木のつぶやき

主に手話やろう重複の仲間たちのこと、それと新聞記事や本から感じたことを書き込んでいきます。皆様よろしくお願いします。

books19「ようこそ ろうの赤ちゃん」(全国ろう児をもつ親の会編著)

2005年03月25日 00時36分21秒 | books
以前、「手話でいこう」の記事におじょうひんさんからトラックバックをいただいて、「それじゃ”ようこそ ろうの赤ちゃん”を読んだら、こちらからもトラックバックさせてもらおう」と思ってて、ようやく今頃書くことができました。

1.「あとがき」の最後に、全国ろう児をもつ親の会代表の岡本みどりさんがこう書いている。

わたしたちの思いが届いて、ろう児にとって大切なろう学校で、日本手話による教育を選択できる日が、一日でも早く来ることを、心から願っている。

「願っている」ということは、そんな日が「まだ遠くにある」ことを示している。文部科学省の壁はまだまだ厚いのだ。「敵は本能寺」じゃないけど、ホントの壁は厚労省より文科省なのだと思う。公的教育の分野でろう者の人権が尊重されて初めて、ろう者のエンパワメント(能力開化・権限付与)が進むのだと思う。そして、ろう者の社会進出を拒んでいるのは、ろう者の持つ力を十分に引き出せずにいるろう教育に一番の原因があると思う。

2.奈良県の神戸さんは1999年の夏に行われた第11回ろう教育を考える全国討論集会に参加して”ろう児 ゆうき”が誕生した、と書かれている(154頁)。私も夏に行くなら全通研集会よりろう教育集会に魅力を感じる。何より参加しているろう者が皆”熱い”のだ。
このろう教育集会は「ろう教育の明日を考える連絡協議会」が1989年から毎年夏にやってる全国集会だ。去年(2004年)は第16回目の集会が広島で開かれた。とっても行きたかったけど、とてもじゃないけど広島まで行く金がなかった。年会費3000円を払うと「ろう教育の”明日”」という分厚い機関誌が年3回くらい送られてくる。この「考える会」には全日本ろうあ連盟(全日ろう連)も加入しているんだけど、この第11回奈良集会における鳥越隆士さんの講演は、全日ろう連にとってもエポックメイキングなものだったのではないだろうか。その証拠に日本手話研究所は、2001年11月にブックレット「手話・ことば・ろう教育」(鳥越隆士)を発行している。奈良集会における講演が下敷きになっている。

けれども全日ろう連の「日本手話」への対応は極めて厳しいものがある。
この「ようこそ ろうの赤ちゃん」を読んで、ろう学校で手話を正規に教えていないことを驚いた人は多いだろうけど、この本でこれほど親たちが願っている「日本手話」によるろう学校教育に対して、全日ろう連は「日本の聴覚障害教育構想-中間報告書」(「考える会」のサイトでpdfファイルをダウンロードできます。A4で127頁もありますけど…)の中で次のように書いていることをどのように受け止めるだろうか。

(4) 手話をめぐる問題
① 現在では、聞こえない児童・生徒に手話が必要であり、聴覚障害教育に携わる教師は手話で自由に会話できる力が要求される、ということは、少なくとも理念的には当然のこととされつつある。
ただ、その理念と聾学校現場との間には大きな乖離があるのが現実である。手話を身につける研修が保障されず、地域によっては、専門性を無視した人事異動が行われ、手話を身につけることを阻んでおり、結局、個々の教師の個人的努力に委ねられているからである。
② その中で、手話を「日本手話」と「日本語対応手話」とに二分し、聾学校では「日本手話」が保障されるべきである、という新しい議論も出てきている。
教師の手話能力がまだまだ低いこと、その手話も率直に言って片言程度のたどたどしい手話であり、発声を基本にした補助的なものとしている場合が多いことは事実である。従って、教師には、手話での自由な会話能力獲得が求められる。
ただ、手話を単純に、日本手話・日本語対応手話に二分し、両者を対比させる発想は、聴覚障害者の実際の手話、実際のコミュニケーション方法を無視し、紙上の理屈で手話を議論するものであって、賛成できない。
「日本語対応手話」とは、口話を補助するために使用される、日本語の手指による表現であり、後述する口話併用手話とは、異なる。つまり、「日本語対応手話」単独でコミュニケーション手段となるものではなく、口話の補助手段として、初めて意味を持つ。厳密な意味での「日本語対応手話」としては、栃木聾学校の「同時法」があり、それはそれで一定の言語指導に役立っている。手話と「日本語対応手話」とでは、言語の種類も使用目的も異なるのであって、同列に論ずることはできない。
聴覚障害者の手話は、口形を併用する場合もあれば、併用しない場合もあり、日本語を大きく取り入れる場合もあれば、そうでない場合もある。さまざまである。個人個人で異なるし、個人でも会話の場面によって異なる。それら全体が手話なのであって、聴覚障害者の使用する手話の間に価値の序列をつけることはできない。
重要なことは、手話の言語学的特徴が典型的に表れるのは、口話を併用しない「純粋手話」(日本手話)であり、こうした日本手話が他の様々な手話の-言語学的な特徴の理解でも、その使用・習得においても-基本になる、ということである。


論点がねじれていると僕は思う。先の岡本みどりさんも「日本手話による教育を選択できる日が」とわざわざ言葉を選んでいると思う。成人聴覚障害者のコミュニケーション手段に様々なタイプの手話があることと、これからバイリンガルとして言葉を身につけていこうとする子どもたちにとってネイティブな言語である「日本手話」で教育して欲しいということとは、次元の異なる議論であることは明らかだ。
また、現場のろう学校教師が「日本手話を身につけられない」という問題点が、なぜか「紙上の理屈で手話を議論するもの」という論点にすり替えられている。日本人英語教師の英語がなかなか上達しないという課題があるなら、もっとネイティブ・ランガー(外国人)教師の活用をしていこうというのが昨今の教育界の流れではないだろうか。「ネイティブ英語を望むなんて、くだらん理屈だ」などという教育者がいるだろうか。しかし、残念ながら(これは僕の気持ち)、全日ろう連の現在の「教育における日本手話」に対するスタンスは、このような「ねじれ現象」が起きていると僕は受け止めている。「ようこそ ろうの赤ちゃん」を読んだ方は、身近なろう協役員に聞いてみよう、「この本には、日本手話で学びたいって書いてありますけど、どこがおかしいんですか」と。

3.広島県の山中さんは、「手話サークルの手話では、”正確には通じない”んだ!」と書かれています(66頁)。また、東京都の宮坂さんは「実は、わたしがつかっていた手話は、まちがいだらけだった。ななみが自然とマスターできる手話、つまり日本手話ではなかったのだ。」(139頁)と告白されているのです。

全国で手話を学ぶ私たち、手話サークルの仲間たちは、この言葉(叫び)をどのように受け止めたらよいのだろうか。確かに全日ろう連が言われるように「聴覚障害者の手話は、口形を併用する場合もあれば、併用しない場合もあり、日本語を大きく取り入れる場合もあれば、そうでない場合もある。さまざまである。個人個人で異なるし、個人でも会話の場面によって異なる。それら全体が手話」なんだと思う。それでも僕は、これからこの本に書かれたようなろう者がどんどん増えてくることに対して手話サークルも手話講習会指導者も何らかの対応が求められてくることを覚悟しなければならないと思う。「何らかの対応」ったって「ベテランも講師もひたすら謙虚に勉強やり直す」しかないんだけどね。

4.愛知県の木村さんは「口話教育に走った2年間」を振り返って、最後にこう書かれている。(171頁)

子どもの耳が聞こえないといわれたばかりの親にとっては、最初に接する医療機関やセンターの一言は大きい。かたよった情報ではなく、ろう文化や日本手話のことなどをふくめた、いろいろな情報を伝えて欲しい。
 子どもの成長ははやい。赤ちゃん時代なんてあっというまだ。ほんとうの意味で、幅広い選択肢から親が選べるようになって欲しいと願っている。


重い言葉だ。この本は、親たちの心の叫びと、そんな親たちを解放した「日本手話を取り戻した」ろう児たちのまさに「成長」記録です。
<参考サイト>「新生児聴覚スクリーニング支援ネットワーク

ようこそろうの赤ちゃん

三省堂

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コメント (1)
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