山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

世界遺産をめざす百舌鳥古墳群 (その 2)

2015年12月18日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2015年9月22日(火)、百舌鳥三陵を中心とした百舌鳥古墳群を周る。世界遺産にふさわしいか?

 ミサンザイ古墳(石津ケ丘(いしづがおか)古墳、履中天皇陵)  


大仙公園の南出口を出ると、車道を挟みミサンザイ古墳(履中天皇陵)が見えてきました。この車道沿いの公園内にも幾つか古墳が残されている。出口の左(東)側には「グワショウ坊古墳」「旗塚古墳」、右(西)側には「七観音古墳」です。

公園の南西端にあるのが七観音古墳。直径約25m、高さ約3.5mの円墳で、荒れていた古墳を保護するために盛り土をして整備されている。整備されすぎて古墳には見えない。すぐ南の履中天皇陵の陪冢と考えられている。堺市の調査により葺き石、埴輪のかけらなどが見つかっているが、周濠跡は確認されていない。

大仙公園内には、その他にもたくさんの小さな古墳が点在している。古墳標識が立てられているのですぐ判る。ほとんどが大仙陵古墳(仁徳天皇陵)の陪冢と考えられている。しかし原型をとどめているものは皆無。前方部は削られたり、濠を埋めたり、墳丘を整形したりと、公園化のために縮小・変形してしまっています。

車道を西へ進むと、ミサンザイ古墳西側に入り込む道が設けられている。すぐ近くまで住宅が迫っているが、古墳の堤に沿ってゆったりとした周遊路が整備され、快適に歩ける。堤側は鉄柵で塞がれ、濠越しに墳丘を眺める、というようなことはできない。鉄柵にすがって眺めると、なんか牢に閉じ込めれれている気分になる。
この辺り、ワンちゃんにとって快適な環境ですが、犬の散歩はどうなんでしょうか?
正面拝所は南側に設けられている。宮内庁により,百舌鳥耳原三陵の「履中天皇 百舌鳥耳原南陵(もずのみみはらのみなみのみささぎ)」として治定・管理されています。
第十七代履中天皇は、第16代仁徳天皇と磐之媛との間に生まれた第一皇子。弟に第十八代反正天皇、第十九代允恭天皇がいる。磐余(いわれ)の稚桜宮(わかざくらのみや,桜井市池之内)で即位したが、治世6年で亡くなり「百舌鳥耳原陵」に葬ったと、『日本書紀』は伝えている。

ところが出土した埴輪、陪塚の出土品などから5世紀前半頃の築造とされ、大仙陵古墳(仁徳天皇陵)より古いことがわかってきた。父よりも息子の墓のほうが古い・・・?。現在「百舌鳥耳原三陵」については諸説あり混乱しています。しかし宮内庁が立ち入り・調査を拒否している現状では、これ以上の解明は閉ざされている。いったい誰が眠っているのでしょうか・・・?

ミサンザイ古墳の西側や南側は民家が近くまで接近し取り囲んでいるので、墳丘全体を眺める場所が少ない。ところが東側へ廻ると堤の上が散策路になっており、幅広い周濠と墳丘全体を見渡すことができます。
この古墳もいろいろな呼び名をもつ。「ミサンザイ古墳」「石津ケ丘(いしづがおか)古墳」「上石津ミサンザイ古墳」「百舌鳥陵山古墳(もずみささぎやまこふん)」「履中天皇陵古墳」、混乱してきます。「ミサンザイ」とは「ミササギ(陵)」の転訛したものとか。
墳丘の全長約365m、後円部・・・直径約205m、高さ約27.6m、前方部・・・幅約235m、高さ約25.3m
百舌鳥古墳群では2番目、日本では3番目の大きさを誇る前方後円墳です。三段築成の墳丘で、前方部を南に向けている。現在は、一重の盾形の濠と堤だけだが、調査により幅10m程の二重目の周濠の跡が見つかっている。

