高校公民Blog

高校の公民科(現代社会・政治経済・倫理)教育に関連したBlogです

教材研究・2006秋

2006-10-15 13:57:13 | 授業・教科指導

9月から10月のはじめにかけてブログの書き込みができなかった。理由の最大の原因は補習である。今年、受験生が「倫理」で受験するというのだ。きっかけは、去年の私の「倫理」の授業がおもしろかった、どうせ受験科目にするのなら、量だけ多くて興味のわかない歴史科目でなく、「倫理」でということで選択したのだ。私には拒否する理由がないので、引き受けた。しかし、内心えらいことになったと思ったのだ。倫理はたしかに穴場科目である。センター試験を見ていれば分かるが科目の性格上、平易な問題以外になかなか出せない傾向にある。演繹を構成の基本とする関係上、物理や数学と同様記憶することはきわめて少ない。原理をきちんと理解すれば、たかだか60人程度の思想家の論理を理解すればいい。内容といい記憶するボキャといい、きわめて少ない。しかし、そのことと、西洋、東洋それぞれの思想を全面的に展開し、日本思想史も展開することとは話は別になる。つまり、話を展開することは途方もない勉強を講師に要求する。私はいつかこういう要求に直面するだろう、と思っていた。
 他方、授業で「倫理」をとっている諸君のニーズは全く違う。何もこの科目を資格獲得の道具にしようとは思っていない。そこで要請されるのは、授業の展開の興味や関心の深さである。「倫理」の難解な単語をただ羅列する説明ではほとんど授業の体をなさない。すべて授業する必要などない。むしろ、いかにして彼らが哲学や宗教を自身の事柄として受容するか、その仕掛けを彼らの興味の中心へとどう鋳なおすか、という作業なのだ。これは、ある意味で一つの思想をより授業者が深く理解し、まるで粘土でこねるように造形することになるのだ。
 私がざっと授業で展開する思想家を並べよう。ニーチェ(ユダヤ、キリスト教を込めて)、カント、青年心理学、キルケゴール、フロイト、ヘーゲル、サルトル、マルクス、儒教、ホッブズ、ロック、ルソー、これが現在私が展開し、生徒に興味関心を引けるという思想家の一覧だ。これはあくまで今年までの展開で使用した思想家だ。
 いまかんたんに名前を挙げたが、ことはそう簡単ではない。
たとえば後期から「倫理」があるが、私はニーチェから始めている。同時にキリスト教の基礎を伝えることができるのだが、じゃあ、ニーチェと軽く書いたがあなたはどう論じるか、それも生徒が興味を持って聞かなければ意味がないのだ。ニーチェを読むと簡単にいう。私はこのところ「道徳の系譜」を紹介の基本にしている。ここ数年、だから、「道徳の系譜」を読んでいる。傍らにドイツ語の原文を持ちながら、いつでも独文に当たれるようにして読むのだ。本当なら「ツァラトストラ」と「権力への意志」もあたりたい。しかし、この数年は「道徳の系譜」に絞っている。しかし、かんたんにこの本は理解を許すと思われるだろうか。読んだらすぐに何かが出て来るというものではない。そうかんたんにニーチェは語らない。何度も読むのだ。そこから生徒へのメッセージを引き出すのだ。ニーチェを通して一体心の底から何をメッセージとして語りたいのか。そこをひたすらニーチェの原文について見つめるのだ。もちろん、ニーチェについては永井均という鬼才がすばらしい解説文を書いている。しかし、私の感じでは竹田青嗣あたりのちくま新書ではニーチェの本当にスゴイメッセージが伝わってこないように見える。永井にしても、私が生徒との間に抱える問題に必ずしも寄り添っては来ない。そうなのだ。本当にききたければ直にニーチェの声を聞くしかないのだ。この天才が毒舌と共にかたるその語り口の中から、しかし、あるとき心を揺さぶるメッセージがわき上がってくる。それは、しかし、生徒と向かい合い、生徒と(べたべた接触するという意味でない)接触の中から彼らの深い深層を私たちがじかに感じ取らなければいけないのだ。
 ところが、補習が入ってきたのだ。補習は思想全域を網羅することを私に要求する。しばらく日本政治思想史から遠ざかっていた。私はあくまで自分の勉強としてしか位置づけていなかった。受験とはいえ生徒がナルホドというレベルへと変換するという思考で読んでいなかった。いわば大人向きで丸山眞男から日本政治思想史を学んだ。久しぶりにそれを紐解きなおした。しかし、時間はすさまじい勢いで過ぎて行く。キリスト教史ひとつとっても、私はアウグスティヌスとトマスアクィナスを軽視していた。いやいやキリスト教をどう展開するか。今回はニーチェとフロイトの立場から整理して伝えた。岸田秀という心理学者のそれも込めた。しかし、それとて、何も読まずには展開できない。いまいった読書もくわわるのだ。現在、ヘーゲルがわからなくなってしまった。どう展開すればいいのか。もう原文には当たっていられない。加藤尚武のものを急遽あたりはじめた。ルソーと時代背景はどういうかんけいにあるのか、それも補習の展開上よくわからなくなった。・・・・
 くわえて、「現代社会」の授業がある。くわえて、総合学習の準備がある。授業評価を雑誌にする。それも生徒の手で雑誌にする。外部を呼ばねばならない。大学教授、消費者センター、新聞社、予備校。いやいや大体雑誌の構成をどうするのか。すべてシナリオはない。くわえて公民の課題研究がある。数人だが、株式投資を研究したいと集まっている。前期は、ようやくメールとインターネットのくみあわせで私が、証券会社となって株式の売買をするというシステムを作った。大変だった。自転車操業である。評価はどうするんだ!
実は、この他に、土日は週末の特集番組の録画チェックがある。土曜から「ウェイクアッププラス」「ブロードキャスター」「サンデーモーニング」「サンデープロジェクト」他、さらに私は宮台真司と神保哲生のインターネット番組も購入している。現在私はカネがないので、新聞を取っていない。学校でも忙しくてチェックができていない。インターネットで代替させている。さらに、本当は毎日12チャンネルの・・・・・

