のある意味、続きです。
前のその記事の終わりに、もう一回書きたいけれど、続けては書けないと言うようなことを書いてしまったのですが、「相棒」のラスト10分で、まさかの寝落ち。感想が書けないので、こちらを先に書きました。
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「ライジング若冲」を見て、かなり魅せられた私は、またもあれやこれやと気になる事を調べてみました。
無知なるがゆえに、新しく知る事がたくさんあって、それゆえに毎日が楽しい私です。
若冲の絵は、姉の影響もあって、大好きです。
ウィキペディアの「若冲」のページの「展覧会」の項目を読むと
《2016年(平成28年):東京都美術館で「生誕300年記念 若冲展」開催。「釈迦三尊図」と「動植綵絵」全30幅の同時公開は東京初となり、320分の入館待ち時間を記録。》とあります。
あの時は本当に大変だったなあとは思いますが、今思い返すと、あの狂宴に参加で来て幸せだったなあとも思うのですよ。
その時の私の記事は→「生誕300年記念若冲展」
でもその絵画展に行った時には、若冲の人となりや、その人生の事など考えもしませんでした。そこに想いが行ったのは、ドラマの影響に他なりません。
お蔭でいろいろな事を知りました。
☆その一つには、売茶翁と言う人がいた事。ドラマでもかなり魅力的に描かれていましたね。彼は煎茶を広めた人。
大学生の頃に、「お茶を習ってる。」と友だちに言いましたら、その人が「煎茶を習っていた。」と言ったのです。煎茶と言うのは急須に入れて、茶碗に注ぎ、そしてごくごく飲めばいいのだと思っていた私は驚きました。
なんでも「その道」と言うものが生まれるものなんですね。
いろいろなサイトでも参考になると思うのですが、私的メモでもあるので、やはりウィキ様で貼っておきますね。→売茶翁についてはここ
☆ 大典と言う人がいた事。
ドラマはフィクションですが、ちょっとそれに準じてこの人を見てみると、この人は若冲よりも3歳年下なんですね。だけど、亡くなったのは、1801年3月22日。
若冲はその前年の1800年の10月27日に亡くなっているので、大典は若冲が亡くなってからほぼ半年待たずに亡くなっていて、何かドラマの中の「死が二人を分かつまで」の言葉が思い出され、しみじみとしてしまいます。
と言っても、85歳と83歳なのですけれどね。ついでに言うと、ドラマの余韻に浸りたい場合は、あまりウィキでの肖像画をじっと見ない方が良いかもしれませんね。二人の絵は、ちょっとおじいさんですから。
についても、興味が湧きました。これからは美術館で彼らの絵を見た時には、きっと中川・大東・門脇さんの顔が思い浮かぶに違いありません。
ただ玉欄については、この時代の女性絵師など珍しい事なので、すこぶる興味を感じたのですが、ドラマ内ではほとんど描かれず、少々物足りなさを感じました。
☆若冲と言う名前の由来について。
ドラマ内でも説明がありましたが、老子の言葉の「大盈若沖、其用不窮。」から来ているのだそうですね。「大盈(たいえい)は沖(むな)しきが若く、その用は窮(きわ)まらず。」と読み、意味は「本当に満ちている物は空っぽに見えて、その働きは枯れる事が無い。」
なんだかカッコいいですね。
☆「天明の大火」と言うものが京都であった。
これはドラマが終わっても、人生はつづくというもので、ドラマには関係のない事です。
だけど若冲も大典も焼け出されました。それゆえに、若冲もきっと自分が思い描いていた晩年とは異なる生活を強いられたと思いました。
☆ 若冲縛りの旅に行く夢を見る。
もしも次に京都に行く機会があったならば、若冲縛りで行ってみたいと思いました。
彼の生家はもうありませんが、錦小路に行くと、その生家跡に看板があるみたいです。まずはその看板をパチリと写真を撮るでしょう。
次に行ってみたい所は「相国寺」です。そしてそこにある「承天閣美術館」にも行きたいと思いますが、そこで見る事が出来る若冲の作品は「葡萄小禽図床貼付」、「月夜芭蕉図床貼付」の2点らしいですね。
「石峰寺」は、天明の大火によって家や財を失った若冲が晩年に身を寄せていた場所です。そこで若冲は石仏を作っていました。その五百羅漢を見てみたいし、お墓も相国寺と共に、その石峰寺にもあるのですよ。
それから昔丹波と呼ばれていた所にも行ってみたいと思いました。
今はちょっと無理な事ですが、夢を見るのは自由な事ですから、今のうちにやりたい事の夢を膨らますのも楽しい事だと思います。