天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

写生の先の象徴性と抽象性

2024-07-06 05:05:18 | 俳句




鷹7月号「鷹60周年記念座談会<私にとっての第一句集>」に注目した。
主席者は、高野ムツオ、今井聖、鴇田智哉、奥坂まや。

鴇田 第一句集の「こゑふたつ同じこゑなる竹の秋」という句、この中では一番ある意味抽象的な雰囲気の句だと思う、当時は、写生を自分なりに徹底していくと抽象に至ることがあるというような感覚を得ていたんですよ。
第二句集もそれを推し進めていって、よりそういう方向も出てきた。そういうことをすることによって自分の目とか耳自体の傾向というものが句に表れてくるんじゃないか。そういものが第二句集ではあった。
第三句集になるともっと広げたくなって、「いきてゐる体の影を踏む遊び」とか「回るほど後ろの見えてくる疾さ」は季語のような中心がない句に至った。
無季の句には季語に代わる重みのある言葉が必要とよくいうが、それが存在しない句があるんじゃないか。運動性そのものが描き出された句みたいな。
「要するに回るほど」句は、動きそのものしか詠んでいない。ある見方を「すればすごい頼りない句だがでも自分はそういう方向に今は行くしかないと思った。
(話し言葉が冗漫につき多少切り詰めている)
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鴇田以外の3人はおそらく俳句は形象化が必要と考えているだろう。小生も同様である。
「回るほど後ろの見えてくる疾さ 智哉」
作者は形象化を捨て、執念を持って運動性を書いていてそれは認める。しかし、下五に「疾さ」を置いたら「当然でしょう」と読み手は思ってしまう。
小生はバレリーナの回転を想像した。あれが回るスピードを上げたらそりゃ疾いよ、そうしているんだもの。小生はとっさに「回るほど後ろの見えてくる寒さ」とした。というかこの句を読んだとき間違えてそう読んでいた。それしかあり得ないと思って読み直して、あれ「疾さ」、なんだこりゃと思った。季語「寒さ」なら意表をついた面白さが出来するというのが小生の見解である。
また、「いきてゐる体の影を踏む遊び」は、なぜ「いきてゐる」を敢えて言わなきゃいけないのか疑問。死体などを相手に影踏み遊びができるわけがない。鴇田は形象化が嫌いで敢えて句を観念化しているように感じる。強引さゆえに言葉が生動していないのではないか。
異端児の鴇田くんを高野さんは巧妙に受けたという気がする。
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高野 確かに写生をやっているとだんだん写生を突き抜けていって、そして、抽象世界に入っていく。
抽象性ということでは、私がまず頭に浮かべるのは富澤赤黄男だけど、赤黄男の俳句は、具体的な世界から次第に象徴性を濃くしていった。ところが象徴性を追っかけるほど、言葉って抽象化するんだ。「草二本だけ生えてゐる 時間」とか、ああいう単純化された世界になってくる。この句は物が抽象化する。そのぎりぎりかな。でも物が消えてしまって、言葉だけになってしまっている句が晩年には多いね。
ここが俳句の難しさでもあるし、恐ろしさでもあるんだよね。物の背景がないと実感が伝わらなくなるんだね。
赤黄男の俳句は魅力的で好きなんだけど、難解で、俳句としての自立性が保たれているかどうか、いつも考えさせられる。あの実験精神はとても貴重で大事だけれどね。
俳句のような短い詩型の場合、一つ一つの言葉が初めから、何がしの抽象性、観念性を帯びているでしょう。だから、詩としての純粋性みたいなものを追求すればするほど、言葉は実体から切り離されてしまう。鴇田くんが話したことと共通するかどうかわかんないけれど、自分の精神的なものを比喩的に、あるいは抽象的な運動体みたいなものとして表現するという形になってしまう。
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高野さんの「写生の先に抽象世界がある」という見解には納得。余計なものをどんどん捨てていくと象徴化するのが写生の求めるところであるが追い求める世界の形も消えてゆくケースは多々あり、「一月の川一月の谷の中 飯田龍太」をまず思った。
妙な句で谷の中に川があるというのはある意味で当然。また川と谷はきわめて近い概念。物がしかとあるので見えるが山岳写真を見る見え方ではなく象徴性を帯びている。一月のリフレインにより言葉が立っている世界、言葉そのものになった句である。
同じ山岳を描いた「奥白根かの世の雪をかゞやかす 前田普羅」と比べると龍太句の象徴性がはっきりする。普羅の「かの世の雪」は現実の奥白根が写真のように見える要素を有している。この句とて象徴性があるが。
1人の作者においても写生そのものと、写生から発して象徴性を帯びたものまであり、虚子において、「一つ根に離れ浮く葉や春の水」は写生の手本として教科書に載せたい句。一方、「去年今年貫く棒の如きもの」は可視的な世界から完全に離れて象徴化した句である。

新興俳句の旗手、富澤赤黄男の代表句として人口に膾炙した
蝶墜ちて大音響の結氷期 
すごく魅力的な句である。最初「大音響の結氷期」は大げさだと感じた。凍るときバイクが疾走するような音が出るものか。しかし、湖の縁にいて夕方凍るときピシッというような小さな音を耳にしたことを記憶する。赤黄男はそれを心象の中で増幅させたのだと思ったとき納得した。「蝶墜ちて」は冬の蝶。死んで足許にいるのであろう。つまりこの句も写生の眼が効いており結果、言葉が屹立するレベルに至った。ものが見えるか、言葉が立っているか、その両方か、これが句を見るものさしのように思っている。
この句を読むにつけ写生派の小生もぎりぎりの世界を追いかけねばと思うのである。
高野さんはそのへんの深さをこの座談会で見せてくれた。勉強になった。



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