山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

神武天皇陵から今井町へ 2

2020年05月15日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2020年2月11日(火曜日)
古代から江戸時代にタイムスリップ!、国の重要文化財として保存されている江戸時代の古民家を見てまわります。

 今井町とは  



神武天皇陵、綏靖天皇陵から北へ10分ほど歩けば今井町だ。入口には観光案内所「今井まちなみ交流センター・華甍」がある。まずこの案内所から出発します。
戦国時代に、自衛上武力を養い、周囲に環濠土居を築き城塞都市として大きくなった今井町は、織田信長に屈してからは商業都市として発展した。堺同様に自治的特権が認められ自治都市だった。肥料商、木綿産業、酒造業、塩屋などで栄え、独自の紙幣「今井札」の発行が許可されると両替商が発展し大名貸しする豪商も現れた。「大和の金は今井に七分」、「海の堺 陸の今井」などと称され、海の商都・堺と比肩されるほどだった。

そうして江戸時代に栄えた今井町の町家や町並みが大切に保存され現存している。東西約600m、南北約310m、面積にして約17.4haの地区内には、全建物戸数約760戸のうち、約500件の伝統的建造物が存在しており、これは地区内の数としては日本一を誇ります。また、国の重要文化財9件、奈良県指定有形文化財3件、橿原市指定文化財5件の文化財が存在してる。平成5年には、国の「重要伝統的建造物群保存地区」の選定を受けた。
文化財となっている町屋には、現在でも住居として生活されている所もあり、内部が非公開のもの、事前予約が必要なものがあります。事前にネット、または「今井まちなみ交流センター・華甍」(TEL:0744-24-8719)などで調べて出かけるのがよい。

■■~今井町の歴史~■■

★★~環濠城塞都市~★★ 
高市郡今井庄は16世紀までは興福寺の寺領だった。戦国時代の天文年間(1532~55)一向宗本願寺の今井兵部が、布教のための一向宗道場(後に称念寺となる)を建設し、農民などを門徒化し、各地から商人、浪人等を集めて町割りを施し、周囲に濠をめぐらして寺内町を形成した。
この頃、天下統一を狙っていた織田信長と一向宗は敵対しており、各地で一向一揆が起こっていた。元亀元年(1570)9月、大阪石山本願寺は信長軍に対して攻撃を始める(石山合戦)。今井も本願寺に呼応して信長に反旗を翻した。濠を深くし土居を巡らせ、見通しを妨げる筋違いの道路などを築き環濠城塞都市への構えを整え、称念寺を中心として織田信長軍と対峙した。
★★~織田信長に降伏~★★
*(右の写真は「織田信長今井郷惣中宛赦免状」<称念寺蔵、複製品>、今井まちなみ交流センター・華甍の展示より)
天正3年(1575)、戦いに不利となった本願寺の顕如が信長に和睦を申し入れた。今井と交流の深かった堺の豪商・天王寺屋津田宗及が明智光秀に懇願し、今井に入り郷民を説得し信長に降伏することになった。郷民自ら濠を埋め、土居構えを崩し、武装を解いた。ここに寺内町としての今井は幕を閉じる。同年11月9日付けで、信長の赦免の朱印状が下付された。同年冬に信長は、今西家南側に本陣を構え、武装放棄を条件に「萬事大坂同前」として、今井町に大坂と同じように検断権(自治権)を認めた。他の一向宗寺内町とは異なる寛大な扱いだった。
★★~江戸時代~★★
信長に降伏したといえ、経済的特権は保証され、商工業も自由に営むことができた。
江戸時代に入っても、自治権をもつ自由商業都市として栄えた。堺と並び自治的特権が認められ、今西家、尾崎家、上田家の三人の惣年寄を頂点に町年寄・町代を置き、警察権・司法権・行政権が与えられた。肥料商、木綿産業、酒造業、塩屋などの株仲間もでき、大阪、堺とも交流が盛んに行われるようになる。寛永11年(1634)には独自の紙幣として銀札(今井札)発行を許され、両替商が発展し大名貸しする者も現れた。「大和の金は今井に七分」、「海の堺 陸の今井」などと称され、海の商都・堺と比肩するほどだった。経済的に豊かになった町民は、茶道・華道・能楽・俳諧・画・書道・三弦などの文化・文芸に従事し、大阪・堺・奈良などとの文化交流も盛ん行われた。延宝7年(1679)、4代将軍徳川家綱によって今井は天領に組み入れられる。この頃が今井の最盛期で、人口4400人、家数1082軒を数えた。この頃、金融業を営み大名貸しする者が多くなる。

