天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

傘の柄から俳句を学ぶ

2016-06-27 13:56:46 | スポーツ・文芸

先日、ひこばえ句会の終りにみなさんに宿題を出した。
しまいが「かな」で終わる句を一句書いてくるようにと。
「かな」の句は「や」切れの句と作り方がかなり違う。「や」切れの句は意識を外へ飛ばすことで成功することが多いが、「かな」の句は脇を締めて力を結集する感覚が大切である。
「かな」にそれまでの流れが集まってくること大事である。
したがって「かな」にいたる流れは切れてはいけない。息を整えるほどの切れはいいが大きく切れると最後の「かな」が無意味になってしまう。
そのとき傘をひらいて「かな」という切字の解説をした。
柄はUターンしてそれまでの流れを断つ。「かな」もまさしくそう。
短歌でいう七七的な付け加えたい文言を断つ。
これが「かな」の機能である。「季語+かな」のフィニッシュはまさにこの写真のように柄の部分がそれまでと色合も異なることになる。

俳句を学ぶとき俳句の本を読むだけが勉強ではない。
別の分野のあらゆることに俳句に通じるエッセンスが潜んでいる。
「かな」を傘の柄に感じることができるとぼくは思うし、この意識は「かな」の認識をぼくの中で深めている。
ある物とまったく別の物とのあいだに類似性を見ることで観察力が深まる、というか、観察力を鋭くすると類似性を見い出すようになる。

たとえば、
渦巻くはさみし栄螺も星雲も 奥坂まや

句集『縄文』から引いたが作者の類似性を見つける目が光る。栄螺という地球上の小さな生物と星雲という宇宙のとてつもない大きなものの間に「渦巻く」という類似性を発見したことで鮮やかな一句になった。
ぼくは「かな」の句と傘の柄に類似性を見つけて解説に使ったが、まやさんは俳句そのものにしている。
いずれにしてもこの感覚は研ぎ澄ましたい。

あらゆるシーンに俳句のネタも発想もころがっている。
たとえばラグビーのボール争奪戦などはいつも<物と言葉の接点>と見ている。
ボールを持って突っ込んでいくほうが<言葉>だとすれば、それを許さない壁であるほうは<物>という見方ができる。
突っ込んできた<言葉>を守るほうの壁が取ってしまうことを「ターンオーバー」という。
<言葉>が<物>に取られてしまうわけであり<言葉>が<物>に負けてしまったのである。
俳句でいうと大波を描こうとしたがどうしていいかわからず波にのまれてしまうようなものである。よくあることである。

ワールドカップの4強がぶつかるようなレベルの高いラグビーの、スクラム、ラック、モールなどのボール争奪戦は、まさに物と言葉がぶつかってぎらぎらしている。
物から言葉が立ち上がる瞬間を絵として見るのはなによりの勉強である。
俳句に役立つ感覚を体感できるシーンがいくらでもある。


W杯2011年NZ大会──日本戦でのラックの攻防
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