森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

さあ、やる気を出せ!人間なんだから。

2012-08-10 11:43:58 | 梢は歌う(日記)

ツイッターで呟こうかなと思ったことですが、140字はゆうに超えてしまうと思うので、ブログに書きます。

ちなみにブログ更新は滞っていますが、裏ではチマチマと一応書いています。最近心落ち着かないことがあって、文章を書いて自分と向き合うことがなかなか出来なかったように思います。それなのにPC時間は逆に増えてしまったようにも思うのです。

誰かの文章を読んだり、ツイッター経由で情報サイトのウエーブをしたり、ゲームをしたり・・・・

要するに逃げているのです。

私はどちらかと言うと、傍から見ると努力を怠らない人に見えたり、気を確かに持っている人にも見えるという、ちょっと得な面があるのですが、実は怠け者で気持もヘタレの弱虫です。若い頃は見かけに準じるように虚栄を張っていたようにも思いますが、この朱夏時代では、いい加減悟ってしまったのです。

しっかし、おい、こら、いい加減にせえよと、さっき唐突に思ったのでした。

別に朝からなでしこジャパンや女子レスリングの頑張りに感激したからではありませんが、ボンヤリとゴミ捨てやら少々の家事の合間やらにPC前にいて、ふと時計を見たらかなりのいい時間だったので自分に腹がたったのでした。

己は何をしてるんじゃ、と思ったのでした。

ヤりたい事と遣らなくちゃいけないことが頭の中で団子状態。でも1歩も踏み出せずにぼんやりしていたのでした。

行動の人であることも大切ですが、座して瞑想の人になることも大切なことだと思います。まずは考えてみる。だけど考えてばかりで先に進まないのが問題で、そういう場合は「座して瞑想の人」になっていてはいけないのですね。

でも今の私は、考えることからも逃げているような気がするのです。

と、上記に書いたようなことはツイッターでは呟きません。

やっぱりツイッターとブログでは完全に違うものがあるのですよね。

 

近頃、もも吉(我家の猫)などをじっと見て、またはベランダに飛んでくる虫などをぼんやり見つめるときなど、ふと思うのは、この生命の形態を分かつたものはなんだろうかと言うことです。

私は前世とか来世とか、なんとなく信じている者なのだと思います。だから過去世には虫であったことも猫であったこともあったかもしれないとか思っていたのかも知れません。だから虫は虫であり猫は猫であることは、同じ命の重さの上にあるような、そんな感覚がするのです。でも中年になってくると、この解明されない「命」の摩訶不思議さは前世を信じる以外の発想も思わざるをえないのですね。つまり命は一回限りのものという発想。

そうすると、思わず

「もも吉や、何で猫に生まれてきたの?」などと呟いてもみたくなるってもんでしょう。

そして異種の動物は一緒に暮らしていても、その生活と満足はもちろん違うのですよね。猫のように食べる、遊ぶ、寝るというだけの生活をしてみたいとは思うけれど、もし本当にそんな毎日だったら心は満たされるのだろうかと思ってしまうのです。

と、書いたら、もも吉がじろりと私を睨みつけました。そうでした。そんな猫の生活でも、常に刺激を求め耳を側立てていたり、どこかに顔を突っ込んでいたり、人の気持ちに寄り添うように居て欲しい時にやって来るのでした。

もしも我が家が森の隣にあったならば、もも吉だってもっと楽しい猫の毎日があるかも知れません。でも他を知らないももはベランダにやって来る虫と格闘して、精一杯に一日の満足を求めているのだと思うのですね。

 

そうだ、私は人間なんだから、人間としての満足を得なくてはと思いました。

 

それで
「豚のように転がってるんじゃない、動け」とか「ヤル気のない豚のようにだらだらしてんじゃないよ。」とかをツイッターで書こうかなと思ったのです。(もちろんもっと優しい穏やかな言葉で‥・豚さんは少々要)

ですが、豚さんは転がってないんじゃないかな、豚さんにやる気がないって誰が言ったんだと、すぐに気持の訂正が入りました。

もしかしたらやる気満々の豚さんが、今日という日に突然命を絶たれるかもしれないのです。

 

思わず頭を垂れる思いがしました。

「がんばろう、今日という一日を。」

そして、そう思ったのでした。

様々な生き物のお陰で生かされている私達なのですから。

 

 


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