京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

日向大神宮〜京都のお伊勢さん〜

2018年06月17日 11時06分48秒 | 日記
今日、6月16日は日向大神宮を訪れました。地下鉄東西線蹴上駅で下車し、三条通を下ルと左手に鳥居が見えてきます。ここから登りの参道が続きます。





やがて大神宮橋があり右手にはいわゆる蹴上舟溜りがあり琵琶湖第一疎水と第二疏水の合流地点です。煉瓦造りの建築物は旧御所水道ポンプ場で今は使われていませんがかってはここから御所に防火用の疎水の水が引かれていました。





また、近くには東本願寺に疎水の水を送る本願寺水道があります。こちらも現在では使われていません。





やがてニノ鳥居があり手前には手水舎があり手と口を清めます。

三ノ鳥居は神明造りで一礼して境内に、、真ん中は神様が通られるところなので端を通ります。

正面には内宮があり造りは伊勢神宮の内宮と同じだそうです。続いて奥にある外宮と参拝します。









外宮の左の山道を少し登ると天の岩戸があります。



次に昨年、大雪で行けなかった伊勢神宮遥拝所に向かいます。だいたい10分くらいの山道でしたが結果キツかったです。こちらの鳥居の方向に伊勢神宮があり、遠くお伊勢さんに国の繁栄と安寧、平和、そして自分の健康を祈りました。(伊勢神宮は国家の繁栄、安寧、平和、皇統の維持の神様で個人的お願いは基本的にダメだそうです。)でも、自分の弱いところを少しでも良くなるように祈らずにはいられませんね!




ここからの景色がまた絶景です。平安神宮の大鳥居、西には遠く愛宕山が良くみえます。



まだ時間があったので最近、南禅寺参道に出来たブルーボトルコーヒーに寄り、コールドブリューとチョコチップクッキーを頂いてしばし一服。お気に入りの無鄰菴に寄り、帰宅しました。





無鄰菴講座「山縣有朋の庭園観を知り、琵琶湖疎水のホタルをめぐる夜」

2018年06月15日 21時44分53秒 | 日記
今日6月14日は無鄰菴講座「山縣有朋の庭園観を知り、琵琶湖疎水のホタルをめぐる夜」に参加しました。そして今日は無鄰菴の施主、山縣有朋の誕生日だそうで存命なら180才ですねー!講師は植彌加藤造園社長 加藤友規さんです。京都造形芸術大学の教授もされています。





まずは1階の客間で約1時間の座学がありました。山縣有朋がどんな感性でこの庭を作庭したのかわかりやすく話されました。琵琶湖疎水が明治23年に竣工し、その後この土地を手に入れます。約950坪の三角形の地形を生かし、遠く東山を主山とし、琵琶湖疎水から引いた水がまるで東山から流れて来た如く三段の滝から庭園に流れ込むように、また東山が見える庭園の中心部には芝を張り、遣水が流れるように作庭されています。非常に解放的な庭園です。



京都の伝統的な枯山水や神仙思想などにとらわれる事なく彼の庭園感覚、美的感覚で作庭されてい
ます。その感性を具現化した七代目小川治兵衛の仕事も素晴らしく、この無鄰菴が彼のデビュー作となりその後、南禅寺別荘群の多くを手掛けました。明治の庭園のスタンダードとなりました。



座学を終え、今度は南禅寺から水路閣、疎水分線に沿って散策です。遠く西山に沈む夕日が美しかったです。しばらく歩くと蹴上の水力発電所につながる二本の大きな鉄管がみえます。また少し歩くとインクラインの復元の台車、舟がありすぐ横には阿有荘や大寧軒に疎水の水を供給する分水施設があります。その下の広場には琵琶湖疎水を計画した主任技師の田邊朔郎博士の像があり、近くには彼が自費で建立した慰霊碑があります。







この時期、例年だとホタルが見られるそうですが残念ながら一週間程遅かったようです。
最後はねじりまんぼのところで友規社長のお話があり解散となりました。




建仁寺塔頭両足院 半夏生の庭

2018年06月11日 20時38分39秒 | 日記
今日6月10日の午前中は建仁寺塔頭両足院を訪れました。ちょうどこの時期、庭園の池の周りの半夏生の葉が白くなりまるで白い花が咲いているようです。







毘沙門天堂の奥の受付で拝観料600円を治め本堂へ。庭園は下流の藪内家の作庭で池泉廻遊式庭園です。北側に茶室が二つありそのひとつは如庵のうつしで、茶室に向かうための飛石が打たれています。次に書院から眺めます。奥から眺めると額縁庭園になります。