 乳岡(ちのおか)古墳  


ミサンザイ古墳(履中天皇陵)の西方かなり離れた場所に乳岡(ちのおか)古墳がある。百舌鳥古墳群では一番最初に築造された古墳だ,ということなので訪ねてみることにした。ミサンザイ古墳から泉北1号線に沿って歩くこと30分。ようやく車道脇に緑の墳丘が見えてきた。正面になる前方部は車道とは真反対の裏側(南側)です。
南へ廻ると、古墳標識と説明版が置かれている。元の大きさは,三段築成のかなり大きな前方後円墳だったようです。百舌鳥古墳群では6番目の大きさになり,田出井山古墳(反正天皇陵)やいたすけ古墳より大きいことになります。前方部の大半が削られて、周濠も埋めたてられ住宅や工場などになってしまっている。
出土遺物から4世紀末頃から5世紀の初め頃に築造されたと考えられ、百舌鳥古墳群では最も古い古墳だそうです。現在、国指定史跡(1974年指定)になっており、フェンスで囲まれ中へは入れない。

 いたすけ古墳  


ミサンザイ古墳(履中天皇陵)から東へ、JR阪和線の踏み切りを越え住宅街の中を進むと「いたすけ古墳」が目に飛び込んでくる。

墳丘の全長約146m、後円部径約90m、高さ約12.2m、前方部幅約99m、高さ約11.1m、百舌鳥古墳群では八番目の大きさ。前方部を西に向けた三段築成の前方後円墳。一重の楯形周濠が巡っている。墳丘には埴輪と葺石のあることが確認され、その特徴から5世紀中頃から後半頃の築造と推測されている。
古墳の横腹にあたる南側は、堤上に遊歩道が設けられているので、真横から濠越に古墳の全体を眺めることができます。以前は「イタスケ古墳」とカタカナ表記されていたが、昭和31年(1956)国の史跡に指定された時「いたすけ古墳」というひらがな表記に統一されたそうです。
いたすけ古墳が注目され脚光を浴びたのは、全国的な保存運動からです。百舌鳥古墳群にはかって100基以上の古墳が存在していた。それが現在では半分以下になってしまっている。戦後、法の不備から古墳は民有地に払い下げられ、所有主が土建業者に売却し宅地開発などで壊され消滅してしまったからです(大塚山古墳、カトンボ山古墳、七観山古墳、平塚古墳など)。いたすけ古墳は残された唯一の貴重な古墳だった。

昭和30年(1955),当時私有地だったこの古墳に宅地開発の計画が持ち上がった。土建業者が住宅の壁土に利用するため墳丘の土砂採取をし,その跡地を住宅地にする計画です。工事車輌を墳丘に入れるための橋が周濠に架けられ、樹木が伐採され始めた。
市民・研究者を中心に”いたすけを守れ”との声が沸き起こり、全国的な保存運動に発展。保存のための募金活動も全国的に行われた。その結果工事は中止され,堺市が古墳と橋を開発会社より買い取り文化財として保存することになる。翌31年(1956)5月には国の史跡に指定された。

いたすけ古墳は古墳保存運動のシンボルとなり、出土した冑形埴輪は堺市の文化財保護のシンボルマークになっています。堺市博物館には、昭和30年(1955)時の保存運動の新聞記事が多数掲示され、当時いかに大きな社会問題だったかがうかがい知れる。現在でも南側の濠で、橋桁の一部を醜い姿でそのまま目にすることができます。シンボルとして残されているのでしょうか・・・。

 御廟山古墳(ごびょうやま)と林家住宅  


いたすけ古墳から東へ数分で御廟山古墳(ごびょうやま)につく。墳丘長さ約186m、後円部直径約113m、高さ18m、前方部幅約136m、三段築成の前方後円墳。百舌鳥古墳群で四番目の大きさ。現在盾形の濠と堤が巡っているが、外側にも二重濠があったことが確認されている。埴輪の特徴から、5世紀中頃の築造と考えられている。

