体操団体金メダルは興奮し心臓にこれほど悪い時間はなかった。演技した白井健三選手も「人生で一番心臓に悪い日だった」と振り返っている。
早朝から心臓の動悸がすごく、競技が終ったときぼくの一日も疲弊して終わっていた。
予選で日本人選手たちの落下をたくさん目撃したので決勝は「落ちないで」と祈っていた。また、敵国の選手のミスを願う悪い気持ちが芽生えるのを自覚するなど、健康と倫理観を揺さぶられたのであった。
しかし五輪第5日、カヌー・スラロームの男子カナディアンシングル決勝で、羽根田卓也選手がカヌー競技で日本人初のメダルをもたらした。これは爽快であった。
体操のようにメジャーでないこの競技をほとんど知らないというのも爽やかさの理由であろう。
内村選手のように仲間を引き連れてまとめて野望を実現するのは凄い。羽根田選手のように日の当たらぬ競技をメダル獲得によって認知させるのもすばらしい。
どちらも採点競技である。
採点競技というとぼくが審判員をつとめた俳句甲子園をすぐに思う。
基本的にオリンピックの体操やカヌー・スラロームと採点ということでは一緒だが、これらと比べるとこまやかさでは劣る。これは原理的にしかたのないことである。
実際に旗を上げるのだから柔道の僅差の判定の旗上ジャッジに似ている。
柔道と違うのは柔道が見た目の瞬間の感覚に頼るのに対して、俳句はいちおう理性的に点数をつけてその点数の多いほうに旗を上げる。
旗を上げるまでに審査する時間が柔道よりはたっぷりある。
柔道のジャッジは点数制の体操やカヌーより見る人を納得させられていないのではないか。
複数の審判員がいて公正を期そうとするのは俳句甲子園と同じであるが、技をかけた方が優勢なのか返したほうに分があるのかで大きな禍根を残す。
シドニーオリンピック男子柔道100キロ超級決勝で、篠原の「内股すかし」が決まった瞬間、目の前の副審が右手を挙げて「一本」と判定したのを見て、思わずガッツポーズをし、ドゥイエ(フランス)は落胆の表情を浮かべた。
ところが、主審ともう一人の副審はドゥイエの「有効」と判定。試合は続きポイントをリードされて焦った篠原は技をかけきれず、結局敗れた。
こういうケースで大相撲はビデオを用い、審判員の合同協議を行って結論を出す。
柔道に柔という字があるのにどうして判定に柔軟性がないのか、理解に苦しむ。
篠原のケースで主審と副審二人は協議して結論を出してよかったはずだ。時間をかけてもいいのではなかったか。
大相撲は行司の挙げた判定が覆ったとき審判委員長がマイクをもってその説明を行う。
採点競技は観客にわかりにくい事態が出来した場合、言葉を使って説明し理解してもらう努力が不可欠であろう。
俳句甲子園の松山大会へ審判として招かれた。
19日松山市の大街道商店街特設会場で行われる予選リーグ戦と決勝トーナメント戦の審判員を務めることになるらしい。
毅然とした採点とわかりやすい言葉を用意したい。
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