かんじゃまのつぶやき(海の見えるチベットより)

日本一細長い四国佐田岬半島での慣れない田舎暮らしの日常や風景、
  そして感じたこと、思い出などをひとコマひとコマ

亡霊から江藤新平まで

2007-09-03 12:10:26 | 田舎の生活
先日、親戚からわが町の『町誌』を借りてきた。昭和60年発行だ。我が町、我が地区のことで、どうもわからないことが多すぎるので、『町誌』を見ればいろいろ書いてあるのではないかと思ったからだ。何だか強い味方を得た気分で、早速、いくつか気になっていることを拾い読みしてみた。

まず、以前8月14日付のブログで書いたお盆行事の「もうりょう」だが、どういう漢字を書くのかわからなかったが、「亡霊」と書くようで、この漢字だと普通に読めば「ぼうれい」と読んでしまうが、「今年1年間に亡くなられた人」という意味だそうだ。
それから、8月13日付のブログで書いた「うら盆」だが、本来お盆のことを正式には「盂蘭盆会(うらぼんえ)」というが、その「盂蘭」ではなく、「地蔵盆」のことを我が地方では「うら盆」と称しているようで、8月24日がその日に当たるようだ。
『ウィキペディア』などによると、地蔵盆はお寺の中に祀られている地蔵菩薩を対象としているのではなく、路傍や辻の地蔵が対象になっているようで、元は地蔵会、地蔵祭と呼ばれたが8月24日が裏盆にあたることから、盂蘭盆にちなんで地蔵盆と呼ばれるようになった・・・」とある。また、他のHPなどでは「お盆のあとの地区ごとに都合の良い日に行われる子供祭りのこと」などともあり、やはり我が地区の「うら盆」の「うら」は裏表の「うら」の意味のようでもある。 

そして、8月19日付のブログで書いた西郷隆盛や江藤新平のことであるが、母方の祖母の話は少し違っていて、その祖母方(『町誌』を貸してくれた親戚)の人の話では、宿泊したのは西郷隆盛ではなく、江藤新平のようだ。佐賀の乱の後、江藤新平はやはりこの半島を経由して高知県に逃亡したようで、『町誌』には、「江藤一行は船で三崎に立ち寄り、隅田邸に投宿し、宿泊の謝礼としてか、当時としては珍しい鉛筆を置いて密かに出発したことが言い伝えられている」(『伊予史談』より引用)との記述がある。さらに、三崎を発った後、我が地区より八幡浜へ向かったともある。今は私が菜園として使っている場所にそんな歴史があったことが、いよいよ真実味を帯びてきた。しかし残念ながら、今はそのことを証明する何の証拠もない。 


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