江戸時代地元では、この古墳は東側に位置する応神天皇を祀る百舌鳥八幡宮の奥の院、即ち応神天皇の御廟と考えられていた。江戸時代の絵図には応神天皇陵と書かれているものもある。また神功皇后陵の伝承も残る。
現在、宮内庁は応神天皇の可能性を考慮して墳丘部分を「百舌鳥陵墓参考地」に指定し管理している。外濠は堺市の管理。陵墓参考地ながら、宮内庁が管理していて学術調査すら一切拒否しているため、主体部の構造や副葬品などは不明のまま。

御廟山古墳のすぐ東側に、江戸時代の大庄屋の屋敷「林家住宅」が保存され,国の重要文化財に指定されている。白漆喰の土塀で囲まれ,主屋・土蔵・不動堂・稲荷社がある。また切妻造の茅葺屋根と一段低い瓦葺の屋根が組み合わせられた「大和棟(やまとむね) 」と呼ばれる屋根形式に特徴があるそうです。
内部は公開されていない。近所のオバサンの話では、役所に申し込みある程度人数が揃ったら見せてくれるそうです。またタイミングよければ、団体さんに公開される時一緒に入れるそうです。

 百舌鳥八幡宮(もずはちまんぐう)  


御廟山古墳、林家住宅から、民家の密集する中をさらに東へ200mほど行けば百舌鳥八幡宮に出る。
境内はかなり広い。時間がなかったので周りきれず、本殿周辺を見ただけ。奥の本殿は三間社流造で、屋根は檜皮葺。本殿と拝殿との間に幣殿を設ける権現造。
社伝によれば、昔、神功皇后が三韓征伐を終えて難波に戻られたとき、この地に留まり、幾万年の後まで天下太平で人民を守ろうという御誓願を立てられたという。欽明天皇(在位532~571)の時代,八幡神の宣託をうけ神社を創建し応神天皇を祀ったのが創起とされている。
本殿右前には,幹囲り5.2m、樹高25m、樹齢 7~800年ともされるクスノキの名古木があり、大阪府指定の天然記念物に指定されている。

この日境内では、櫓が組まれ紅白の幔幕が張り巡らされ、秋祭りの準備中でした。尋ねると、今度の土日(9月26日~27日)に例祭が行われるそうです。見所は、氏子9町による大小16基の「ふとん太鼓」が勇壮に練り歩くこと。ふとん太鼓は、太鼓を仕込んだ台の上に朱色の座布団を五段重ねにした造りで、高さ約4m、重さ約3t。約70人で担ぎ、「ベーラベーラベラショッショイ」という独特のかけ声と太鼓の音に合わせ練り歩くそうです。
山車に布団とは・・・不思議な組み合わせです?。調べてみると、「堺まつり ふとん太鼓連合保存会」ホームページに
「堺では明治時代まではだんじりが一般であった。(ほかにも船地車が曳行されていた)しかし、明治29年の旧暦八月一日のことである堺市中之町西の紀州街道(地車が1台通れるほどの細い道であった)において、湊組の船地車と北の鍛治屋町地車が鉢合わせとなり、お互い道を譲らず争論となり、あげくの果てには周辺民家の瓦を剥がし瓦合戦になってしまい、湊組が突きかかり2名の殺傷者を出してしまった。 堺警察の警官が数十名駆けつけ双方の数十名を捕縛した。この事件は「堺の地車騒動」といわれている。この事件より祭礼には地車は一切曳行してはいけなくなった。後に日本は日露戦争に勝利しそれを祝し、翌年明治39年練物曳行は許可された。 その翌年に菅原神社の北開仲、北浜、並松町 船待神社の西湊が地車に代わり"ふとん太鼓"を新調しそれぞれの神社に奉納した。・・・ふとん太鼓の五枚の座布団は神様が座るところといわれている。」と書かれている。