そのような今井町の繁栄も、18世紀に入ると徐々に下降していきます。今井町の財力に対して重税が課されるようになり、町民困窮し、この頃から戸口減少し町内に空き地が目立ち始める。また諸大名や武士への貸金が無効となって大打撃を被り、富豪が消滅。栄華を誇った今井町は急速に衰退していくこととなります。
★★~近代以降~★★
明治以降、急速な近代化が進むなか、今井町はその波に乗らず、商業都市としての姿は失われていったものの昔ながらの町並みは残されていった。鉄道駅建設計画が一時持ち上がったが、市中取締役の任にあった今西逸郎らが反対し、これにより乱開発が阻止されことになった。時代に取り残されたような今井町だが、むしろこうして訪れた平穏さが、この町の保持に貢献したとも言えます。
★★~戦後~★★
戦後、民家建築が文化財として着目されるようになり、今井町でも昭和30年(1955)東京大学による町家調査が行われた。その結果、昭和32年(1957)に今西家が国の重要文化財に指定された。これを契機に町並み保存運動が動き出し、昭和47年(1972)には旧米谷家・高木家・音村家・中橋家・豊田家・上田家が国の重要文化財に指定される。平成5年(1993)12月、今井町が全国で37番目の国の「重要伝統的建造物郡保存地区」に選定された。さらに平成29年(2017)4月には日本遺産に認定されたのです。
現在、国の重要文化財9件12棟、奈良県指定有形文化財3件11棟、橿原市指定文化財5件6棟。平成14年(2002)には称念寺本堂が国の重要文化財に指定された。

 今井まちなみ交流センター「華甍(はないらか)」  



神武天皇陵から北へ進み、車の多い大通りを越えて進むと、左側に古風でモダンな建物が見えてくる。これが今井まちなみ交流センター「華甍(はないらか)」です。今井町の総合案内所となっており、ここで大まかな知識を得ておけば、この後町並みを見て歩く時に役立つ。
大正天皇御成婚の折に、神武天皇陵を参拝され御下賜金を頂いた。そのお金で明治36年(1903)に高市郡教育博物館として建設された建物。奈良県下では数少ない明治建築の一つという。県指定有形文化財

履物のまま上がれる。右へ行くと3室あり、今井町の歴史資料や図、書籍まどが展示されている。左に行くと突き当たりの部屋が展示室。今井町のジオラマ模型、民家のミニモデルが置かれている。また、町内の各施設を案内するパンフレットや、飲食店を紹介するチラシなども手に入る。
  ・休館日:月曜日(祝日の場合翌日)年末年始(12月25日~1月5日)
  ・開館時間 午前9時~午後5時まで(最終入館は4時30分まで)
  ・入館料:無料

 高木家住宅(昭和47年5月15日指定重要文化財)  



「華甍」から北へ歩くと、今井町の内部への最初の筋である南尊坊通りの入口で、南尊坊門跡がある。南尊坊門跡からさらに北へ100mほど行けば中尊坊門跡の場所で、中尊坊通りの入口です。まずこの筋から入り高木家へ向う。

中尊坊通りを100mほど入れば、右手に高木家がある。入口の案内板には「中尊坊通りの東端にあり、屋号を「大東の四条屋」といい、本家の酒造業を助け、後、醤油業も併せて営んでいました。主家は発達した二階建てで、19世紀初期頃の建設ですが、二階部分はやや遅れて整備されたようです。」とある。江戸時代末期(文政~天保頃)の建物で、国の重要文化財(1972年・昭和47年指定)。
事前の調査では、内部見学できるかどうかは不定期で、見学可能時には玄関に内部公開中の札を掲げます、ということだった。入口に「予約なしで見学できます」と張り紙され、戸口は開いていた。見学料は300円。先客がおられ家人のオバサンが案内されていたので、案内説明はお断りし、写真だけ撮ることに。

