肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である。―ヨハネ三・六― 人間がどうしても悔い改めようとしないのはなぜでしょう。 それはたぶん、それぞれ幾多の異なった原因があるでしょう。 しかし、ほんとうの原因は、キリスト教は、喜びと幸福とを人々から奪うものだと思っているからに相違ありません。 クリスチャンになれば、ダンスや飲酒、カード遊びや観劇などその他いろいろのすきな娯楽を全部思いとどまらねばならない。 そして、その代わりに、あまり気乗りもしないのに毎日何度となく祈ったり、日曜日に教会に行ったりしなければならない。 善人にちがいないだろうが、偏狭でまじめくさった信者たちとの交際をはじめたりしなければならない。 また、いっしよに集まったりしたときは、いつも聖書を読み、讃美歌を歌い、祈らなければならない。 というふうに一般に考えられているようです。 一般の人たちの言う理想的な生き方というのは、命のあるかぎり、「生活を楽しみ」そして最後に死期が近づくとか、病気になった時には、 信仰深くなって、聖晩餐にあずかり、安心して永遠の眠りにつき、葬式に際しては、牧師にその生涯をほめた美しい言葉述べてもらうことにあるようです。 その人たちは、実際にそのような生活をしています。 彼らはキリスト教を誤解しているのです。 彼らは、キリスト教とは、自然のままの人間が、欲求することを、無理にやめさせて、そのかわりに、 欲しないことを強制的に行わせる宗教だと思っています。 しかし、これはほんとうのキリスト教ではなくて、にせのキリスト教にすぎません。 新しい生まれ変わりを経験しなかった者が、古いままの心で、いやいやながら神に仕えようとする一つのくわだてであります。 霊による生まれかわりというきよい奇跡によってのみ、キリスト者となることができるのであります。
O・ハレスビー著 「みことばの糧・365日の黙想」より
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