産業資本主義を支えた素直というエトス
さて、議論を先に進めましょう。
1950年代から日本社会は、高度成長の時代へと入って行きました。この時代を、岩井克人の定義にしたがって、産業資本主義としての成功と考えたいと思います。簡単には、
ものづくり
です。ものづくり、それも、規格大量生産の時代をそれは意味するのです。もう少し経済学の用語を並べるならば、それは、重厚長大と呼ばれる商品の生産を意味していました。あるいは、規模の経済の時代といってもいいでしょう。それをすごく、砕いた言葉で表現するならば
安くて大量のものを生産する
というものでした。それは、農村からの出稼ぎを基本とする、安い労働力を基本とした工場労働の時代、と考えてよいでしょう。そこで、必要とされた道徳こそ、
団体の規律
と
素直
でした。決まった時間に、みんなが出勤する。そして、みんないっせいに、工場のラインに立つ。
「遅刻はしてはだめだよ」「皆勤賞をとるように頑張ろう」
「いやでも我慢して団体行動するんだよ。集団の和を乱しちゃだめだよ」
「クラス・学年」と「工場」そう、工場の発展!学校の名誉!みんな学校全体でがんばろう!
「課長のいうことを聞こう」「学校の先生のいうことを素直にきこう」「いみがわからなくても頑張って黒板の板書をノートしよう」
そうです。学校はこの時代の倫理をそのまま残して現在にいたっているのです。それは、端的に言うならばモノを作る倫理です。それは、生産労働の現場をあくまでイメージした労働なのです。
ダイエーの凋落
(中内功氏)
この素直と団体の規律を基本として成功した企業にダイエーがあります。ダイエーは、安くて大量のものを生産するという倫理で成功したのです。それは、安くて適度のものであれば大量に売れていったのです。それは、売る側のモラルと買う側のモラルが一致してもいたのでした。買うほうも安いものがいっぱい欲しかったのです。これが右肩上がりを支えたからくりだったのです。
東京本社で一括仕入れ、そして、全国一律安くて、いっぱいをコンセプトに売りまくったんです。
しかし!90年代のバブル崩壊以降、つまり、社会が豊かになり、ものがあふれ、もう大量のものを必要としなくなったとき、この
素直・団体規律
という生産のモラルは、消費とまったく合わなくなっていったのです。素直と団体の規律が生み出すものは消費を無視します。消費者は、基本、モノあまりで、モノはあるんです。ところが、
作ればいいんだろう?買うのは当たり前だろ?
という生産者の意識、をダイエーは捨てることができなかったのです。中内オーナーはついに会社のグリップを離さず、操縦し続けたのです。冷たくて、うまくないトンカツを安く提供する。しかし、時代は、パリパリの揚げたてのトンカツをお値段が多少高くても欲しがっていたのです。ダイエーは急激に売り上げを落としていったのです。
ところが、現在の学校の教員の意識は、この1990年代の失われた10年と呼ばれた時代の前にいます。
そうです。学校の先生には、生徒の興味という問いがまるでありません。いっしょうけんめい、自分が授業をやっている。欠勤もしていない。そうやって頑張って授業をすれば、聞かないのは、生徒が悪い、というのが、一般的な学校の教員の意識です。
生徒が聞く聞かないなどということには全く興味がない、一生懸命やればそれを受け入れてくれるものだと考え、受け入れない顧客(生徒を顧客とは考えていないでしょ?大体!)を無視する精神、安くていっぱい作ればいい、がんばればいい、というナルシズム的ガンバリズムこそ、現在の学校の先生を支えている精神なのです。
これが、一定の意味をもったことは繰り返すまでもありません。しかし、ダイエーは90年代真っ逆さまに転落していったのです。中内元オーナーは、社長の職を辞することなくこの路線をとり続けたのでした。
もう、安くていっぱいはいい!!モノはあるから!!
差異のたわむれ
天才浅田彰はこの流れを1980年代初頭、20代の頭脳で示しました。『構造と力』という難解な哲学書がそれです。
時代は、もはや大量生産の時代ではない。消費する側の、気まぐれ的な、たえず以前とは異なる、個別な趣味に応えること、これが経済の中心に躍り出てきたのです。浅田は、気まぐれこそが、気まぐれ的な差別化する欲求こそが、時代を作るという現実を描いて見せたのです。
それは、
素直の否定
です。わがままの肯定といってもいいかもしれませんね。わがままに、個別に欲求を多様に展開することこそが富を蓄積していくのだ、というコンセプトがそこに出現したのです。その個別をとらえること、これが、実は富を蓄積していくことになる。いかに個別をとらえるか?かんたんである。個別を奨励し、個別の欲求が外に刻みだされ易くすればいいのだ。そうした個別をとらえるためには企業規模が大きいことはかえって危険にすらなる。こうした現実を岩井克人は上にあげた著書の中で書いています。インターネットをはじめとするITツールはそうした個別をとらえるツールとして注目されています。小さい個別でも世界中に拡散したときにどうなりますか?巨大になるのです。こうした個別のグローバリズムをいかに制するか、世界はいまこの競争を展開しているのです。
素直
で従順は、社会の富をつくりません。ただ、単純にモノをつくっていては、ただただ価格競争に巻き込まれるだけです。すなおに言うことを聞く人間は、自分の興味がわかりません。おもしろい、ということがわからないのです。そして、社会として、複雑な価値を客観的に刻みだすことができないのです。個別にこたえる能力、個別の関心にこたえる能力、これがポスト産業資本主義の能力なのです。
ところが、素直は、個別性を発揮する能力を消し、抑圧します。個別性の意味もわからない。個別性の得体の知れなさもわからない。個別性というものを学ぶ契機も与えないのです。素直という抑圧、そうです、抑圧であるという現実が、それだけがいま学校を支配しています。生徒に選択させた時、彼らはどうするか?ダイエーと同じです。
逃げる
のです。生徒は、単位の修得だから相手にしているのです。こうして、受験勉強をしても、いえすればするほど、個別性をとらえる能力はどんどん喪失していくのです。
これが、日本経済の転落を基本のところで後押ししているのです。教室に充満する無気力、教室に充満する教員の相手にされていないという怨念、これが日本経済転落を教育部門が支えているからくりです。
素直
はもはや100万円代の給料しか保障しなくなるでしょう。こうして、それが教えている教員本人に照りかえってくるのです。
ジャック・デリダのディコンストラクションという概念は、意味深です。成功の物語が同時に崩壊の物語になる、こうした現象をデリダは脱構築と翻訳されるディコンストラクションと命名しました。
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やっぱり楽しくない。あるいは、わからない。
の、二つです。
自分がいかない理由は、起きれないからなんですけどね。
そこで、私が思うのは
学校にきても授業をうけない。あるいは、サボるというのは何故なのか?
を聞いて教師も理解するべきなんだと思います。
私は基本つまらない授業は履修してもいきません。
何故なら、その時間がもったいないからです。
その時間を読書、またはバイトにあてたほうが効率的だと思うからです。
やはり、誰の授業が楽しくて、わかりやすい。
そのことをしっかり情報として回す必要があると思います。
先生方には、辛いかも知れませんが
顧客の意見は取り入れる必要があると思います。