通りぬけの土間があり、やや小ぶりの「かまど」が置かれている。土間部分には二階部屋がなく、高い天井裏が丸見えになっているのが印象的でした。

座敷に上がって見学できます。違い棚のある床の間や箱階段があり、展示室となっている部屋では、矢立、ローソク入れ、こうがいなどの生活用具や火縄銃なども展示され、江戸時代の生活様式を窺うことができます。


 河合家住宅(昭和51年5月20日指定重要文化財)  


高木家住宅からすぐの所に国指定の重要文化財・河合家住宅があります(昭和51年5月20日指定)。重厚でしっかりとした二階建ての建物で、二階部分の白壁が印象的です。これは「白漆喰塗籠」で、また丸窓は「むしこ窓」と呼ばれている。また屋根の最上部に見える小さな屋根は「煙出し」。
16世紀末期頃、上品寺村(橿原市上品寺町)の上田家より分家し移住そてきたと伝えられ、「上品寺屋(じょうぼんじや)」の屋号で酒造業を営んできた。現在も造り酒屋を営業されており、玄関には杉玉が吊るされています。
入口は開いたままで、自由に入れる(無料、見学は1階のみ)。ただし午前9時30分~午後4時30分(但し、12時00分~1時00分は休み)の間だけ開放されている。入口を入るとすぐ右側には販売用のお酒が陳列されている。代表銘柄は縁起の良い「出世男」。


通り土間には「花嫁駕籠」が陳列されている。この駕籠は、昭和四年に祖母が当家に嫁いだ時に使用したものだそうです。
奥の土間にはかまどがあり、上を見上げれば「煙出し」の明かりが見える。

 中橋家住宅(昭和47年5月15日指定重要文化財)  



河合家の先で筋違い道となり、左に曲がってさらに角を曲がると、そこからは御堂筋と呼ばれ、今井町の西端まで直進している。

御堂筋の左側に立て札のある町家がある。立て札には
「豊太閤本陣跡 御茶屋敷
豊太閤吉野遊覧の時、本陣と定められ御茶屋と?せり。其後文禄四年に代官松村弥右衛門の陣屋となりし跡なり」と記されている。

御堂筋の中程北側に中橋家住宅がある。国の重要文化財(昭和47年(1972)指定)だが、内部は非公開。

 称念寺  



中橋家住宅から西へ歩くと、左側にお寺の門が現れる。自衛都市・今井町の起源となった称念寺だ。
今井庄は16世紀まで興福寺の荘園だったが、戦国時代の天文年間(1532~55)に一向宗本願寺の僧侶・今井兵部が布教のための道場を開く。これが称念寺の発祥です。農民などを門徒化し、ここを拠点に一向宗の布教を進め、さらに諸国の浪人や商人が集められた。町割りを施し周囲に環濠・土居をめぐらして、称念寺を中心に武装宗教都市「寺内町」が形成されたいった。称念寺は宗教活動だけでなく町政全般の拠点として今井町の発展に尽くしてきた。浄土真宗本願寺派。境内見学無料。

境内に入ると入母屋造本瓦葺の大きな屋根がみえます。江戸時代初期の建立で、国の重要文化財に指定(平成14年、2002年)されている本堂だ。現在、大修理中で外観の一部しか目にできない。脇にある寛永14年(1637)建立の鐘楼堂は完全に覆屋で囲われています。令和4年(2022)春に完了の予定。

これは客殿でしょうか。門前には「明治天皇今井行在所」の大きな石柱が立てられている。「行在所(あんざいしょ)」とは、天皇が外出した時の仮の御所をさす。明治10年(1877)2月10日~11日、明治天皇が畝傍御陵行幸の際に投宿された所です。この投宿中に、西南戦争勃発の知らせを受けたという。

 南町生活広場(旧南口門)から環濠跡へ  



称念寺の先で南向きの筋に入る。まもなく今井町の南端で、出口に門が見えます。これは「旧南口門」で、城塞都市今井町の周囲にあった九つの門の一つ。夜は4つの門のみを開け、外来者が町中にみだりに入ることを拒んでいたという。
古絵図その他資料を元に、切妻造り本瓦葺の一間薬医門として復元整備されたもの。周りには環濠や土居も復元され、全体が「南町生活広場」として憩いの場となっている。

