭あげないと効果が得られない気になってしまいますネ。

 宝物館と北大門  



御影堂の門の脇にある灰色の建物が宝物館。東寺は我が国トップクラスの国宝・重文を有し、ことに密教美術の宝庫として知られている。その多くの寺宝は公開されていなかった。しかし昭和40年(1965)にこの宝物館を開館し、春秋の一時期に限定して一般公開されるようになった。今は、春の特別展(3月20日~5月25日)の最中です。
仏像、彫刻、工芸品、絵画、古文書など多くの寺宝の中から一部を選別し展示しています。今年は「後七日御修法」(ごしちにちのみしほ:正月の8日から14日までの間に、天皇の安泰を祈願する儀式)に関係するものが中心に展示されていた。

正面受付を入ると書籍、写真などの展示販売所がある。その奥が展示ルームで、主に後七日御修法関連の古文書や用具が並ぶ。足利尊氏が寄進したという梵鐘もあった。二階展示室には、空海自身が唐から持ち帰った儀式用の密教法具セット(金銅製の金剛盤・五鈷杵・五鈷鈴、写真左)が注目される。国宝ですが、現在でも後七日御修法で使われているそうです。

二階ホールがメインの展示所。地蔵菩薩立像、五大尊像など多くの仏像が並ぶが、注目されるのは二つ。国宝の兜跋毘沙門天立像(とばつびしゃもんてん、写真右)は、平安京の入口だった羅城門の楼上に置かれ都を監視していたものだが、羅城門倒壊後に東寺に移された。中国唐代の木彫像といわれ、中央アジア風の鎧や兜で武装し、地天女と二鬼(右が尼藍婆:にらんば、左が毘藍婆:びらんば)を踏みながら睨みつけている勇ましい形相をしている。”兜跋”の名の由来は、チベットの戸蕃国(とばん)と関係があるのではとされるが、多くは不明だそうです。
もう一つは、高さ約6メートルもの千手観音菩薩立像。もとは食堂の本尊だったが、昭和5年(1930)食堂の火災で焼損したが、平安初期の仏像様式を忠実に守り昭和40年から修理され甦り、宝物館に収蔵されることになった。被災前は国宝だったが、補修が入っているため現在は重要文化財指定です。なお食堂には、この千手観音菩薩さんを四方から守護していた四天王像(持国天・増長天・広目天・多聞天)が、焼け爛れた姿のままの姿で立っている。こちらも見逃すべきでない。

またこのホールの壁には、真言密教の教えを視覚化した胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅の二つの曼荼羅(「両界曼荼羅図」という)が掲げられている。数mもの巨大なもので、大日如来を中心に多数の仏さんが描かれているのがよく解かる。もちろん複製です。本物は5年おきに公開されるそうです。2年前なので、次回は3年後の2020年の春と秋になる。


宝物館の東隣が、東寺北側の出入り口の北大門。南大門と比べると、規模も風格も格段に小さい。しかし重要文化財です。






 塔頭・観智院(かんちいん)  



北大門を出、川(堀?)に架かる石橋を渡る。すぐ右側に見える塀越しの屋根が、東寺の塔頭寺院・観智院(かんちいん)です。塔頭寺院であるが、別格本山となっている。
観智院は通常は公開されていないが、以下の期間に限り特別公開されている。
春期特別公開: 3月20日~5月25日
秋期特別公開: 9月20日~11月25日

拝観料は必要でが、私は五重塔初層・宝物館・観智院を含め全てを拝観できる共通券(1300円)を利用したので、観智院だけという料金はよくわからない。

客殿(国宝)と庭園(観智院受付で頂いたパンフの写真)。客殿(国宝)は慶長10年(1605)建立で、入母屋造、銅板葺き。桃山時代の典型的な書院造りの建造物として国宝に指定されています。
客殿の上段の間の床の間には、宮本武蔵筆の「鷲の図」と「竹林の図」が描かれています。
剣豪・宮本武蔵は21歳で一乗寺下(さが)り松の決闘において吉岡一門を倒した後、その仕返しを避けるために、吉岡一門が手を出せない東寺の塔頭であるこの観智院に約3年間隠れ住んだ。「鷲の図」「竹林の図」は、その時に宮本武蔵が描いたものと伝えられています。

客殿前の枯山水様式の庭園は「五大の庭」と呼ばれ、五大虚空蔵菩薩像を表す五つ石が配され、弘法大師空海が唐の長安から帰国した際の様子を表現しているといわれます。受付のパンフには「枯山水様式の庭は涅槃禄の庭と称し、白川砂利の広がりの中に隠岐島の赤松、杉苔、吉野石、守山石等を巧みに配し、真言密教の無限の宇宙観と涅槃寂静の境地を表している」と書かれている。

観智院の前の道、即ち北大門から北総門(重要文化財)までの真っ直ぐな参道は「櫛笥小路(くしげこうじ)」と呼ばれ、平安時代以来そのままの幅で残っている京都市内ただひとつの小路だそうです。この道の東側に観智院と、これも塔頭寺院の宝菩提院が並ぶ。西側は、宗門校の洛南高校と附属中学となっている。ちょうど土曜日の昼過ぎだったので、下校中の生徒さんが多かった。
なお、空海は日本最初の私立学校「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を造り、貴賎貧富の区別なく入学させたという。

 六孫王神社(ろくそんのう)  


