同調圧力に従わない/従えない
日本社会は基本的に同調圧力のキツイ社会です。同じでないということに対するチェックが厳しいわけです。
「ねえねえ、トイレいかない!?」
「はぁ?いきたきゃ、一人でいってきたら?」
これ、いけないわけです。一緒にトイレへいって、便器の壁またいで一緒に座って、壁をはさんで、手をつなぎあって、
「まだ、おしっこしってないよねえ?」
「うん」
「じゃあ、一、二の三でいっしょに・・・」
「あ!!」
「何?どうした?」
「ごめん、先にしっちゃった!」
同調圧力に〈従わない/従えない〉空気を〈読む/読めない〉
こうした同調圧力に対して「従わない人」と「従えない人」がいるのです。僕は、この数年、この二つを無自覚に並べてきました。ところが、つい先日の授業の後、授業を受けているKさんとお話をしているうちに、この二つは全然違うのだ、ということに気づき始めたのです。もちろん、従えない人がいじめの対象になっていくのです。同調圧力を実感し、理解したうえで、それに従わない人が確実にいます。それとは、まったく異なり、この同調圧力をまったく感じず、無自覚な人がいるわけです。
同様に、空気をよむことにもこのことはいえそうです。空気を読める人、読めた上で行動は二つに分かれるわけです。その空気に従う人と従わない人。ところが、空気を全く読めない人というのが、存在するわけです。いっておきますが、これは教員にも言えることです。大体において、生徒の空気が読めない教員というものが普通です。公立高校の教員は大体、読めない、いえ、読む必要もない。いえ、学校の教室というものはどうも、この空気を読むという能力を付与しないシステムといえそうだ、と僕は思うのです。
普通の教室の生徒のタイプ/いじめられっ子のタイプ
さらに自己主張をする/しないをくわえると、以下のような組み合わせができあがります。
空気を 読む/読めない
同調圧力に 従う・従わない/従えない
自己主張を する/しない
すると、上の青の太字の組み合わせである、 空気を読めて、同調圧力を理解し、それに従い自己主張を集団ではしない。こういう人間類型ができあがります。これが普通の高校の教室の人間類型です。教室で自分から発言はしてはいけない。こういう掟があります。その掟に従い、自分からは発言しない。自己主張はしない。
それに対して、赤の太字の組み合わせ、つまり、空気が読めず、したがって同調圧力に鈍感な人間が集団で、まったくだれも興味のない、自分だけの世界を展開しはじめたとき、つまり、そういう人間が自己主張を始めたとき、日本社会は、その存在に対して、周囲がまったく興味もなく、聞きたくもないということを伝達する正当なシステムを構築していません。そこで、ただひたすらまわりは我慢させられ、それが爆発していじめに発展していくことになるのです。
残る課題
ここでこういう問題が浮上します。
空気が読めて、しかも周囲の同調圧力にはしたがわない、そして、自己主張できる、という存在は日本社会では存在し得ないのか、ということです。
それにしても、これは、どういう存在でしょうか?
ひとことでいえば、これこそが〈ウケ〉をねらう存在なのです。〈ウケ〉をねらう存在は、みんなと同じでは意味がありません。みんなと同じでは何の新鮮さもおもしろさもなく、〈ウケ〉ないのです。〈ウケ〉をねらう人間はまわりの空気に敏感でなければいけません。その上で周りとは異なるのです。懸命に異ならねばなりません。
では、周囲の人たちの沈黙は何を意味するのか、この〈ウケ〉をねらう人との対比で考えてみましょう。周囲の人たちは実は、ウケもせず、周囲の空気が読めないで、いじめという制裁にあっている人を見ています。つまり、自分以外の人が空気が読めない、自己主張する存在を目の当たりにしたときは、あれこそが、いじめられっ子だと分かるのです。しかし、いじめられっ子の線はみえません。いつ、どうしたら、自分がその存在になるかわからないわけです。いつ、自分が自己主張したときいじめられっ子になるかわからない。これが、萎縮をうむのです。
それと全く異なるいじめられっ子はどうでしょう?彼らは自分が空気が読めず、ウケもせず、ただ自分だけ有頂天という事実にどうしたら気づくのでしょうか?
どうやら、いじめは経済と関係があるようにみえます。日本の学校社会には多様性を前提とした市場がありません。共同体を主とした日本の学校には市場が存在しないのです。受験競争は市場とは似て非なるものがあります。受験をいくら懸命にやってもウケをねらえる存在には育ちません。受験オタッキーがただ増殖するだけなのです。ここに、日本の学校社会がはらんでいる最大の問題が存在するのです。
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学校の教室というものはどうも、この空気を読むという能力を付与しないシステムといえそう
このことについてやはり自分的に考えているのは、教員と生徒の人間関係がつねに先生が有利な立場になっているという点にあると思います。先生が罰せられることはありません。
例えば、ある授業で授業が今日はおもしろくないから席をはずすか帰ってしまったりしたとするじゃないですか。(生徒の一人が)すると先生は途中で帰ったその生徒をを早退扱いするか欠席扱いにしますよねぇ。これっておかしいと思います。
授業の準備不足のあるいは、あまりにもつまらない授業を平気でやる先生のほうがペナルティーなんですよ。しかし実際は生徒のほうだけにペナルティーが加算されます。仮に先生に文句でも言った日には、成績を下げられたり、態度が冷たくなったりという違う制裁を加えられます。だから次からはつまらないからといって席をはずしたり、文句をいったりは出来なくなります。
この一方向的な人間関係によって、本来は聞き入れてもらえるはずの正直な本心が抑圧されてしまうわけです。つまり生徒と先生の間のコミュニケーションは成立しない。常に「もやもや感」を抱えて席に座ることになります。そのところに、さらに空気が読めない人が平気で登場すると「あいつは何だ」ということになります。無礼打ちがはじまります。
そして空気の読めない人とその周りでいらいらしている人たちの人間関係の間でも、コミュニケーションは成立しません。これもいじめというかたちの一方向的な結果になってしまうのです。つまり先生と生徒の間、いじめられっこと周囲の間に、対等なコミュニケーションが成立しないのです。
僕は率直に思います。先生は高いところに座っていてはいけない。むしろ生徒と同じ高さあるいはもっと下に降りてきて生徒との人間関係を構築する努力をしてください。
そして、気軽にだれとでも「NO」がいいあえる、それが尊重される環境をつくってください。僕も協力します。
空気の読めない人は、
周りの空気を読んで同調圧力に従わない人で自己主張する
周りの空気を読めず同調圧力に従えないで自己主張する
↑このような事になるんですよね?