南町生活広場から西側を見ると、水を貯えた環濠が復元されている。環濠の右側に見えるのは春日神社(旧常福寺)。旧常福寺の表門と観音堂は市指定文化財となっています。

環濠に沿って歩いていくと、環濠は今井町の西側に回りこんでいる。
かつて今井町は、周囲をぐるりと環濠と土居(土を盛った堤)によって囲まれた寺内町だった。排水や消化水としての利用など水利機能もあったが、主な目的は外敵の侵攻を防ぐ防御・自衛的機能だった。城郭のお堀のような役目です。濠は幅が5メートルから7メートル、深さは2メートルほどもあったという。こうした防衛機能があったため、長年にわたり自治都市として存続しえたものと思われます。
写真では分かりづらいが、右上部の春日神社の外側にも細い濠があり、二重の環濠が復元されている。

北側から南方を撮ったもの。左上の樹木の下に細い濠があります。この辺りは、昭和50年(1975)からの発掘調査を終え、調査結果をふまえ環濠と土居を復元し「今井西環濠広場」として整備された。

春日神社側の土居。ここに「伝 織田信長公本陣跡」の木札が立つ。
天正3年(1575)、今井町は信長に降伏し武装解除された。Wikipediaに「同年冬に信長は、今西家南側に本陣を構え、武装放棄を条件に「萬事大坂同前」として、この町に大坂と同じように検断権(自治権)を認めた。それ以降、今西家の土間をお白州に見立ててお裁きが行われた。その折に信長は褒美として様々な物品を下賜し、今西家を眺め「やつむね」と唱えて本陣を後にしたことが旧今井町役場の資料に残っている」とあります。

 今西家住宅(昭和32年6月18日指定重要文化財)  


今井児童公園の北側から東側にかけて国の重要文化財(昭和32年指定)となっている今西家住宅がある。この辺りにはかって「西口門」があり、今井町の西の要塞だった。西側から見ると、入母屋造りの屋根を複雑に組み合わせ、まるで城郭のような構えにしている。こうした複雑な屋根構えは神社などで「八ツ棟造り」と呼ばれている(八坂神社、北野天満宮など)。織田信長は、この今西家を眺め「やつむね」と唱えて本陣を後にしたという。現在の建物は慶安3年(1650)に建て替えられたものですが、今井町では最古の建物だそうです。戦国時代の構造様式を残す建造物で、日本建築史上貴重な建物の1つとして国の重要文化財に(昭和32年(1957)6月18日指定)。
今西家住宅の入口のある北側は本町筋だが、写真のように住宅が道路側に出っ張り、本町筋の道路は見通しが遮られている。これも防御のため。二階の白壁に、川の字を井桁枠で囲んだ定紋が見える。これは、今西家の先祖が「川井」氏を名乗っていたことによる。

この写真は東側の角。こちらには菱形を三段に重ねた紋があるが、これは今西家の旗印だそうです。縦格子の窓は本町筋を真っ直ぐ見通す位置にあり、見張り用の窓となっている。

豪族十市(といち)氏が筒井順慶に攻められ落城すると、永禄9(1566年)2月、十市氏一族だった河合権兵衛尉清長は十市衆の一族郎党を引き連れて今井に移住してきた。町の防御を固め織田信長と対峙したが、天正3年(1575)に負け、武装解除された。しかし今井町は信長から赦免され自治権を認められ、裁判権も与えられた。河合清長(注:見学時に頂いたパンフレットには「川井」となっている)の三代後、大坂夏の陣の際に功をなし、元和7年(1621)郡山城主松平忠明にすすめられ、今井町の西口にあることから「今西家」に改姓した。今西家は町の惣年寄の筆頭を務め、裁判権を持ち治安や行政に大きな力を持っていた。