1時15分、東寺の北総門を出ると東西に走る八条通りに突き当たる。八条通りを左へ歩き、壬生通りと交差する北西角に「六孫王神社(ろくそんのう)」があります。大きな石柱と看板が掲げられているのですぐ判ります。
看板に「清和源氏発祥の宮」と書かれているように、清和源氏の祖と仰がれる源経基を祀っている神社です。「六孫王」と名付けられたのは、経基が清和天皇の第六皇子貞純親王の子で、天皇の孫だったから。経基の死後、その子の源満仲が経基の屋敷に応和2年(962)社殿を建立し経基の霊を祀ったのが始まりとされる。
反り橋を渡り本殿へ向かいます。源満仲の子達は、畿内を中心に各地に分散し武士団を形成し武門として土着していった。平安時代中期の寛仁4年(1020)、源満仲の三男・頼信が河内国壺井(現在の大阪府羽曳野市と太子町の境界辺り)に本拠を置いた。これが河内源氏の始まりで、頼信-頼義-義家(八幡太郎義家)と三代に渡り武門の棟梁として活躍しました。

源義家の死後,河内源氏は衰退し,ついには平清盛に滅亡寸前まで追い詰められる。しかし義家の4代の孫である源頼朝と弟・義経らの活躍で起死回生し,ついには平家を滅ぼし、鎌倉幕府を開き日本の支配権をも朝廷から奪いました。鎌倉の鶴岡八幡宮は、河内源氏の氏神だった壺井の八幡宮を分祀したものです。
この河内源氏の系統からは、源頼朝・足利尊氏・新田義貞・木曾義仲・武田信玄・今川義元・明智光秀・徳川家康など名だたる名将が輩出している。
源氏といっても二十一の流派(嵯峨源氏、宇多源氏、文徳源氏など)があるといわれるが、平氏を倒し鎌倉幕府を開くなど歴史的に有名で最も力が強かったので、一般に”源氏”といえば清和源氏を指します。

 京都鉄道博物館  



六孫王神社をでてJRの高架線沿いに歩き、地下道を潜り梅小路公園の大宮南入口にたどり着く。

梅小路公園は、かって平清盛をはじめ平家一門の邸宅があった跡地に造られたという。この公園の下には、かって栄華をほこった平氏の遺構が盛土して保存されているそうです。
広い公園内には、森が繁りお花が咲き、チンチン電車が走り、河原遊びもできます。イベントの開催中らしく、芝生広場の先に見える京都水族館から時おり大歓声が聞こえてきます。子供とファミリーが一日楽しめる大空間になっている。そこに昨年春、日本最大の鉄道博物館がオープンしました。

細長い梅小路公園をつき抜け、ようやく京都鉄道博物館に着く。西日本旅客鉄道(JR西日本)が運営する面積・展示車両数で日本最大の鉄道博物館で、2016年4月29日にオープン。
営業時間 10:00~17:30(入館は17:00まで)、水曜休館
入館料は、一般:1200円、大高校生 1000円、中小学生 500円、幼児 200円

本館1階メインスペース。この博物館には蒸気機関車から新幹線まで、53両の車両が収蔵、展示されている。本館1階に入ると、新幹線などの車両が並び、いまにも走ってきそう・・・。そのスケールには圧倒されます。

2階から1階メインスペースを眺める。
館のテーマは「見る、さわる、体験する」で、ここには鉄道の歴史、仕組み、車両・構造の全てが凝縮されています。1階には、鉄道の歴史と変遷を紹介する「鉄道のあゆみ」コーナー、線路・踏切・信号などの設備やトンネル・橋などの施設、衝突を防ぐシステムなどを紹介する「鉄道の施設」コーナー、京都駅の引込み線につながり現役で運行している車両を見学できる「車両工場」コーナーがあります。

本館2階には、幅約30m・奥行約10mで、日本最大級を誇る鉄道ジオラマがある。実物車両の1/80の大きさの鉄道模型が走る。JRのみならず、近鉄、阪急などの関西私鉄の車両も走るそうです。
ここだけは見たかったのだが、タイムスケジュールがあり、また満員のため入れなかった。入れないため外から覗き撮り。
また2階には、在来線用が6台・新幹線用が2台の運転シミュレータが置かれ、運転士を体験できます。制服や帽子も借りれば最高!。人気があるのか、抽選によって整理券を配っていました。

2階の外へ出ると、扇形車庫が見下ろせます。現存する日本最古の鉄筋コンクリート造りの扇形車庫。20両の蒸気機関車が保存・展示されている。中央の運転台って動くんでしょうね?

2階にはセルフ形式のレストランがあります。高僧建物の無い京都では、2階でも周辺を遠くまで見渡せる。京都駅を出た新幹線を東寺五重塔が見送っている。


童心にかえって楽しむつもりだったが、そのスケールに圧倒され童心も吹っ飛んでしまった。ただただ館内をそぞろ歩きしただけでした。鉄道マニアならずとも、弁当持参で朝から来たくなるような施設です。
京都駅に向かって歩いていると、公園横を子供達を乗せた本物の蒸気機関車が走っている。これは「SLスチーム号」といい、京都鉄道博物館から京都駅手前まで往復約1kmの蒸気機関車の旅を楽しませてくれます。料金は300円(中学生以下は100円)


詳しくはホームページ
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