で後者の『自分が空気が読めず、ウケもせず、ただ自分だけ有頂天という事実にどうしたら気づくのでしょうか?』
この人達がどうしたら気づくかですよね?
残酷な話ですけど今の私の考えでは、ハブかれたり、いじめられたり、とことん追いつめられて(1人になって自分を見つめ直す)事をしない限り無理だと思う・・・・
実際私自身がそうだったように、
私は、なぜこのような空気の存在すら読めない人を創ってしまうのかと考えたとき今の日本の豊かさが原因だと思いました。
(コンビニ、インターネット、テレビゲーム、などなど)
お金を払えばいくらでもご飯が食べれる、お金を払えば物も何でも買える、
擬似的に1人で生きていけるこの今の日本の現状が他人へ
の関心を無にしてしまっていると思う。
『自分は一人で生きている』と・・・・・・・・・
いきなりですが、質問させてください。
なぜここでは(日本では?)「空気を読むこと」をそんなにも重要視するのでしょうか??なぜ口で言わずに、空気を読まなくてはいけないのでしょうか?そして、なぜ同調圧力に従うことを美徳とするのですか?
学校は会社とはまったく異なった場所であるはずです。
子供は大人とまったく違うはずです。それなのに、なぜ学校教育の場でも「空気を読むこと」を求めるのですか?そこにどんな重要性があるのですか?教えてください。
あまりにも重視しすぎるのは、人間が人間でなくなってしまいそうなのです。だからといって、あまりにも軽視しすぎるのも、どうかと思います。
同調圧力は、圧力だからいけないんじゃないですか。
同調することは普通にあると思います。
話の内容が少し違うところに言ってしまいました。
すみません。
仕草や状況、雰囲気から気持ちを読み取れない人は、他人が微笑むことを見ることはできても、それが意味していることが分からない。また最悪の場合、表情やボディランゲージなど、その他あらゆる人間間のコミュニケーションにおけるニュアンスを理解することができない。 多くの場合、彼等は行間を読むことが苦手あるいは不可能である。つまり、人が口に出して言葉で言わなければ、意図していることが何なのかを理解できない。 しかし、これはスペクトラム状(連続体)の障害である。表情や他人の意図を読み取ることに不自由がないアスペルガーの人もいる。 彼等はしばしばアイコンタクトが困難である。
アルバート・アインシュタイン(物理学者)
石原莞爾(大日本帝国陸軍軍人)
レオナルド・ダ・ヴィンチ
トーマス・エジソン(発明家)
織田信長(戦国大名)
ガリレオ・ガリレイ(物理学者、天文学者、哲学者)
ビル・ゲイツ(マイクロソフト会長)
アレクサンダー・グラハム・ベル(発明家)
言葉に温度が感じられないんです。
いじめについてとてもよく考えられていると思います。
ですが実際にいじめられている子がいたら
どんな言葉をかけるのですか?
先生としてどんな対応をするつもりですか?
■このエントリイは「空気が読めない人間」という関連で載せました。まず、一体どのような人間がいじめられるのか、というそのことを分析することは対策を立てる上できわめて有効です。それは、もちろんご指摘の通り対処療法としてではありません。■私は近年それほどひどいいじめを確認していません。一つは私の勤務校の単位制高校はあらゆる角度からいじめられないシステムを作っているからです。いじめようがないのです。学年制はいじめの発酵にはきわめてふさわしい場なのです。■さて、いじめになったら、ということですが、私は現在は
「逃げろ」を正解としています。なぜ逃げられないのか、についてはまたエントリイで掲げたいと思いますが、残念ですが、みんなと仲良くとか修復を試みることにいみはありません。いじめは当事者にもコントロールできません。
それはうちの親は強くなって立ち向かえという
考えの人だったので、こんな考え方の出来る
大人の人が少なからずいるんだと思えたからです。
「これからいじめを授業します。なぜ、いじめられるのか、なぜいじめるのか、そして、最後にいじめ撃退をテーマとします。最後にみなさんに、
「いじめは撃退できるんだぁ!」
という思いを持たせたら成功なのです。しかし、みなさんはその直後にまるで映画を見終わってライトがつき、現実に戻ったような感覚に襲われるはずです。
そうです、それはあくまでお話です。私はしたがって、はじめにこう宣言します。いじめは日本社会ではまず近未来においてなくなることは考えられません。日本人はいじめが大好きだから、そして、いじめられたら、
「逃げろ!逃げろや逃げろ!」
です。最後にこう私はいうことになります。しかし、逃げることさえできない人間がいるのだ。それはなぜか、それを究明するのがこの授業の実は寂しい目標かも知れない。なぜ、逃げることさえできないのか、そうなのだ。逃げることさえできない人間がいるのだ。彼らはある事情でそうなのだ。そのとき、君はある時代までふっとタイムスリップすることだろう」