上記の事件以降、堺では山車に布団を用い、今ではそれが名物になっている。堺より南の岸和田方面では、現在でもだんじりが使われています。一昨日の20日、岸和田のだんじり祭りを見てきました。勇壮なだんじりが町中を走り回る。時々ひっくり返ったり民家を壊したりすることはあるが、現在では統制が取られているのでぶつかることはない。あれが正面衝突したら死者もでることでしょう。今度の土日に見学に来る予定だったが、用事ができ叶わず。来年にはぜひ。

 ニサンザイ古墳(土師ニサンザイ古墳)  



百舌鳥八幡宮の石の大鳥居を出て、ニサンザイ古墳目指して南へ歩く。
墳丘全長は約290m、後円部の高さは約24.6m。百舌鳥古墳群では三番目,全国でも八番目の大きさを誇る三段築成の前方後円墳。かって二重目の周濠があったが,今は住宅地になってしまい、一重の盾形周濠だけとなっている。周濠の周りの堤上は周回路となっており、墳丘を眺めながら散策できます。出土した埴輪の特徴から5世紀後半の築造であり、百舌鳥古墳群では最も新しい大型前方後円墳。

”ニサンザイ”の語源は”ミサンザイ”同様に「陵」が語源と考えられている。江戸時代から「反正天皇陵」の伝承があり,反正天皇の真陵とみる見解もかなり多い。現反正天皇陵(田出井山古墳)よりは面積で4倍も大きい。そのためか宮内庁も反正天皇陵かもしれない、と想定し「東百舌鳥陵墓参考地(ひがしもずりょうぼさんこうち)」として治定、管理している。被葬者不明の陵墓参考地なのです。それなら考古学的な調査をすればよいのに・・・。どなたの「静安と尊厳」を保つためなのでしょうか?

今年(2015年)の夏,「百舌鳥古墳群の堀、真っ赤に染まる 浮草が大量繁殖か」の見出しの新聞記事を見た。ニサンザイ古墳の幅約50mの濠の北側一面が真っ赤に染まっているという。雑草が生えるのを抑制するために農業用に改良された浮草が、鳥の足について運ばれたりして入り込み、大量に繁殖したとみられている。墳墓だけに、血の流れに見え異様に感じられてしまいます。血の流れの間の青草には薄ピンク色の小さな花が咲き、対照的に綺麗だった。浮草の片付けをされていた作業員の方に尋ねると「こけいあおい」という花だそうです。

 筒井家屋敷と御廟表塚古墳  


帰るため南海・中百舌鳥駅へ向かって歩いていると、車道左手に青々と樹木の繁った屋敷が見えてくる。ここが筒井家屋敷と御廟表塚古墳がある場所です。横道に入っていくと突き当たりになる。突き当たり左に筒井家屋敷、右手に御廟表塚古墳が位置しています。

筒井家は戦国武将として名高い筒井順慶を祖先に持つ名家。江戸時代にはこの一帯を開墾した庄屋で,その名家の屋敷が残されている。現在は17代目の御当主がお住まいのようです。

説明板【百舌鳥のクス】によれば、幹周10.1m、樹高13m、推定樹齢800~1000年。大阪府下で一番古い樹木であるといわれています。府指定の天然記念物であるとともに、堺市指定の保存樹林でに指定されています。昭和25年の台風で大きな枝が折れるなど大きな被害をこうむったそうです。裏側に廻ると大きな空洞ができ痛々しいとか。

筒井家屋敷の傍にあるのが御廟表塚古墳(ごびょうおもてづか)。
もとは前方部を西に向けた二段築成の帆立貝形前方後円墳だったが、現在は前方部が削平され住宅地となってしまっているため円墳に見えます。墳丘の全長は約75m、後円部径約54m、、高さ約10mと推定されている。
周濠も後円部側の一部を残し埋め立てられ、失われている。円筒埴輪や朝顔形埴輪、家型埴輪などが出土し、それらから5世紀後半ころの築造と推定されています。平成26年(2014)、後円部及び北東隅に残された周濠の一部が国の史跡に指定された。

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