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野ブタ。をプロデュース ① 転校

2006-11-22 23:05:57 | 映画・演劇・ドラマ

いじめと消費社会

 『野ブタ。をプロデュース』(日本テレビ系列)というドラマが終わりました。最後はどうも無理やり終わらせた感じがしないではなかったのですが、なかなかよくできたドラマでした。もちろん、そんなことはあるわけないだろう、という設定ではあります。しかし、たとえば1980年代から1990年の初頭にかけて『3年B組金八先生』で扱ったいじめの角度ではありえない角度を提供しているのです。それは、ひとことでいうと何といっても消費社会をいじめの脱出口として描いたということだと思いますね。 ま、そのことは次回以降に重点的に書いてみたいと思いますが。

転校
 


ドラマは高校を舞台としています。野ブタといわれることになるいじめられっ子の女の子の転校から話ははじまるのです。そのときに、転校先の教室には、彰(写真左)と修二(写真右)というふたりの男子生徒がいるのです。彼らが野ブタをプロデュースしていくのです。
 もちろん、この二人の男の子は現実的には不在です。
「いるわけねえべさ」
「こんな二人がいたらなあ」
という非現実、欠如としての非現実としての二人なのです。だから、この二人は、二人とも最終回に消えていくのです。(そうそう、そういえば、もちろん、女の子がじつは、かわいい子だということも非現実です。だから、演出の腕のみせどころは、この三人が実は、実は外見がいいということをいかに視聴者に忘れさせるかなんですね。特に、だから野ブタにはとても不器用なものの言い方をさせ、笑えなくさせ、ちょとガニマタ風に歩かせ、うつむきに歩かせetcと努力はしてましたよね。)
 話をもどすと、いじめの解決はもちろん、転校すれば解決するわけではありません。必要条件を構成するかもしれませんが、十分条件とは必ずしもなりません。しかし、ドラマはまず、野ブタを転校させます。転校は〈忘却〉を意味するのです。いじめを、これまでの人間関係の忘却からはじめよう、これが物語りのはじまりなのです。そして、そこには、二人の男子生徒がいるのです。物語は、したがって、あまり野ブタの過去を回想しません。したとしても、大変幼児のころがショットショットで出るくらいなのです。つまり、私たち視聴者は野ブタの過去をほとんど知ることはないのです。これは、この作品が意図していることだと僕はみましたね。さらに、物語は野ブタにも、繰り返しこの〈忘却〉をせまるのです。そうです。いじめからの脱出とは忘却なのだ、ということです。過去を記憶しないこと、過去を忘れること、つまり、社会構造からすれば、忘れざるをえないようにすること、これが〈いじめ脱出〉なのです。
 毎日転校してたらどうでしょう。過去を記憶しようがないではないですか。毎日会う人が違うのですから、毎日会う人はいじめられている人の過去を知りようがありませんね。こういうリセットって大事なのです。なぜか、いじめられる人はそこから抜け出したら終わりと考えてませんかねえ。
「忘れろ、忘れろ。記憶からすたこら逃げろ」
これがいじめへのメッセージとしてこのドラマを特色付けます。だから、舞台は東京なのです。都会、ジプシー、こういうたえず他人としての状況からはじめる、そこへと立つ、いえ、立とうとする意志こそ、いじめからの脱出なのです。

野ブタ。をプロデュース ② いじめの掟
野ブタ。をプロデュース ③ 小さな政府
野ブタ。をプロデュース ④ 消費する他者へ 1
野ブタ。をプロデュース ④ 消費する他者へ 2
野ブタ。をプロデュース ⑤ ストリートへ 1
野ブタ。をプロデュース ⑤ ストリートへ 2




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