今西家住宅の内部を見学するには、10時~16時の間に十市県主今西家保存会[0744-25-3388]に電話し予約する必要がある。
見学料金:大人500円・中学生以下250円・団体(10名以上)400円
見学時間: 午前10時00分~午後5時00分(12時~13時は閉館、最終入館は午後4時30分)
休館日:毎週月曜日(祝日の場合次の平日)
昼前に電話をし、1時半ごろ訪ねるという予約を入れる。1時半過ぎ、入口横のインターホンを押し来訪を告げる。中では、今西家保存会の方でしょうか(それとも家人?)、説明してくださいます。

内に入ると広い土間があり、東側は二列六間の座敷部屋となっている。この土間を白州に見立て裁きが行われていた。右の段上の広敷に調べを行う主人が座り、左の土間に罪人が座らされたという。広敷の板戸には松竹梅の絵が描かれている。黒ずみハッキリしないが、近づきよく見ると確かに竹や松の文様が見て取れます。白壁の二階部分の両端に扉がある。左が男を入れる仕置き部屋。右が女用。これは「いぶし牢」と呼ばれ、下からかまどの煙を流し込み蒸すようになっていた、と説明された。土間の左に板戸があるが、その奥に牢屋もあったが、昭和2年の北丹後地震で倒壊し無くなったそうです。

 紙半豊田記念館   


今西家南側の御堂筋に入ると「紙半豊田記念館」があります。入口にある大きな青々とした樹木が目印です。これは橿原市景観重要樹木に指定されている「カイヅカイブキ(貝塚いぶき)」で、樹高11.5m、幹周り2.2m、樹齢250年以上だそうです。
ここは大和綿などを商い、両替商としても財をなした豊田本家の歴代当主が収集、愛用した4000余点の展示品を収蔵する資料館です。平成24年に、現在の12代当主によって設立された。
開館時間:10時半~16時半(入館は16時まで)
入館料:大人300円、高校生150円、中学生以下と身障者は無料

記念館は扉が開いたままで、内部では係りの人が先客を案内中だった。300円の見学料を払い、案内に同伴させてもらう。記念館内部は一室だけで、それほど広くないが、びっしりと展示されている。内部撮影は1枚だけ許される。あまりパチパチ撮らないでくださいとのことでした。
案内のおばさんが丁寧に詳しく解説して下さる。ケースに入っていないものは手で触ってもよい。案内の途中だが、向いにある豊田家住宅の方へ向う。
(実は、紙半豊田記念館の向かいにある豊田家を今井町の案内などにある重要文化財の豊田家住宅と錯覚していた。重要文化財のほうは、ここから東へ50mほどの所にある。)
これは豊田本家住宅で、門標には「本豊田」となっている。主は代々「紙屋半三郎」を襲名し、「紙半(かみはん)」の屋号で知られた(ただし、紙は取り扱ったことはないそうです)。江戸時代中期から後期にかけ、肥料、綿、油、木綿を生業とし財を成し、六代目は両替商を営み大名貸しで豪商の基盤を築いたという。現在は12代目が継承しているそうです。

おばさんは記念館で説明中なので、300円払っていることだし勝手に中へ入る。写真を撮っていいのかどうか分からないが撮りまくる。こちらは第二展示館となっているようで、座敷には所狭しと江戸時代の生活用品が展示されている。

 豊田家住宅(旧牧村家)(昭和47年5月15日指定重要文化財)  


重要文化財指定の豊田家住宅は、本豊田家から東へ50mくらいの場所にあったのだが、本豊田家と混同したため訪れていない。そこで、今井まちなみ交流センター「華甍」に展示されていた復原模型を紹介します。

「国の重要文化財。屋号を「紙八」といい、江戸末期から明治初年にこの家に移り住んだ。元々は材木商で金融業を営む豪商牧村家の所有で「西の木屋」と呼ばれた。福井藩藩主松平春嶽に貸し付けを行い藩の蔵元を務め、高取藩に融資し重臣の待遇まで受けていた。しかし、明治維新後の廃藩置県によって大名貸の貸付金が凍結し、債権が放棄され今井町を離れざるを得なかった。住宅は1662年(寛文2年)の建築で今井町では、今西家に次いで古い。事前予約必要。1972年(昭和47年)5月15日重文指定。」(Wikipediaより)。
裏庭に今井宗久ゆかりの茶室が昭和10(1935)年頃まであったが、現在は堺市の大仙公園内に茶室「黄梅庵」という名で移築されている。

明治になってから豊田本家「紙半」から分家し、牧村家住宅を買い取り住むようになったということでしょうか?。また屋号「紙八」ということは、豊田本家の八代目?。豊田家住宅というより「旧牧村家住宅」といったほうが相応しいのではないでしょうか。。
ボランティアガイド同伴時のみ見学可能(ボランティアガイドについては、橿原市観光協会0744-20-1123に、見学希望日の3日前までに申し込んでください)。入館料は一人300円。

 上田家・音村家  



次は上田家住宅へ向います。本町筋の真ん中を少し過ぎたあたりを北へ入り、中町筋を越えて行くと突き当りです。その角に上田家がある。内部見学には事前に電話予約が必要(TEL:0744-23-5457 一般200円)。ここは見学しないことにした。
(Wikipediaより)「国の重要文化財。 屋号を「壺屋」といい、先祖は、葛下郡片岡城主・片岡新助藤原春利で片岡城落城後、上田新七郎之長が1571年(元亀2年)当地に移住した。1679年(延宝7年)より今西家・尾崎家と並び惣年寄を務めていた。当家には、惣年寄の旗が残っている。1744年(延享元年)の祈祷札がありこの頃の建築とみられる。入母屋造りで、大壁造の妻をみせた外観は重厚な感じを与え、入口が西に構えているのは珍しい。事前予約必要。1972年(昭和47年)5月15日重文指定。」

中町筋に戻り、東へ行くと音村家住宅がある。インターフォンを押すが応答が無かった。表の板戸には「山崎音楽教室」の札が架かっている。見学時間:午前10時00分~午後5時00分、見学料:300円
中町筋北側に面し、切妻造、本瓦葺、平入りで、正面のみ「つし2階」となっている。昭和47年(1972)5月15日国の重要文化財に指定される。

内部が見れないので、今井まちなみ交流センター「華甍」に展示されていた復元模型を紹介します。



 旧米谷家住宅(昭和47年5月15日指定重要文化財)  



音村家住宅のすぐ東側が旧米谷家(こめたにけ)住宅です。入口は開いたままで、自由に出入りできるようです。数人の人が見学中で、おばさんが説明されている。現在,国有(文化庁所有)になっており無料で一般公開している。1972年(昭和47年)5月15日重要文化財指定。
見学時間:午前9時~午後5時(但し12時~1時は閉館)
休館日:月曜日、年末年始(12月25日~1月5日)
中町筋北側に面し、切妻造、本瓦葺き、正面は格子と板戸で構成され、平入りで立ちの低い典型的な江戸中期の町家です。

土間からみた部屋。今井町の大型町家では二列六室からなるのが一般的だが、旧米谷家は二列五室構成で珍しいという。
火鉢のある中央が「中の間(オウエ)」で、居住部分の中心的な部屋で接客用や家族の居間として使用されていた。その奥が「納戸(ナンド)」で、寝室として使われていた。
右側が「ブツマ・ダイドコロ」で、家族が食事する台所と仏壇を安置する仏間とが一つの部屋になっている。
左の床を一段低くした板張りの間は「店(ミセ)」で、商品の展示販売や製作・加工をした部屋です。正面道路側を開放して商売をしていた。その奥が「店奥(ミセオク)」で、店の間の補助的な役割をしていた部屋です。

玄関を入ると通り土間となっている。中央にカマドが置かれ、カマドの奥から上にかけて壁が設けられ、居住部分へ煙を流れにくくした「煙返し」と呼ばれる仕組みとなっている。土間の上の天井は竹で編んだスノコになっている。これも煙対策でしょうか?。







土間の上の一部には「ツシ二階」と呼ばれる二階部屋があり、梯子がかけられている。奉公人の部屋として使われ、取り外しのできる梯子は脱走防止のためだとか。

土間を抜けて裏庭へ出ると、数寄屋風の家が建っている。内を覗くと頑丈な格子扉が見えるので、これは座敷牢かと思った。係りの人の説明では、これは蔵の扉で、主人が長火鉢に座り蔵への出入りを監視していたそうです。長火鉢の前には「蔵前座敷」と表示されていた。外でよく見ると白壁の土蔵がくっついていました。嘉永2年(1849)の増築だそうです。

