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拉致問題:横田早紀江さんの証③

2014年11月12日 | 拉致問題

誰も見ていないように思えるときにも、私たちはいつも神におぼえられている

2011年3月11日、東日本大震災が発生。その日、私は川崎の自宅のマンションで地震に遭いました。
建物が倒壊してしまうのではと思う程の大きな揺れ。大変なことが起きてしまった、そう思いました。
悲惨な震災の被害を知れば知るほど、胸が苦しくなりました。
多くの方が亡くなり、いまだ行方不明の方も大勢いらっしゃいます。
愛すべき人々がなぜこんなことに・・・・・・・
という疑問を抱かずにはいられませんでした。
 突然、愛する者が煙のように姿を消してしまった。
にわかには信じられない、受け入れがたいことです。どんなに苦しくて、耐え難いことでしょう。
 娘のめぐみが忽然と姿を消してしまった頃の様々なことが、ふと心によみがえりました。
「どうか生きていて!」と絶叫したくなるような気持ちで、私は毎日娘を捜し回りました。
何の手がかりもなく、時間だけが過ぎました。生きる望みが絶たれたようで、心にむなしさが満ちるばかりでした。
 そんな時、私は一冊の聖書を頂きました。「悲しみの最中、どうしてこんな分厚い本を読むことができるものですか」と思いましたが、
涙にくれるしかない私は何気なくページをめくって、ヨブ記というところを読み始めたのです。
 ヨブという人は、信仰の篤い正しい人でしたが、子供たちを一度に亡くし、全ての財産を失い、自らも重い病に冒されます。
あまりの悲惨さに、時には生まれたことを呪い、神に恨み言も言います。
しかし、最後まで神に目を向けて苦難の時を通り抜けるのです。
 どんな苦難の中でも、神に信頼するヨブの姿に、言いようもない感動を覚えました。
ヨブはこう言っています。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」
 このことばに、私は引きつけられました。
さらに読み進んで行くと、聖書の一つ一つのことばは私の魂に、痛みと共に心地よく沁みました。
人を超えた深く大いなるもの、真実の神の存在を感じたのです。
めぐみがいなくなってから、本当に久しぶりに深呼吸が出来たことを覚えています。
少しずつ聖書を知るうちに、自分のちっぽけさや、汚さに気づかされていきました。
そして私のような罪ある全ての人間を救うため、キリストが十字架の苦しみを体験され、
血を流して死んでくださったことを知り、深い感動を覚えました。
「神様、私は本当にあなたを知ろうともしない罪深い、生まれながらの我がままな者です。
人知の及ばない所にあるあなたのご存在は、この世の悲しみ、苦しみ、全てのものを飲み込んでおられることを信じます。
めぐみの悲しい人生も、この小さな者には介入できない問題であることを知りました。」
こうして、私は神を受け入れました。
 ヨブは苦しみに遭った時、友人たちから責められました。あなたが悪かったからではないか、因果応報だと。
しかし、そうではないのです。そこには人間をはるかに超えた神のご計画が、計り知ることのできない神の意志があるのです。
「神は愛です」と聖書にあります。神はきよくて、正しく愛にあふれたお方だということを、
そして、私たちは、その方の手の中に包まれて生かされているのだということをいつも思わされています。
被災地の避難所なので、自我を制しながら支え合って生活してらっしゃるみなさんの姿に、愛と希望を感じました。
私も心が混乱している時、周囲のさりげない支えによって助けられました。
自分のことを見ていてくださっている方がいるのだということがわかるだけでも大きな慰めでした。
互いにことばをかけ合って、あなたを忘れていないよ、ということを伝えてさしあげていただきたいのです。
どんな時にも、輝く日の光が私たち全てに降り注がれています。
野には花が咲きます。全ての人が大きな力に包まれて、いっしょに生かされています。
うつむく時にも、背中に太陽の熱を感じます。誰も見ていないように思える時にも、神様はあなたを心にかけておられるのです。
どうか、あなたの上に神の平安がありますように。
(2011年、「私たちはいつも覚えられている」)
横田早紀江著 「愛は、あきらめない」より


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