木のつぶやき

主に手話やろう重複の仲間たちのこと、それと新聞記事や本から感じたことを書き込んでいきます。皆様よろしくお願いします。

こういう手話通訳者をのさばらせていいのか?

2005年03月26日 23時40分47秒 | Weblog
読み取りの通訳をしてきました。若い女性のろう者の発言がさっぱり読み取れず、しばしば「無言状態」を出現させてしまい、パソコン要約筆記に大いに迷惑をかけてしまいました。どうも私はろう女性の読み取りに関して苦手意識があります。視線が定まらないというのか、「口元を中心に視線を集中する」ということができないのです。
今日も自分がその女性の読み取りを担当することに決まった段階で「うう、自信がない」という逃げの気持ちになってしまいました。そもそもそういう後ろ向きの気持ちで通訳に臨んでいるので、ちょっと読み取れない部分が出ると、すっかり動揺してパニックになってしまいました。二人ペアで通訳していたので、サブの人にフォローして欲しいという気持ちが起きたのも余計に言葉を出なくしてしまいました。コンセントレーションの欠如というのか、気持ちを立て直せずに終わってしまいました。
終了後、年配のろう者から「君は全然ダメだ、もっと勉強が必要」と言われてしまいました。今日は優秀なパソコン要約筆記がついていたおかげで私の読み取り通訳の状況がほぼリアルタイムでスクリーン上に文字で再現されていましたので、舞台上のろう女性の手話表現と、スクリーン上の読み取り通訳者の声を文字化したものとを、客席のろう者が「比較」できたから、このように「通訳者を叱る」ことができたのです。パソコン要約通訳がついていなかったら「私の失敗・通訳の不全」はろう者の検証を受けることなく単なる「通訳者の反省」で終わっていたでしょう。
私が大いにめげたことはいうまでもありませんが、今日の場合は、参加者のほとんどが手話を解する人だったので「実害」は少なかったかもしれないことがせめてもの救いでした。(もしかして今日のパソコン要約筆記は、客席のためというより、パネラーが自分の発言が正しく読み取り通訳されているかチェックするためにあったのだろうか?)
ここで奮起して一生懸命勉強するべきなのですが、やっぱなかなか気持ちを奮い立たせることは容易ではありません。だからいつまでたっても上手にならないという「性格上の問題」もあると思います。ただ、自分の中に「永久に読み取れるようにはならないんじゃないか」という不安というのか、「自分にはやっぱ手話通訳の才能がないんじゃないか」という自己嫌悪の気持ちがわき起こって、めげるばかりなのです。若いときと違って、普段ろう者と会っておしゃべりする時間もほとんどありませんし、日常的にもほとんど手話を使うことがなく、たまの休みに依頼を受けて手話通訳にいくような「登録」手話通訳者である私がこの先上手になれるわけがない、という言い訳に逃げ込みたくなるのです。
本来、ここで最初に書くべきことは、私の下手な読み取り通訳によって「意見表明権」を侵害されたろう女性に対して手話通訳者としての私の責任はどうなんだ、ということだと思ったのですが、その答えは「そのような力量で通訳を引き受けることが間違っている」ということで終わってしまうと思いました。でも、「ろう者との日常的な接点のない、練習不足・技術研鑽もしてない私のようなサラリーマン通訳者は登録を降りるべきだ」という答えでは、問題解決にならない地域の状況(手話通訳者の絶対的不足)も一方ではあります。結局、下手なまま、なかなか効果的な練習もできないまま、また次の通訳依頼を受けることになる自分がホント嫌になってきます。
CODAを中心とした若い世代の真の日本手話通訳者が育ってきてくれるまで何とか「つなぎ」の役割を果たさなければということなのかな。
コメント
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