 順明寺・北環濠小公園  



今井町で一番北側の北尊坊通りを西へ向って歩くと順明寺表門に突き当たる。浄土真宗本願寺派の寺院で、寛永3年(1626)に当地へ移って来た。本堂は戦後に改築されているが、表門は寛永期に建てられたもので市指定文化財となっています。
明治24年(1891)11月に英照皇太后が畝傍御陵参拝の際に宿泊し御座所になったお寺です。英照皇太后(1833-1897)とは孝明天皇の皇后で、明治天皇の嫡母にあたる方です。

順明寺の北東隅に「北環濠小公園」という小さな広場がある。
平成12年、小公園を整備するに先立ち発掘調査が行われ、土居や環濠、北口門とみられる柱の詰石、袖塀の遺構が発見された。北口門は柱間約11尺(約3.3m)の薬医門の形式で袖塀が付いていた。これらの遺構を再現し、小公園として整備された。公園内には、非常災害用にそなえ40tの防火水槽を埋設し、井戸(手押しポンプ)、ベンチ(炊き出し用のカマド)、簡易便所が設置されている。

順明寺表門の斜め南に「旧北町生活広場」があります。今井町には、北町・西町・南町・中町の四ケ所の生活広場がある。町家を利用したもので、普段は生活広場として近隣住民の憩いの場として使われているが、観光客には休憩所としても開放されています。
今井町はほとんどが木造の建物なので火災に対しては特に注意が必要です。そのため各生活広場には40t~80tの耐震性防火水槽が埋設され、また災害時には救援などの拠点としての役割も担っている。

 旧上田家(丸田家住宅)・山尾家住宅(今井まち衆博物館新堂屋)  



北尊坊通りの西よりに旧上田家住宅(丸田家住宅)がある。案内板には「吉村家」となっている。今井町の案内パンフなどには(丸田家住宅)となっているので、その後また所有者が変わったのでしょうか。
主屋、隠居部屋、内蔵、倉庫、作業場の5棟が奈良県指定有形文化財となっている。内部は非公開です。

北尊坊通りを東へ歩くと山尾家住宅です。主屋、座敷、内蔵、隠居所、東蔵の5棟が奈良県指定有形文化財です。
幕末には「新堂屋」の屋号で両替商も営み「今井しんどやは大金持ちや 金の虫干し玄関までも」とまで言われたという。明治10年(1877)2月10日~11日、明治天皇の畝傍御陵行幸の際、随行した木戸孝允、三条実美が投宿された。なお、明治天皇は称念寺に宿泊されている。
見学:事前に電話予約をしてください(0744-23-9478 今井まち衆博物館新堂屋 拝館料400円)
電話を入れたら「この時期は公開していません」でした。

 今井蘇武橋公園  



北尊坊通りの東端です。飛鳥川に架かる蘇武橋の紅い欄干が見えます。手前の大樹は榎(えのき)で、樹齢420年、樹高15m、幹周り約5m。「橿原市景観重要樹木第一号」に指定され、今井町のランドマークとなっているそうです。

榎の大樹とは車道を挟んで反対側の一段低くなった所に「蘇武之井」がある。
かって聖徳太子は愛馬「甲斐の黒駒」を伴って、法隆寺のある斑鳩から筋違道(太子道)を通って橘の宮に通っていた。その途中にある蘇武井で休憩され、水を飲まれたとも、また愛馬に水を飲ませたとも伝えられている。

蘇武井の南一帯は「今井蘇武橋公園」として整備されている。今井町の東端で、蘇武橋の先にはJRと近鉄の駅があり、今井町観光の入口にあたる場所です。トイレ、ベンチがあり、ここで一服するのに丁度良い。コンビニが無いのが残念・・・
私は南の神武天皇陵から来て今井町に入ったので、ここが出口になります。蘇武橋を渡り近鉄・八木西口駅から阿部野橋へ帰ります。


詳しくはホームページ
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