木のつぶやき

主に手話やろう重複の仲間たちのこと、それと新聞記事や本から感じたことを書き込んでいきます。皆様よろしくお願いします。

DVD「バットマンビギンズ」

2009年06月30日 23時18分01秒 | Weblog
バットマン ビギンズ [DVD]

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 毎朝、野菜ジュースを買ってる会社近くのローソンでこのDVDが1980円で売られているのを見て、さっそくアマゾンで調べたらなんと1,181円のチョーお買い得で、すかさずゲットしました。実はしばらく前に読売新聞で次の作品である「ダークナイト」内のセリフが英語の例文として何回か取り上げられているのを読んで、シリアスな人間ドラマであるらしい「ダークナイト」を見たいと思っていたのです。
 同じクリストファー・ノーラン監督によるこの「ビギンズ」も昔テレビで見た「バットマン」の印象とは全然異なる映画でした。
 ウィキペディアの記述にあった「復讐、自分への罪悪感、悪とは何か、正義とは何かといった葛藤に悩まされる」主人公という映画で、先日読んだ辻村深月さんの「僕のメジャースプーン」といい、近頃「復讐」と「正義」というようなテーマについて考えさせられています。
 そんな「バットマンビギンズ」のことを考えながらも、この間の全国ろうあ者大会の手話通訳のことなんかも思い出したりして、「自分にとって手話通訳っていったい何なんだろう」などというテーマが頭の中をぐるぐる回ったりしていました。
そうしたら地元の手話通訳者養成講座のろう講師仲間から「私の地元の奉仕員養成講座の講義を担当してくれないか。テーマは『ボランティア』」と頼まれました。
手話通訳として「聴覚障害者」に関わる自分にとって『ボランティア』って意外と難しいテーマです。例えば「耳の聞こえない人が困っているから、自分のできることをして助けてあげる」というスタンスでは絶対『手話通訳』はできないわけです。『ボランティア(手話)通訳』なんて言葉がありますが、それは「ろう者の母語である手話を少しでも身につけて友達になる(友達として手伝えることをする)」程度の意味合いになると思うので『通訳』という用語をくっつけることには何か違和感があります。『手話ボランティア』といえばいいのかな。
 一方で私のようなプロ(専従)でない、週末ボランティア手話通訳者にとっての「ボランティア」とはいったい何なのだろうか?と前からいろいろ考えていたのですが、それは「文化的共鳴者(共感者)」なのかなぁ~などと結論づけつつあります。
 先日の全国ろうあ者大会を通じて、ろう者の「サポート(支援)をする」手話通訳というより、地元のろう者仲間が企画・準備してきた大会に聴者の自分ができる参加方法としての「手話通訳」みたいな意識を感じたのです。逆にいうと大会そのものは「あくまでもろう者のろう者によるろう者のための全国大会」であり、私はその趣旨に賛同(共鳴・共感)して、聴者として「手話通訳」という形で参加させてもらったような気持ちがするのです。
 バットマンビギンズとは一見、全然関係ないようにも思えるのですが、何というか全国大会を前にして「思いっきり手伝おう」「手伝いたい」と思っていた自分に「大会はろう者の手でやるから手話通訳だけをやってくれればいい」あるいは「今日は広報部員として来ているのだから手話通訳はしなくていい」と言われて、何かもやもやしていた自分の中の気持ちが、「僕のメジャースプーン」と「バットマンビギンズ」を見て、自分の中の正負の気持ち(人の役に立ちたいという気持ちと人助けをすることの優越感みたいな気持ち)の「葛藤」とかあれこれ考える中からちょっとすっきりした気持ちになれたみたいなんです。その結論が「ろう(日本手話)文化に対する共感者としての手話通訳者」が今の「ボランティア」手話通訳者である自分のポジションなのかなぁ~などと考えたりしています。甘いかな・・・。
まぁ私のことはさておき、とても面白い映画でした。一緒に買った「ダークナイト」がさらに楽しみになりました。なっかなか見る時間を取れないんだけど。
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