天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

乃南アサ『水曜日の凱歌』

2016-08-19 03:18:07 | 


乃南アサを初めて読んだ。
この人の名は図書館の書架でちらちら見ており、一冊くらい繙こうかと思いつつ1年ほど過ぎた。
表紙の絵(影山徹)が焼跡に立つ女の子であったので戦争ものかなと思ったらまさしく終戦後の女たちの物語であった。

二宮鈴子は本所に生れた。父が運送会社を営み比較的裕福な家庭であった。3月11日の空襲ですべて焼け、幼少の妹は逃げる母の背からいつか消えていた。兄二人は出征し一人は戦死、一人は帰還せず。
母一人、娘一人、そして周囲の女たちが戦後の大混乱を生き抜いていく話である。
鈴子はわからないことはなんでも「なぜ」「どうして」と聞く子であり、この問いかけの率直さに大人はしばしば返答に窮する。
それは問いかけが戦争の無意味さ、残酷さ、過酷さをストレートに突いているからである。はぐらかされた鈴子が「ずるい」と感じることが物語の骨格となっている。
14歳になる少女の視点ということで言葉がやさしくすらすら読める。第66回芸術選奨文部科学大臣賞受賞作品。

鈴子にとって母は「お母さま」である。教養と気品と落着きを備えたおっとりとした女性としてはじめは認識される。
そのお母さまは死んだ父の親友の「宮下のおじさま」と懇意になる。おじさまはしばしば家に来るようになり、お母さまに仕事を斡旋する。
その仕事はRAA(特殊慰安施設協会)のもので、アメリカ人と慰安婦との間を取り持つ通訳を主とした仕事であった。お母さまは女学校でそうとう英語ができたのである。

鈴子は進駐軍兵士たちの性の防波堤になる慰安婦が何をするのか知るようになる。
同時にお母さまが父でないおじさまの愛人になっていることも嫌悪するようになる。しかしお母さまはおじさまをも袖にして新しい男とくっついてますます豊かになっていく。
米軍の中佐である。
鈴子にとって考えられなかったお母さまの身持ちに嫌悪しつつもやがて自身が初潮を迎えることをきっかけに、女が一人で生きていくといことを真剣に考えるようになる。

パンパンでは駄目だ。ダンサーも駄目。身体を酷使して、疲れ果てて、挙句の果てに花柳病にかかるような、そんな仕事は長く続けられないに決まっている。
人に後ろ指をさされることなく、悪い病気にかかる心配もない、たとえば匡お兄ちゃまが復員してきても、いつでも笑顔で再会できるような、そういう仕事につけるようにならなければいけない。

これが作者のメッセージであろう。
テーマ自体はそう斬新ではないがかの戦争を日本の男たちのだらしなさと見たのは女ならではの視点であろう。
男なんて日米において本質的な差はなくどちらも女を抱きたがるものである、だったら「ちから」がいっぱいあって女に優しい男がいいじゃない、と考えるお母さまを設定したのだろう。
教養と気品と落着きがあり物怖じしないお母さま。人の評価を恐れず生きるためならよりちからのある男へ渡り歩く女。
このイメージにぴったりの女優は「東京島」で複数の男を迷わせた木村多江しかいないような気がする。いったん木村多江を思ったらほかのイメージが入り込む隙がなくなってしまった。
木村多江


何もかもお国のためだと思って大事な息子まで差し出したけれど――結局、何一つとして報われなかった。火の玉どころか、逆に自分たちの住むところまで火の海にされて――

だから、お母さまはこの国や、この国の男の人たちを見限ったのだ。



女の視点で見た太平洋戦争後始末記である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする