天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

暑かろうと秋である

2016-08-07 05:43:01 | 俳句


今日は立秋である。立秋といえば毎年、飯田蛇笏の名句を思う。

秋たつや川瀬にまじる風の音  飯田蛇笏


「川瀬にまじる風の音」、作者が川を見て来た時間の量がもたらした言葉であろう。自然観照のよさを思う。「秋たつや」のオーソドックスな置き方といい俳句のよさがすべて備えた気品を味わいたい。
この句を蛇笏が書いたとき気温は30℃を下回っていたのではないか。古き良き時代の山国の立秋を感じる。

2016年の立秋の朝、みんみん蝉が鳴く。今日も気温は35℃近くまで行くだろう。家の中にいても水分補給をしないと熱中症になるとか。
日本で今日から秋と思うのは俳人以外に誰かいるだろうか。俳人にしても立秋がいちばん現状とかけ離れていると思っているだろう。
俳人は偏屈な原理主義者で、どんなに陽気が変わろうと立秋からは秋が始まると頑なに思う。

ぼくの知る俳人のなかで飯島晴子がもっとも偏屈である。
京都生まれのこの俳人はエッセイにも筆が立ち、立春についての気構えをおもしろく書いている。京都は寒いところゆえ立春といえど零度に近い朝もある。けれど立春と聞くと京都人にとっては春であり衣装を春物にする…そういうやせ我慢が京都人の気骨であるというような内容であった。
さすがは晴子さんと唸ったのである。
しかし立秋ということで晴子さんは秋袷を着たであろうか。墓へ参って聞いてみたい。

産業革命以来人類は燃やし過ぎたとよく言われる。いわゆる燃焼過多の地球温暖化であり四季の比率がどんどん変わっている。
100年前は春夏秋冬は25%ずつ等分であったのだろうか。
いま夏は5月半ばから9月半ばまで居座るという印象である。1年のうち夏が40%は占める。春と秋が夏の侵略を受けていて劣勢である。

俳人にとって8月がいちばん困る月である。
暑いのだから暑い句を書けばいいのだがいま書いた暑い句は雑誌に出るころ12月号になる。発効日は11月末である。
いくらなんでもその時期に汗だくの句を載せたくないという晴子さん的な意地がはたらくのである。
それで句会の幹事には秋の季語を出させ(夏の季語を出すと叱り秋の季語を出し直させて)必死になって秋の句をひねり出そうとする。
そうしながらやはり暑いので夏の句ができてしまう。
8月は夏と秋が激しく戦っている。

朝顔は歳時記では秋だが実際は夏から咲く。だから夏にしてどうかという意見がある。児童に俳句を指導する先生に実状至上主義があって当然である。
俳句の季語は先取りがあれば後追いもありこれを突き詰めていくと頭が変になる。
一神教という理念なき民のいいかげんさの温床に歳時記があるのかもしれないがこの融通無碍が日本人なのである。
学校の国語の授業で俳句の季語を春夏秋冬にきちんと入れて正解ということをしないで欲しいと切に思う。
朝顔は朝顔の時間を生きている、というおおらかな受け取り方でいいのではないか。
季語を使って俳句を書こうとするときわれわれはその季語の時間に入れてもらうのである。いっとき人類のつくった時間体系から解き放たれて。

そう思いつつこの暑さのなかで秋の涼しい句を必死になって作ろうとしているぼくって何。
コメント
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