周囲の見殺し
私はカウンセリングや精神病理については、専門ではありませんので、大したことはいえませんが、思春期の高校生と25年も対面してきますと、何らかの法則に直面します。
一見、高校生が自らを傷つける行為をします。勉強をしない、ぐらいならまだよいのですが、登校拒否する。登校拒否ぐらいならいいのですが、眉毛を剃り、目つきを悪くし、・・・・こうしたサイクルの結果、学校の教師から指導を受ける。タバコを吸い、夜、徘徊をし始める。やがて、学校を退学するように勧告を受ける・・・・
もちろん、学校から離れてゆくタイプは色々ですよ。登校拒否という方向から引きこもるタイプもあるし、アルバイトという形式に方向を見いだすタイプもあるでしょう。
ただ一点だけどのケースにも言えることは、当たり前ですが、学校が吸引力を喪失するということです。意味を喪失し、当人にとって学校へ行くということがたんなる抵抗物になっていくのです。そのときに、直面するのが
「学校へ行くことはいいことなのだ」
という道徳なんです。
「高校ぐらいは出ておいた方がいい」
とか
「高卒は最低限」
ということは、実際的な意味はともかくあるもんです。それが、大きな障害となるわけです。多分、生徒たちが私たち成人や保護者、教員などから見て
逸脱行動
に出るのは、この問題に対する回答がないからなんです。
親も教員も回答をもっていないのです。そして、何より彼らがないのです。それはね、私たちにとっていえば、
「お前ら、学歴にも頼らず、さりとて、何をしたらよいかわからないという人生を生きたことがあるのか?」
という問いと同じなんです。
私はどうか、といえば、毎日、授業の準備をし、総合学習の準備をし、・・・全部学校を前提にしています。大検あらため高校卒業程度認定試験についてさえ、ロクな認識はありません。そういうことが身体表現のレベルからはじまって生徒の前に立つと、出て来ちゃうんです。
私は学校不適応の生徒に対して、正直、見殺しにしているな、って思っています。毎日学校へ来て、授業を受けている生徒を前提にしているのです。そこが大半の私の関心事なのです。それが、まず、学校不適応の生徒には毎日、映るんです。
周囲の無力
ここで、まず確認したいのは、私たち生徒以外の人間たちには、この学校不適応の生徒たちに対して、まず、彼らの直面している事態を受けとめる力がないという現実なんです。だから、下手に相談相手になっても彼らの納得行く回答が与えられないのです。
「ほっといてくれ」
っていわれるのがオチになるんです。私たちはどうも、その自分の無力を認めることが多分できないのです。その能力がないのに。もちろん、大概の私たちの対応としては、圧倒的に
無関心
が占めるのです。学校の教員は基本的には無関心たらざるを得ないんです。だって、その能力がないから。フロイトがいう〈無意識〉〈抑圧〉の対象なんです。で、その事態を、攻撃の対象とするとなると、
「あいつはダメになった」
なんていうのはともかく、
当人が聞き入れない説教を垂れる、あげくにいうことを聞かなければ、体罰したりするわけです。体罰して、いうことをきかなければ、
「学校を辞めろ」
となったりするんです。でも、くりかえしますが、圧倒的には、この回答のない問題に対しては、無関心しかないんです。
しかし、親業は、ここで終わるわけにはいかない。むしろ、ここからはじまりなんです。学校の先生は、叱るという逃げ道を打ちます。無関心という逃げをうちます。これは、逃げ道です。だって
「本当に説得力ある叱責なら、叱責して、更正するでしょ?」
私は、体罰ふるっても、嫌みをいっても、人権侵害めいたことをしてもいい、最後更正するなり、学校適応するようになるなら、何やってもいいと思うのです(笑)。しかし、どうみても周りの同僚を見ていて、そうではない。計算もしていない。ただただ、自分の保身でしかない。面倒な物を切り捨てる口実、自分の無能を糊塗する、そこで
「あいつはダメだ」
「しかたないね」
という逃げを打つのです。で、ここで、親までもが泣いたり、叫んだり、私はどうしたらいいか解らないとか、ひるみはじめるわけです。自分が被害者だといって。
ただただ必然を見つめる
私たちは、そうそう人間は強い生き物ではない、ということを、肝心なところで見落とすんです。生徒が抱えている問題は途方もない問題なのだ、と。そこを見落とすのです。途方もない問題を前にして気張らしをしたくなる気持ちを理解しないんです。途方もない問題を前にして逃げを打つ気持ちを理解できないのです。そこに、答えはありません。
生徒が学校不適応になったとき、その状況を、正確に見つめるとき、
「学校へ行けない」
という事態が
必然
となって私たちに映じます。私たちは、その必然を見つめる以外にないのです。残念ながらその結果、多く
「私には何もできない」
という結果に落ちていきます。もちろん、私とて、授業で、君が出やすいように懸命に準備し、そのための職場環境をよくしようと努力している。しかし、それは、ほとんど君には届かないだろう。そのなかで、できるかぎりのことをしていることはやがて、書きます。しかし、いざ去ろうとしている生徒に、全く学校へ足を向けなくなってしまった生徒に対して、そう告白するしかないのです。それが必然というものの恐ろしい力です。しかし、私たちは最後までその必然を見つめるより他はないのです。
「で、その次はどうなるのですか?」
聞くな!てめえで考えろ!答えなどない!この地獄をじっと見つめる以外にないのだ!そして、この必然を見つめる姿勢だけが、生徒に受け容れられ、次がでてくる。答えはない。しかし、答えはそこにある、そこにしかない。この矛盾を解くしかない。
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何をしたいのか?どうしたいのか?悩んでいるという。けど夜出歩き、昼間起こすまで寝ている子をみると何?君は何者?といいたくなります。高校卒業の資格はとりたいといいながら勉強はしたくない。何考えてる?これって親のせいですか?逃げるつもりも、投げだすつもりもありませんが、ただただどうしたらいいかわかりません。自分で気づくまでまつしかないんでしょうか?気づく時がくるんでしょうか?だれに聞いても何を読んでも答えがみつかりません。
■答えになっていないと思いながら。現在、私は「倫理」の授業で不良という問題を考えています。学校から関心が離れていった高校生を描いています。私は親という立場で、この問いを考えることはできません。それは、本当に孤独な親としてお考えいただくよりありません。■しかし、エントリイの本文でも書きましたが、彼らが背負っている問いは容易な問題ではありません。学校から関心が離れた生徒たちが学校に関心をつなぐことは容易なことではありません。多くの彼らは、この問いを一度は背負いながら、そのあまりの加重さに敗退していっているのが、現状です。■しかし、気がつくときは来ます。それは、どういう形かは、予測できません。しかし、必ずきます。その時に、私は、親が自立して生きているかどうか、が、絶対的な条件になるように思えるのです。■私たちにも私たちの人生がある。君のために私たちは、ここまでできる。しかし、ここからは、君が君の人生を君自身のために生きろ!■そういう納得をどこまで私たちが青年期の子供たちに説得できるか、だと思いますね。それは、容易なことではないでしょうね。しかし、親が子供から自立する姿勢がどこまでとれるか、その説得がどこまでできるか、どこまでしてきたか?■少なくとも、私は大学の時に、親に対して、もう、面倒はかけられないと自身に脅迫しました。ここじゃないか、と思いますが、いかがでしょうか。