【現在格闘している文献】
ニーチェ『道徳の系譜』
永井均『これがニーチェだ』
永井均『ルサンチマンの哲学』
柄谷行人『戦前の思想』
柄谷行人『日本精神分析』
柄谷行人『日本近代文学の起源』
柄谷行人『世界共和国へ』
『あっと』1~4までの柄谷行人の文献
加藤尚武『ヘーゲルの「法」哲学』
平田清明『社会思想史』
出口勇蔵『社会思想史』
丸山眞男『日本政治思想史研究』
丸山眞男『講義録』1、6
真木悠介『現代社会の存立構造』
長谷部恭男『憲法と平和を問い直す』
長谷部恭男『憲法学のフロンティア』
小松美彦『脳死・臓器移植の本当の話』
桑原武雄編『ルソー』


↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑   
よろしかったら、上の二つをクリックをしてください。ブログランキングにポイントが加算されます。

コメント (5)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« AND経営ではなく、OR経営 | トップ | 困った人たち 2006 を... »
最新の画像もっと見る

5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
問題は時間 (Kimura Masaji)
2006-10-16 22:48:30
大体上のEntryをせわしなく書いている。時間との戦い、これにつきる。これを書きたかったのだ。「道徳の系譜」は何回読んだか分からない本だが、しかしそれにしたって時間がかかる。授業は迫ってくる。そして、アットいう間にすぎ、普通のばあい一年間はめぐってこない。また、次の「皿」を回すのだ。本は読むのに時間がかかるのだ。古典や重大なメッセージを送ってくる文献は一度ではすまない。受験ではないが、何度も何度も読み結局暗記になるのだ。ロジックの暗記である。そうでもしなければ、私たちは説得力を持てない。これ、くどいが時間なのだ。時間がない。時間がない。
返信する
永井均『これがニーチェだ』を読む (Kimura Masaji)
2006-12-22 14:18:00
今年の後半は、原文に当たるということが殆ど出来なかった。解説を読むということを徹底してやった。永井均の講談社現代新書で『これがニーチェだ』をはじめて通読した。今回はニーチェは永井だけを読み、ほぼ全貌についての見識を、一つの有力な見識を得たように思う。この本を通読することはそれなりに大変だろうとは思う。もちろん、通常はわからなくても『ツァラトゥストラ』を読み、『道徳の系譜』あたりをじっくり読むべきである。ニーチェは豊饒に雄弁に語るだろう。が、一つの見識として永井の本書をよむのもいいかもしれない。
返信する
丸山眞男と柄谷行人で日本思想史を縦断する (Kimura Masaji)
2006-12-22 14:39:21
■今年は『倫理』の補習で追いまくられた。12月25日、日本の思想を縦断して終了する。■私は日本の思想はほとんど手つかずであった。丸山眞男をかつて読み、明治まできたことがあった。今回、解説をするはめになったが、大変であった。■東京大学出版会よりでている遺稿の『丸山眞男講義録4』は古代から鎌倉までを講義している。さらに『丸山眞男講義録1』と『日本政治思想史研究』(東京大学出版会)を何度となく通読し、江戸儒教とその解体過程を学んだ。丸山だけでないことはわかっているが、私は丸山学からでることはできない。それ以上の余裕はなかった。なお、柄谷行人の関連する思考にも一応ふれた。講演集『言葉と悲劇』のいくつかの文章はやはり江戸儒教を理解する上で有益である。