半夏生はドクダミ科の植物でこの時期に開花するのですが花が小さくて昆虫類が集まらずに受粉がうまく出来ません。そこで花の近くの葉を白くして昆虫類を集め受粉させるようになったと考えられています。受粉が済むと葉は元の色に戻ります。





また、半夏生はその姿かたちから半化粧とも書くようです。



こちら両足院の毘沙門天堂のご本尊の毘沙門天は黒田長政の念持仏と伝わり長政が関ケ原の戦いの際に甲冑の中に忍ばせて戦い、見事、勝利したまさしく勝運の仏様です。以前、ご開帳の際に拝見しましたが小さくて全く見えませんでした。
それ以来、単眼鏡を持ち歩くようになりました。

三室戸寺 紫陽花苑ライトアップ

2018年06月11日 20時15分43秒 | 日記
今日6月10日の夜は宇治にある三室戸寺を訪ねました。ちょうど昨日の土曜から紫陽花苑のライトアップが行われておりいいタイミングでこれました。





19時の開門に来ましたが既に前倒しで多くの方々が入っておられ苑の入口には行列が出来ていました。途中まで一本の歩道しかなく、おまけに小雨が降っていた為に傘で苑路が塞がれいるのでスルーする事も出来なかったです。







やがて苑路が分かれる所から流れが良くなってきました。皆さん紫陽花のファーストショットを撮る為とか、インスタ映えするハートの紫陽花を探すので渋滞が起こっていたんですねー!







それにしても凄い数の紫陽花です。日本三大紫陽花苑のひとつなのも頷けます。1万株もあるのだそうです。








新撰組と鳥羽伏見の戦いの淀を歩く

2018年06月02日 21時01分47秒 | 日記
今日、5月26日は朝日カルチャーセンター主催の講座に参加しました。講師は霊山歴史館学芸課長の木村武仁さんです。

まず淀という地名は桂川、宇治川、木津川の三川や巨椋池の下流が合流して淀川になりますが水が上手く流れずに「よどむ」ことから付けられました。



淀城は過去に三つ存在します。
①中世淀城・・管領細川政元が築城
②淀古城・・豊臣秀吉が茶々のために細川氏の淀
城を改修
③淀城・・江戸時代の淀城。徳川秀忠が②の淀古城を廃城し、松平定綱に現在地(②の約500m南)に築城を命じ、山城国唯一の大名家の居城となり幕末には稲葉家の居城となりました。







写真は本丸、天守台の跡です。

淀藩12代藩主は稲葉正邦で先祖には家光の乳母だった春日局がいます。正邦は陸奥国二本松藩主 丹羽長富の七男として生まれ、後に稲葉家の養子になりました。正邦は佐幕派でのちに京都所司代になり京都守護職松平容保とともに尊攘派を取り締まり京都の治安にあたりました。
その後には老中に就任しています。

淀城の天守は当初、伏見城から移築される予定でしたが後水尾天皇の二条城行幸の為に二条城に移築された為に大和郡山城の天守が移築されました。





戊辰の役の鳥羽伏見の戦いで劣勢で南に逃げてきた幕府軍は淀城に入城を求めましたが淀藩留守家老の八太監物(はった けんもつ)は藩主の不在を理由に入城を断っています。
代々、稲葉家では藩政は城代家老の田辺家が行う慣習でまた、田辺家は穏健派だった為だったと思われます。

明治天皇御駐蹕址の石碑


光明寺跡東軍戦死者埋骨地跡




淀城への入城を拒否された旧幕府軍は淀の町に火を放ち八幡方面に敗走しました。新政府軍の戦死者は手厚く葬られましたが旧幕府軍の戦死者は賊軍として埋蔵は許されずに野ざらしになっていましたが淀の人々や寺は宗派を超えて供養し葬りました。淀は譜代大名の統治が長かった為に住人は徳川贔屓が多かった為と思われます。

淀藩校 明親館跡 淀城への入城を拒否された旧幕府軍の宿泊地・本陣跡


旧幕府軍の戦死者を弔った寺々。
大専寺 真宗大谷派




文相寺 真宗本願寺派


長円寺 浄土宗 旧幕府軍の野戦病院。門前に榎本武揚書の「戊辰之役東軍戦死者之碑」があります。過去に浄土宗寺院大公開で訪問した事があります。




東運寺 曹洞宗