■さらに、江戸幕末から明治にかけては、『丸山眞男講義録2』を何度となく読み返した。くわえて、丸山『戦中と戦後の間』(みすず書房)の「明治国家の思想」他の明治関連の文献、『忠誠と反逆』(筑摩書房)の各論考もこの期間の丸山眞男の論理を見据えるには有益な文献だ。■同時併行で私は今回、柄谷行人の明治関連の文献を講演録を中心に読み返した。『戦前の思想』(文芸春秋)は、柄谷行人が帝国主義を帝国と分離して読解している文献として非常に明快だ。『日本精神分析』(文芸春秋)の第1章の「言語と国家」もこの間の柄谷行人の論理を理解するには有益であった。
返信する
ヘーゲルについて (Kimura Masaji)
2006-12-22 14:56:13
ヘーゲルぐらい難解な書物はない。正直、『精神現象学』は三度目にようやくうっすら理解できたが、過去の二度は途中から何をいいたいのか、さっぱりわからなくなった。そこに日本語が並んでいることはまちがいないのだが、論理が意味を構成しないのだった。二年ほど前にラカンを読んだ。『エクリ』だが、それと匹敵するくらいわけがわからない本はこの本くらいだ。本格的哲学書で最初の大作を通読したのが、僕の場合『存在と無』だった。もちろんはじめの何度かはあの「無」の記述にさっぱり理解できなかった。しかし、サルトルは、作家でもあるからか例示が実におもしろかった。何度も何度も例示を読み解いているうちにあるとき、理解が自分のなかへとスーっとはいってきたのだった。それから、するすると通読した。ポンティもやや似ていた。しかし、ヘーゲルはそうはいかなかった。5年ほど前の大学院時代に約4ヶ月を費やして、『精神現象学』『法の哲学』『小論理学』『歴史哲学講義』をノートをとりながら読んだ。ドイツ語を片一方において、わからないところは原文に当たりながら読んだ。浅田彰がヘーゲルについてこういっている。平易な長谷川訳より難解だが論理に忠実な樫山訳で難解な襞を一つ一つほぐして読んでいけば、ヘーゲルは豊饒に語る、と。僕は並の高校の先生にこれは勧めない。僕は二度の夏休みを無駄にした。もちろん、『精神現象学』に挫折したのだった。大学院の時もヒヤヒヤものだった。わからなかったら、時間がただ無駄じゃないか。ハイデッガーもある種の感動をもって主著を読了した。だから、と思ったモノだった。今回、加藤尚武の『ヘーゲルの法の哲学を読む』という解説を読了した。三度目くらいだが、ふつうはこのくらいから入った方がいいのかもしれない。決して加藤も容易ではないが。ちなみに今回僕は加藤からあまり得ることなくこれまでの読解をまとめて生徒には解説した。
返信する
ルソーの読解 (Kimura Masaji)
2006-12-22 16:27:38
『人間不平等起源論』と『社会契約論』のルソーとフランス革命の現実。いっけん、フランス革命は政治的事件なのだが、じつは、経済的事件でもあるのだ。というより、経済的事件という観点を入れなければ、社会的文脈の理解を正確にはなしえない。中産的生産者層という大塚久雄のキイワードを、ふまえて、産業革命以前の近代の初頭としてのフランス革命をふまえてルソーを読解する。今回は、内田義彦を読み返した。『社会認識の歩み』(岩波新書)の内田と『経済学の生誕』の内田。『経済学説史講義』の内田。この内田が、経済からルソーを読解するヒントを提供している。もちろん、全部を読み通すなどと言うことは不可能である。前期的資本と産業資本の勃興という対立の中に不平等を読み込む作業をとおして、生徒には、けっこうわかりやすく、ルソーを提示し得たと思っている。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

授業・教科指導」カテゴリの最新記事